川島 正仁ホームページ 著書「花の道」のタイトル画像

   | 「花の道」トップ | Webダイジェスト版 | 第2部プレゼント | 紹介記事 |

川島 正仁ホームページ 民芸品の画像Webダイジェスト版

 9.五年ぶりの帰国

こうして、私は五年ぶりに帰国の途についた。

ブエノスアイレス、リマ、ペルー、ボゴタ、コロンビアそしてロスアンゼルス、 最後に羽田と、実に三十時間の空の旅だったが、五年前のアルゼンチナ丸での五 十日にも及ぶ船旅に比べると、夢の如しである。

羽田には、母、姉の弥智代、そして一番下の弟の暁人が迎えにきてくれていた。 羽田からは、タクシーで千葉の自宅へ向かう。

「あれ、母さん、海がないじゃないか?」

私がアルゼンチンヘ旅立った時は、国道十四号線の下は海だった。 その海の恵みによって、母は私達五人の子供を育ててくれたのだった。

聞けば、私が去ってからまもなく、東京湾の埋め立て工事が始まったという。 つい最近完成したという埋立地の上には、何万人もが暮らせるマンションが林立している。 浦島太郎の心境が、切実に分かる。

私が育った家も保証金で建て替えられ、二階は学生寮になっていた。 保証金は上手に使わなければすぐに亡くなってしまうという母の考えから、 六つの部屋に区切って近在の大学に通う学生を入居させ、母が賄いを始めたという。 兄や姉達は東京へ出て、一階に住んでいるのは両親と暁人の三人だけだった。

「正仁、ほんとに良く帰って来たねえ。お前がアルゼンチンから送ってくれたお金には、本当に感謝しているよ」

私は、エスコバルの谷村農園にいた当時、給料を残らず母に送り続けていたのである。

半年程後、漁業権放棄によって補償金を得た母からの「もういいから、自分のために使いなさい」 という手紙で、仕送りをやめたのだった。

海がなくなり、外観がすっかり変わってしまった私の故郷。だが、稲毛の地区だけでなく、 この日本の何がどう変わったのか、私にはわからなかった。五年間の貴重な体験を通して 得た知識や語学力をどのように生かすか、それが問題だ。私の回りには、相談出来るような人物がいない。

「正仁、とにかく今は何もしないで、まずは運転免許でもとりなさい。そのうちだんだん見えてくるから」

赤坂の有名なナイトクラブで売れっ子になっていた姉が、そう言って自動車教習所の費用を出してくれた。 これは、本当に有り難かった。何せ五年間一心不乱に働き、酒もタバコもやらずに貯めた金は、 帰国の費用で消えてしまったのだ。空港に着いた時は、全くの無一文だったのだから。

姉の勧めに従って、私は稲毛の自動車教習所に通った。その間、弟の紹介で配達助手などのアルバイトをやり、 新聞の求人広告にも毎日目を通した。そして、某商社の西語堪能者の募集広告を見つけた。

「これだ。すぐ行ってみよう」

だが、面接の担当者は、開口一番にこう言った。

「君は、高校卒か。ここは、大卒以上だ」

ほとんど門前払いだった。アルゼンチンで体を張って生きてきた私には、学歴の持つ意味が理解出来なかった。 なぜ、それほどまで学歴にこだわるのか。実に無念だったが、帰宅時までにはすっかり忘れていた。 嫌な事にいちいちくよくよしていたのでは、先へ進めない。

「アスタ マニャーナ」、これが私が五年の間に学んだ生き方なのだ。 そうこうしているうちに、何とか運転免許を取得することが出来た。 アルバイトも一生懸命やっていれば、結構いい金になった。

「稼いだお金は貯めて、これからの目的のために便いなさい」

母は、そう言ってくれた。

「これで暁人と万博に行ったら、気晴らしになるわよ」

姉もいろいろ気を使ってくれ、事あるごとに小遣いを置いていってくれる。 万博の規模は、驚嘆すべきものだった。これだけのことを日本が出来るようになったと思うと、 その躍進の力に驚く一方、学歴社会を思い知らされた苦い経験が頭をよぎる。

結局、おれが生きる場所はラテンアメリカしかない…そんな思いがこみあげてきた。

友人の紹介で、西語の堪能者を探していた真珠店に勤めることが出来た。

「川島君、これからはラテンだよ。君に期待しているからな」

店のマネージャーが言った。だが、真珠をセールスすると言っても、誰に売ったらいいのか。 店としては、旅行会社やガイド達とタイアップして、外国人観光客の市内見学のプログラム に組み込んでもらい、リベートを支払っていた。

勤めて一週間、観光客はぼちぼち来るが、売り上げは簡単には伸びないようだった。 私は、自分で客を見つけなければならない。私は、焦っていた。その日もあっという間に暮れ、 帰りの電車に乗った。田町、新橋と過ぎた頃、突然聞き慣れたスペイン語の話し声が耳に飛び込んできた。

「オーラ デ ドンデ ソン ウステデス?」(貴方は、どこから来たのですか?)

「ソモス メヒカーノス ケ ブエノ. ツ アーブラス ビエン エスパニョール」 (我々は、メキシコからです。驚いた、君はスペイン語がうまいね」

彼等は、メキシコの警察官だった。日本の警察システムを学ぶために、 総勢十一名で三か月間の研修旅行にやってきたという。

電車の中ではゆっくり話せないので、東京駅で下車し、近くの喫茶店に入った。 私にとっては、メキシコ人と親しく会話するのは初めてのことだった。

彼等の人なつこさ、陽気さは、同じスペイン系でも、アルゼンチン人とは全く違う。 たった今会ったばかりなのに、もう長年の知己のようだ。 私が真珠店で働いていると言うと、

「そうか。それなら、早速お前の店に行こう。ちょうど真珠がほしかったんだ」

と、まるで疑うことを知らない。

翌日、私は彼等を引き連れて、颯爽と出勤した。マネージャーは驚き、あわて、 嬉々として私たちを迎え入れた。それにしても、彼等の買い方はすごい。その日は、開店以来の売り上げを記録した。

「川島君、おめでとう。大したものだ。これからも、しっかり頑張ってくれ」

と言われても、全くの偶然なのだ。こんなことが、続くわけがない。 だが、私にとっては、彼等と知り合えたということ自体が大きな意義を持っている。

仕事を終えると毎日彼等と会った。少しでも多く、中南米の情報がほしいのだ。 アルゼンチン人との違いも、良く理解出来た。

同じスペイン系ではあっても、ほとんどスペイン人とイタリア人との混血と言って いいアルゼンチン人は、正しくヨーロッパの血を受け継いでいるのである。 母国語であるスペイン語にも、イタリア語が数多く混入している。

例えば、カストロと共にキューバの共産化を成功させたチェ・ゲバラの「チェ」は、元々 イタリア語の「やあ」という呼びかけ語である。日本では柄の悪い言葉使いになってしまうわけだが、 アルゼンチンでは「チェ、チェ」と声をかけ合う。

要するに、彼等は白人なのである。それがために、インディオとの混血の濃い他のラテン諸国の人々にとって、 アルゼンチン人は鼻もちならない存在であり、私自身そのような場面にしばしば直面した。

白人社会であるアルゼンチンにおいて、島津氏のように花卉栽培や洗灌業以外のビジネスで彼等 に対抗している日系人は数えるほどしかいない。アルゼンチンの経済は、実にユダヤ人が握っているのである。

大戦後に集めた世界中の富は、時の権力者ペロン大統領とその夫人エビータの労働者人気取り政策によって、 またたく間に失われてしまった。アルゼンチン経済は衰退していく一方であり、 だからこそ私の場合も五年間死に物狂いで働き蓄えても、帰りの飛行機代さえおぼつかなかったのだ。

それに引き換え、メキシコは国民のほとんどがスペイン人とインディオの混血で、その国民性は純朴である。 地理的にもアメリカと国境を接していて、日本からは飛行機で十五、六時間、アルゼンチンヘの半分の時間で渡航出乗る。

「そうだ、メキシコヘ行こう。メキシコには、もっとチャンスがあるかもしれない」

私は、腹を決めた。

日本でのもう一つの目的は、指圧を覚えることだった。当時、日本指圧学校の開設者浪越徳次郎は、 テレビ等に引っ張りだこの人気者で、そのスローガン「指圧の心は母心」が一世を風靡していた。

私は、この指圧を覚えて中南米へ持ち込んだらきっと成功するに違いないと思ったのである。 年も明けて一九七一年、私は指圧学校に入る準備を始めた。入学試験には、見事合格。 アルバイトで貯めた金から入学金を支払い、人より早く覚えるために、私は住込みを希望した。

文字通り指先ひとつで成功した人物浪越徳次郎は、七十歳近くになるというのにすこぶる元気闊達で、 その親指は相撲取りのように大きく、真綿のように柔らかかった。

マリリン,モンローがジョー・ディマジオと来日した折、この親指がモンローの急性胃腸炎を見事に直し たというのは有名なエピソードである。

住込みでの勉強は、甘いものではなかった。朝は六時起床でトイレの清掃から始まり、 朝食、そして午前の講義。午後からは指圧の実習となり、生徒同志で互いに指圧をする。

私達は、これを「押しっこ」と呼んだ。生徒は高校を卒業したばかりの者から定年退職して第二 の人生に挑戦しようという者まで、実に多彩であった。

私を含めて若い生徒達にとっては、素人の特に若夫人方との実習は、 誠に興味深かった。美人のパートナーを奪い合い、とにもかくにもいろいろな人と押しっこをするうちに、 実力を養っていった。

一か月もすると、毎日何時間もの実習のために、親指が痛くなってきた。それでも委細構わず、ただ押すのである。 先生はそばにいて、生徒の押し方をチェックするだけだ。手の力で押すのではなく、休の重みを手にかけるのが ポイントだ。でなければ、たちまち手が疲れてしまう。

毎日何人もの、多い時には十数人もの患者をみるのだから、このポイントをマスターすることは必須条件である。 指の痛みもやがて薄れ、私はもう、一人前に指圧出来るまでに上達した。そうなると、すぐに客をとることになった。

だが、あくまで生徒という身分で、一円の報酬もない。学費は全額支払い済なのだから、 儲けは丸々学校のものとなる。生徒の実習にはなるし、こんなにうまいビジネスもなかろう。

とはいえ、住込みの生徒は、通学の生徒よりはるかに上達が早い。外来の患者に直接指圧を施し患者の数を こなしていくに連れ、私は次第に自信が持てるようになった。指も痛くなくなったし、何人指圧しても疲れを感じない。

折しも、ボクシングの世界チャンピオンである柴田国明が、近々メキシコの挑戦者クルスと タイトル戦を行うことが決まった。

柴田国明は体を痛めて一時引退まで考えていたのだが、浪越徳次郎の長男であるトオル先生の指圧によって、 見事にカムバックを果たしたのだった。

私は相手がメキシコ人だと聞いて、自分からトオル先生にスペイン語が堪能であることを話し、 通訳として使って貰えるよう、柴田のマネージャーである米倉会長に頼んでもらった。 米倉会長にとっても渡りに船であったらしく、話はすぐにまとまった。

通訳の相手は、挑戦者クルス、マネージャーのパンチョ・ロサーレス、トレーナーのセニョール  マルティン、そしてドクトール ナバーロの四人であった。全く言葉のわからない国に来た彼等は、 私の存在をとても心強く思ったようだ。

私としても、近い将来メキシコへ行くことを考えていたこともあり、彼等に対して誠心誠意尽くした。 運転もうまいとはいえないし方向音痴でもあったが、私は友人の武藤から格安で譲り受けた車で、 彼等の送り迎えまでかって出た。

そして、ついに試合の日がやってきた。実を言えば、私は内心クルスを応援していた。 当然のことながら、クルスが勝った方が私がメキシコヘ行った時好都合だろうという計算からである。 しかし、現実は甘くなかった。

ゴングが鳴り、両者中央に歩み寄った。チャンピオンのコンディションは、最高だった。 ろくに打ち合う間もなく、チャンピオンの右ストレートがクルスの顔面にさく裂した。 見事なノックアウトだ。一ラウンド一分数秒、ボクシング史上二番自の最短試合となったのである。

その夜、プロモーターから、高輪プリンスホテルのレストランでの夕食会に招待された。 私は、惨敗したクルスの一行を連れて行った。たまたま来日していたかの有名なトリオ・ロス ・ディアマンテスのメンバーたちも招かれていた。

ディアマンテスのメンバーは、マネージャーのロサーレスとは長年に渡るアミーゴなのだった。 クルスたちは、遠いメキシコかちやって来て、実力を出す間もなく敗れ去ってしまった。 ディアマンテスは、彼等を元気づけるために、メキシコの最も明るい歌を歌った。

こうして、彼等は翌日、羽田を発って行った。彼等の飛行機を見送りながら、 私は近いうちにメキシコヘ行くことを確信していた。

ブエノスアイレスにいるとばかり思っていた弟の博志から、手紙が届いた。 なんと、アメリカのロスアンゼルスからであった。結局、弟はブエノスでの生活に愛想を尽かし、 マルデルプラタのあの土地を友人に売って、船でアメリカヘ渡ったのだった。

そこで、弟はスクールボーイをしながら、アメリカの大学を卒業したいという。 アメリカの金持ちの家に書生のような形で入り込み、住居と食事を保証してもらう代わりに、 簡単なキッチンワークを手伝いながら学校に通う青年を、当時スクールボーイと呼んでいたのである。 日本からは女性を含め数百人の青年たちが、スクールボーイとして留学していた。

「そうか、アメリカか。メキシコヘ行く前に、俺もひとつアメリカヘでも渡ってみるか」

何と言っても、アメリカはいろいろな意味で世界一の国である。若いうちにそんな国を見ておくのもいいだろう。 誠に変わり身が早いというか移り気というか、そう考えた私は、早速弟に返事を書いた。 勿論、条件のいいスクールボーイの口を探しておいてくれという依頼である。

浪越徳次郎は、参議院議員を狙っていた。すっかりテレビの人気者になり、周囲も次の参院選では絶対当 選するだろうと考えていた。そして、全国区から立候補した。

生徒の中で大型の運転免許を持っている者は、キャンペーンカーを運転するはめになった。 他の生徒は、ビラ配りである。私も、銀座、新宿、とにかく人の集まる所で連日ビラ配りをさせられた。 もちろん、報酬など全くない。腹の中は煮えくり返る思いだったが、 仕方ない。皆、学校を卒業するまでと、我慢していた。

しかし、私にとっては、この参院選がよい転機になった。

その頃の私は、客の反応からして指圧には既にかなりの自信を持っていた。 指圧学校に入学して、ちょうど三か月が過ぎようとしていた頃である。

アメリカへは、何で行こうか。飛行機か、船か。船なら二週間はかかるし、 二等の運賃は飛行機代とほぼ同じだ。アルゼンチナ丸での苦い経験があるにもかかわらず、 私は船を選んだ。今度こそ、かわいい女の子を見つけて楽しまなくちゃ、という下心からである。

それが無理だったとしても、二週間のうちには、きっといい友達を作れるだろう。

著書「花の道」 トップに戻る

 前に戻る←  ★   →続きを読む

 ・ 
 ・ 1. 少年時代
 ・ 2. 力行会
 ・ 3. アルゼンチナ丸
 ・ 4. 渡嘉敷農園
 ・ 5. 谷村農園
 ・ 6. 海老農園
 ・ 7. 弟の来亜
 ・ 8. 花の都
 ★ 9. 五年ぶりの帰国 ←現在のページ
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
 ・ 15. ミチルとの新しい生活