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 14.在メキシコ日本大使館に勤務

こうして私は在メキシコ日本大使館に勤務する事になった。

オフィシャルパスポートが交付されたが、その時はティプロマティコ(外交用)との差は知らなかった。 両親にその旨を話すともう彼らも慣れたものだった。

「ああそうか、今度は大使館か」

そんな具合だった。

メキシコの飛行場に到着する。これが二回目だ。入管にパスポートを渡そうとすると、

「川島さんですか。私は盛田です。あなたの前任者です。これから案内します」

パスポートとクレームタッグを彼に渡すと、後は簡単だった。 彼は顔パスで自由に飛行場に出入りしていた。部下の大使館の運転手も慣れたもので、 私の荷物を受け取ると、アライバルターミナルに隣接,しているオフィシャル用の駐車場から車を出して、 まずホテルに直行した。

ブリストルホテルといって大使館の近くにあり、よく大使館関係の職員が使用し、プライスも特別価格になっていた。 ホテルには武田氏が待っていた。当時彼は一五年の大ベテランで、総務会計課に属し、大使館の事なら何でも知っていた。

外務省から上司として赴任してもせいぜい二、三年、長くて四年で言葉、要領を覚えてもすぐに移ってしまうので 大使館の運営上武田氏のような人物は実に便利であり、その人脈がすごかった。

へたな官員が外交官かぜをふかしても、その上司、またはOBの中で武田さんの事を知らない人はいなかった。 メキシコ大使館の名物男であった。

チェックインも済んでいたので、私はそのままキーを受け取って荷物を部屋に入れ、ロビーに戻った。 その日は武田さんの招待であった。現地時間で午後七時を少しまわったところだった。

当時JALの直行使(バンクーバーでオイルを給油)は三便あり、日本は午後六時に出発、メキシコ到着も同日、 同時間、すなわち午後六時に着くという不思議な現象が起こっていた。それは日本とメキシコの時差が一五時間、 そしてフライトタイムがまさに一五時間かかったからである。

私は何度も外国旅行をして、こういう事には慣れているものの、 出国と入国がピッタリ一致するというのは不思議な気持ちにならざるを得なかった。

そして、食事は市内一流のレストラン、それから日本人がよく行くというナイトクラブに案内された。 名前は「RUN・RUN」(ルンルン)といった。英語のランランだが、スペイン語読みでルンルンとなる。 それが日本人の間にも定着していた。市内に住む日本人男性で知らない者はおそらくいないに違いない。

店の内部は薄暗く、女性の顔もよくわからない。まずボーイに案内されテーブルに着く。 奥の方にすわっていた女性が我々に寄って来て、「プエド センタル」(そこにすわっていい)と 尋ねてくる。一目見て気に入れば、「シ、コモノ」(もちろんいいよ)と言ってやる。

だいたいこれで商談は成立する。あとは値段の交渉だ。しかし今回は、こういう店もあるんだよ、 この場所を知っておくのもこれから非常に大事だよ、という事で武田氏は私を案内してくれたわけだ。

何といってもメキシコシティは二二四〇mの高地にある。富士山の七合目の高さだ。したがって空気も薄い。 夜も早いし、疲れも早い。とにかく今日はもう寝よう。

翌日午前九時に森田がホテルに迎えに来てくれた。これから大使館に初出勤だ。まず会計課に直行する。 その時の会計官は吉井さんといった。私はこの会計課に属し、主な仕事は便宜供与。 その名の通り便宜サービスを供与、つまり便宜をささげるのである。

日本からのお客様は、上は皇族、代議士から、大使、書記官、新聞記者、他省の職員。 メキシコは中南米の拠点でありしたがって中南米諸国の他の地域からの赴任、離任に際して立ち寄る外務省、 大使館関係の人たちが圧倒的に多かった。飛行場でのミーティング、そしてホテルまで同行し、私がガイドをする。

そのためにメキシコの歴史、地理、その他いろいろな事を勉強しければならなかった。 市の中心部より五〇km北に行った所に、そこはメキシコ州に入るが、約二〇〇〇年前に一文明を築いた テオティワカンの大遺跡があった。テオとはナウアトル語で神を意味し、すなわち神々の住む場所という意味になる。

月と太陽のピラミッドがあり、それを死者の道がっないでいる。実に荘厳な場所で特に一片二二四mの大ピラミッドは、 高さ六四mの頂上に登り、あたりを見回すと、その昔この大神殿において重々しく神々の行事が行われていた様子が目 に浮かぶようだ。

メキシコシティを訪れるお客はほとんどこのテオティワカンの大ピラミッドと、 市内にある考古学博物館を必ず訪れた。したがって私も日系人旅行者のガイド程度の知識は自然に身についてしまう。 日本での大阪万博の太陽の塔は、岡本太郎がこの博物館からイメージしたものだ。

私もすっかりメキシコの習慣に慣れ、運転手からも信頼されるようになった。アルゼンチンで苦労した語学、 身をもって学んだ体験が今役に立っている。

しかしどんなに仕事を見事にこなしても、私の立場はオフィシャルで、ディプロマティコ(外交官)ではない。 日本の外務省の外交官から事務官に至る日本人スタッフと、現地雇用の従業員の間の、いわゆるクッション、 まとめ役であり、すべての運転手は私の配下に入り、毎日スケジュールをたててトラブルがなくスムーズに 動くように使うのが主な役目である。

その他にはお客様の代議士、外務省の役人、大使、公使、書記官などの外交官、 そして新聞記者などの外部からのお客の接待(客によって便宜供与ランク表を渡され、それにしたがって サービスの内容が異なってくる)が仕事だ。

もちろん優秀な役人も多いが、何カ月もいると自分よりはるかに能力の低い役人に使われるという事が非常 にしゃくにさわってくる。いくら頑張ってみても地位が向上するわけでなし、オフィシャルの立場では与え られた給料だけで住居手当もなく、当時メキシコペソは対ドル二・五ペソで、現地の物価は日本よりも高く、 すべての給料を払っても二LDKのアパートの家賃すら払えなかった。

したがって新聞で物色し、近くの食事付の下宿に入るしかなかった。 せっかく試験にパスして日本から来たのに、これでは何のために来たのかわからない。 こんな事なら日本でガイドをやっていた方がよっぽどいい。

こういう点にも日本の官僚制度が災いしているのだろうか。 外交官試験をパスすればあとは何をしていてもよほどの失敗をしない限りその年になれば大使の職につける。 彼らたちの多くは、自分たちは最高だというプライドとコンプレックスでかたまっており、回りを冷静に判断する能力に欠ける。

結局大事なポイントは国と国が直接コミュニケートするので、大使の主な役目は接待である。 代議士や偉い人が来た時だけ館をあげて接待するが、あまり個人的に関係のない人たちにはアテンドをしない。 某大使は、すべての個人の生活費を公費によってまかなっていた。

メキシコではその当時、輸入車に対しては一〇〇%以上の輸入税が課せられていた。 ディプロマテイコ(外交官)はその特権を利用して、米国から無税で購入できた。 米車は国産車よりははるかに性能が良かった。したがってメキシコ人の金持ちはこぞって米車を手に入れようとした。

しかし輸入を無制限にしては外交官でいる間何台でも輸入してしまう。そこで半年間は他人に売る事はできない。 そして任期が終了する時点で二台目を売ることができた。だいたい二、三万ドルのフォード車を買って半年使 用して売るとすると五、六千ドル高く売れた。

メキシコ人はかわった車を好むので、天井に窓をつけたり、 いろいろ工夫すると、少し高くつくが売る時もさらに高く売れた。わたしは彼らのこづかい稼ぎの手伝 いを一生懸命やっていたわけだ。これでおもしろいわけはない。

大使だけはベンツなどの高級車を輸入できた。当然何万ドルというプレミアムがつく。 そういうわけだから半年後というわけにはいかない。任期終了時に限られていた。 だからそれまであまり乗り回すわけにはいかない。運転手にはよく言って手入れをさせたものだ。

私たちオフィシャルは買うことはできないが、一時輸入は可能だった。 そこで前任者の森田は国境まで返却するのが面倒くさいので、私に何とかかんとか理由をつけて結局五〇〇ドルで売った。 一九六〇年代後半のファルコンだ。これが後で私の命を救うことになるから、人の運とは不思議なものだ。

S書記官は二等書記官となり、政務を担当した。M理事官はやっと三等書記官になり、文化担当になった。 もうメキシコにもすっかり慣れたようだ。

商社に務める友人Yから電話があり、日本から友人の紹介で三人の女の子が来たので、 今日は彼のアパートで歓迎会をやるという。そこでSにその旨を伝えたら彼も一緒に行きたいという。

早速私の車で彼のアパートに行く。アパートはソナロサ(赤いゾーン)、 メキシコシティで最もにぎやかな地区の、そのすみにあった。

私はS書記官を隣に乗せてソナロサに入り、カージェ・アンブルゴ(ハンブルク)を真っすぐ進行した。 その時だった。ドーンとものすごいショックで、私の車は一八○度回転した。 相手はランブレルの新車だった。横っ腹をたたかれたらしい。

ケミラグロ、奇跡的に私はかすり傷ひとつ負わなかった。 さすがに外車である。相手の車の前部がドアに食い込んでいた。

このソナロサのすべての通りは世界の有名、重要都市の名前が使われており、 相手が突っ込んできたカージェ・ロンドレス(ロンドン街)はアンブルゴよりも優先で、 私は一時停止しなければならなかった。

しかも不注意で保険に入っていなかった。このままではこちら側が負けてしまうのでこういう ケースの保険屋に仲介に入ってもらうことにした。一回いくらというように今度の事故の処理 のみに働くのであった。

今回は二〇〇ドルを支払った。しかしそのままにしておいたら相手側にその何倍もの賠償金を ふんだくられてしまっただろう。私が大使館のオフィシャルだったという事も有利に働いた。 日本以上に官権に弱いのだ。

Sは私を事故現場に残し、一人先に友人のアパートに行ってしまった。なんて薄情な奴だと思ったが、 勉強に明け暮れて社会性を養う暇もなかったのだとあわれむ事にした。愛車ファルコンはもう使 いものにならなかった。

一応特別にオフィシャルとして一時輸入しているわけだから、 こういう事についてはベテランのセニョーラ・ビバに頼んでうまく処理してもらう事にした。

何といっても私の命を救ったのだ。もしあれが日本のダットサンだったらぺしゃんこになって、 こんなにはしゃいではいられなかった。コロリン・コロラド(めてだし、めてだし)。

こうして私は相手側、そして警察と話をつけ終わってから彼の家に向かった。 まあ、残念だが仕方がない。命あってのものだ。七〇〇ドルですんだのだから安いものだ。こう自分でなぐさめる。

アパートにはすでに私を除く全員が来ていた。Sは私の事故の詳細を伝えてないらしい。そこで私は理由を話した。 私がピンピンしているので誰も事故の程度はピンとこない。三人の彼女は日本から持参したインスタントカレー をごちそうしてくれた。久しぶりに食べる日本食はうまかった。

ふだん下宿では朝はウエボ・フリート(いり卵)、トースト、カフェ コン・レチェ(カフェオレ)。 昼食はなしで、夕食は肉をメインにしたまあまあの食事だった。

市内には何軒もの日本食レストランはあったが、値段だけは非常に高級だった。 しかし役得で、お客を接待している時は、食事だけは高級店で食べられた。

ピラミッドに行った時は、その近くにあるグルータ(洞穴)という、本当の洞穴をレストランに アレンジした非常に雰囲気のある店で、メキシカン料理の定食を食べさせてくれる。

とにかく中南米に駐在する日本大使館に勤務する職員が帰任の際立ち寄るのが、ここメキシコだ。

というのは、ここからJALの直行便が出ているので非常に便利だからだ。 しかも週三便なので同日コネクションというのは不可能である。

コネクションを待つという理由で二、三日滞在できるわけだ。何とも都合が良い。私ども派遣員にとっては迷惑な話だが。 まったく、私の仕事は便宜供与で、何のことはない外務省の役人のためのサービスを提供するために生まれた機関にすぎない。

トコちゃんもいいところを紹介してくれたものだ。しかしこうして働いていると、 私の立場というのは何と割りの悪いことか。外交官特権もないから、自動車も無税で買えない。 飛行場もフリーパスで入れない。

仕方がないので、前任者もそうであったように、顔パスを作らなければならない。 テニスクラブも特別会員にはなれない。幸い私の場合は事務長に認められて会員にしてくれたが…。

しかしここでグチを言っても始まらない。少なくとも契約期間二年は何としてでも職務を遂行しなければならない。 特に不満をもったのは給料だった。まともなアパートに入れないのだから、何ともみじめなものだった。

大の男が下宿だなんて……。何度日本でガイドで貯めた五〇〇万円を使おうかと思ったことか……。 しかしそれでは来た意味がない。I公使に直談判して、住宅費の援助、もしそれが不可能ならば給料のアップを請願した。

実際のところ、この願いは私の任期中には実施されなかったものの、後任に間に合ったのは皮肉だった。 でもとにかくあたってみなければ結果はでない。

ある日、運転手の一人、ホルヘが血相を変えて飛んできた。

「セニョール川島、セニョール川島、エミリオが死んでしまった」

というのである。エミリオは数カ月前やとった雑用係である。 まだ二一才の青年だが結婚もしていて、子供も一人いた。その彼が死んだという。

「トランキーロ アベルクエンタメ」(落ち着いて話してみろ)

ホルヘもその詳細はよくわからないと言う。とにかく前日の日曜日に弟も一緒に死んだという。

エミリオは大使館の七人の運転手の一人、ラウルの遠い親戚だった。 話してみると人物もまじめで素直なので採用したわけだ。

ここで人を雇う時は、長年働いている従業員のリコメンデーションが一番確実だ。 大使館、特に日本大使館の仕事は比較的楽だし、二年前から武田さんが頑張って、 ドルベースにしている。給料もいいので定着率が高い。

したがって誰も彼もが大使館に務めたがっている。自分の紹介した人物が問題を起こせば、 当然自分の身に責任がくるから用心する。

私は彼らの責任者なので、武田さんから渡された香典を持って、ホルヘに運転させて出かけた。 メキシコの中心街レフォルマ通りを真っすぐ北にメキシコ州の州都、トルカ方面へ向かう。

チャプルテペック公園、そして大使館の公邸などが立ち並ぶ高級住宅街を通り過ぎるとちょっと したスラム地区に入るその当たりに、エミリオの家はあった。

ホルヘが言うには、このあたりは落下傘部隊だという。 その意味はいつの間にか落下傘で降下するように住民が知らず知らずのうちに住み着いてしまうからだ。

ゆえにここには家の権利証とか、そんなものは何もない。早い者勝ちだ。 そのうち既得権がついて、政府も何もいえない。この地区にエミリオは住んでいた。

ここでの葬式といっても簡単なものだ。近所の友人、家族が集まってくるだけだ。 子供を抱えて涙ぐんでいる女性が目に入った。彼女がきっとエミリオの若妻なのだろう。私は、

「ソイ セニョール カワシマ ベンゴ デラ エンバハーダ ロシィェント ムーチョ」 (私は川島といいます。大使館から来ました。今回は誠に残念なことです)

そう言って香典を渡した。聞けば土曜の夜、エミリオの弟の彼女の一五才の誕生パーティーがあったという。

ここでは女性は一五才をむかえると、正しく一人前の女になったということで、 家族総出の大パーティーをする。彼女をとりまく友人、ノービオ(恋人)はもちろん出席する。 最初に父親が踊りの相手となり、次にノービオとなる。

エミリオの弟は自分では当然招待されると思っていたのが、されなかった。 父親に反対されたからである。そこでエミリオをさそってそのパーティーの会場におもむいたのだ。 少し酒が入っていたらしい。そこで父親と口論した。

その直後、父親は彼らを外に連れ出し、有無を言わせず持っていたピストルで二発、 かわいそうにエミリオも巻き添えを食ってしまったのだという。 父親はその場から逃走し、いまだに行方がわからないという。

アルゼンチンでもいろいろな事があったが、今度の事は実に身近に起こったので、さすがにショックだった。

そんな時、在キューバ日本大使のN大使夫妻が、赴任のためメキシコに立ち寄るという。 早速飛行場にミーティングに行った。その大使夫妻に同伴していたのが、 後の我妻、大西ミチルだった。

彼女は従者、すなわち大使の料理人、コックさんだった。 日本で料理学校を卒業し、外国で実習をするのが念願だったという。

キューバの首都ハバナには明日のフライトで飛ぶという。私もそれっきり大使のことも、彼女のことも忘れてしまっていた。

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 ・ 1. 少年時代
 ・ 2. 力行会
 ・ 3. アルゼンチナ丸
 ・ 4. 渡嘉敷農園
 ・ 5. 谷村農園
 ・ 6. 海老農園
 ・ 7. 弟の来亜
 ・ 8. 花の都
 ・ 9. 五年ぶりの帰国
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
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