川島 正仁ホームページ 著書「花の道」のタイトル画像

   | 「花の道」トップ | Webダイジェスト版 | 第2部プレゼント | 紹介記事 |

川島 正仁ホームページ 民芸品の画像書評・新聞紹介記事


◎パブロ・ロペス・カント氏 (Internatinal Press 2000.4.22)

川島 正仁ホームページ 紹介記事  カミーノデフロル

 −より良い人生を求めてラテンアメリカに移住した川島正仁の半生−

 カミーノデフロルは小説ではなく事実に基く川島正仁の自叙伝である。 彼は日本人である。

 第二次大戦終了時に北京に生まれ、 中国政府により家族は日本に帰還せざるを得なかった。廃城と化した終戦後の日本の中で育った。

 優秀な生徒ではあったが貧しかった。その貧しさより大学を断念せざるを得なかった。

 60年代、日本が貧しかった時代にアメリカ大陸への移民を決意した。 ブラジルに行きたかったが、年が若くアルゼンチンを選んだ。

 ブエノスアイレスにてラテンアメリカの体験が始まった。 新大陸で川島青年は人格を形成し、精神を養った。 混血の文化を体験することになった。彼の夢が叶えられるまであちらこちらへ旅をした。

 彼の生き方はそれぞれの世代に生きた日本人移民を総括し、真面目かつ実直に生き抜いてきた。 ラテンアメリカで30年、中国で生まれた日本人として持つ感性を養い、ヒスパノアメリカの文化を愛する。

 川島は他のどの日本人よりも日本に在住する出稼ぎ移民者の感じ方考え方を理解している。 なぜなら彼もそうだったからだ。

 著書『カミーノデフロル』は優しく、真っ直ぐな気持ちで日本人の魂に訴えかけてくる。

 しかし、同様に日本の官僚主義に辛辣な批判をし、

 −彼らの親が血と汗と涙をかけて作り上げた財産である、 現実の社会において忘れられてしまってはいるが−

 髪を染め舌にピアスをしているような若い世代に呼びかけている。

 現在、川島は K. K. ワールド株式会社を経営している。 この会社は成田空港作業員のラテンアメリカ人労働者を雇用している。

 『カミーノデフロル』の初版は2000部で1996年に出版された。資金を調達し、 この度彼の第二の祖国であるメキシコにおいて両語版を翻訳、出版することができた。

◎パブロ・ロペス・カント氏 (Internatinal Press 1997.9.6)

川島 正仁ホームページ 紹介記事 「日本社会の脱官僚化を」

 作家カワシマ・マサヒト氏からの提言

 「日本は、官僚主導のもとに形成された社会です。官僚たちは、日本の伝統精神の最も良質な部分を消失・ 破壊させることによって社会的繁栄の理想像を作り上げてきました。」

 作家カワシマ・マサヒト氏は、こう断言した。同氏は、居心地のよい幻想に満ちた消費文化にどっぷりとつかった 日本の若者たちを救済し目覚めさせることを目的として、 自伝小説「花道」(カミーノ・デ・フロール)を執筆した人物である。

 カワシマ氏は警鐘をを鳴らす。

 「”オカミ”(官僚違)のせいで日本人は、凡庸でご都合主義的な生活を送っています。 日本の社会では全てが無批判のまま許容され、疑問にふされることはあリません。 このままの状況を許せば、日本社会は退廃の一途をたどることになります。」

 北京生まれのカワシマ氏(50歳)は言う。

 「もし君が有名校やエリート名門大学の卒業生でなければ、 官僚組織の重要ポストや指導層に食い込むことは不可能だ。 君はただ単に、社会的に何の意味もない人間、社会的には不幸な敗北者になってしまうだろう。」

 著書「花道」は、痛烈に日本社会を批判している。同書には、19歳で”デカセギ” として生まれ故郷を離れ、中南米諸国(アルゼンチン、ボリビア、メキシコ)に根付こ うとして辛酸をなめた一人の日系移民の視点が貫かれている。

 日本とは対極をなす中南米の社会や文化の中で、同氏は多くのことを学んだ。 それらは、同氏に偉大な精神力を見いださせ勇気づけたばかりでなく、 外側から日本を分析する機会を与えた。

 約30年にわたる海外生活の後、カワシマ氏は帰国し、繁栄し活力にあふれた日本と出会った。 しかし、彼が再会した日本は人の心が硬直した国になってしまっていた。

 電気新聞の経済記者シノザキ・エツコ氏は、カワシマ氏の著書に対して好意的な書評を寄せた。 彼女はその書評の中で、カワシマ氏が味わった失望感を次のように書いている。

「カワシマ氏ば優れた外国語の能力をいかして、日本の商社に職を求めた。 しかし、彼の希望は実現しなかった。彼が、就職の条件である大卒ではなかったからである。 カワシマ氏は、再びメキシコに戻らざるをえなかった。」

 上記の出来事が「花道」の著者心に深く刻み込まれたことは間違いない。

 カワシマ氏の著書は、官僚達によって描かれたのとは正反対の道への扉を、 日本の若者達に開いている。同氏は、若者違に語りかける。

 「成功というものは、一人の人間が人生の中で実行し意図するものによって、 その人間が幸せになることです。そのことがどんなに卑小にみえようともかまわない。 失敗することも必要です。失敗こそが、我々に過ちを学習させ、人生にとって貴重な体験になるのだから。」

 「エリートになったり、エリート集団に所属することは、幸せになることを意味しないし、 ましてやその人間の幸福を保証するものでは決してない。 私は、官僚機構の仲間入りをしないことが、その人間にとって人生の失敗だとは思わない。 官僚機構を温存するために、官僚になろうとすることこそが、我々の犯した失敗なのです。 だからこそ官僚達は、人生の成功は官僚になることだと、吹聴しているのです。」

 カワシマ氏によれば、日本の官僚機構は江戸時代(1603年)に生まれた。 武士階級が日本の政治、社会、経済、文化の支配権を確立した年である。

 「その時代に日本の行政は官僚化した。その後、官僚機構は明治時代に入って行 われた改革によって、より完成度が高く、斬新で、'”西欧的な”ものになりました。 もちろん我々は、官僚機構の果たしてきた功績を無視することはできません。 なぜなら、官僚機構こそが第2次世界大戦での敗北による苦しみの中から、 日本を救い、発展させだからです。しかし、その発展モデルは、もうその役割を終えました。 もう従来のやり方てば機能しなくなっているのです。もう時代遅れなのです。」と同氏は断言する。

 カワシマ氏は付け加える。

 「その証拠が現在我々が生活している社会の姿です。今の日本の社会には、理想も目標もありません。 金持ちはますます肥え太り、貧乏人の犠牲のもとにますます利潤を増やしています。汚職官僚達は、 マフィア組織との強いつながりを維持しています。今の日本の社会は、破廉恥きわまりない銀行や金 融機関のスキャンダル、権力に固執し、官僚や大企業の利害と癒着する長老政治がまかり通っています。 痴呆化、知識人達の低俗化、ロボット化が進行しています。」

 結局、日本は、国民が、消費税の増税のことも、銀行の低金利のことも、社会保険の増額のことも、 何も考えず何も疑問に思わないことと引き替えに、人々に全てのコモディティーを与え、 人々の財布を満たすような国になってしまったのである。

 「我々は今、漫画、暴力的なビデオ作品、くだらないテレビ番組の文化の中で生活しています。 最新モデルの家電製品と自動車の文化の中で生活しています。我が国の若者達は、 生きる方向性を見失っています。彼らは、自らが何を望んでいるのか、 どういう方向に進んでいったらよいのかさえ分かっていません。 男の子の頭を切り落とし、学校の校門に置いた少年のような、 暴力的な犯罪事件は、そうした今の日本の社会を象徴しています。 日本の官僚モデルは、行き場を失っています。我々は社会モデルを変えなければなりません。」

 その唯一の解決策は、官僚機構を脱官僚化させ、社会関係を民主化すること、 一般市民が批判精神を取り戻すことだと、カワシマ氏は考えている。

 同氏は、考察し意見を述べることは、反対の為の反対を意味せず、国の行く末に積極的に加わり、 自らも成長し、参入することだと考えている。それが実現される為にも、 まず日本の教育システムを脱官僚化させべきだと考えている。 そして、それは可能なことだろうか?と自問している。


◎篠崎悦子氏 (電気新聞 1997.3.18)

川島 正仁ホームページ 紹介記事

 活力に満ちたハングリーな半生

 実にハングリーな半生を記している。

 いま、日本人にもっとも欠けているものはハングリー精神だと、 どこの分野でもよく指摘される。そして、戦前や敗戦直後のハングリー根性はよく聞かされるのだが。

 この著者は・評者と同世代である。われわれが戦後高度成長の波に乗って、 気ままに苦労知らずの生活を営んできた間、彼は全く違う道を歩いていたのだ。

 とても新鮮な驚きを感じた。広い世界へ出でいって、こうした生き方もあったのだ。

 この本では、南米諸国をはじめ、ロサンゼルスなどでの労働現場で、壮絶な三十年を過ごした体験が、 歯切れのいい語り口でエネルギッシュに綴られている。

 著者は評者の高校時代テニス部の一年先輩であった。進学校であったが、 彼は三年間たっぷりとテニスに精根を注ぎ、国体には出場したが、国立大学に入るには遅すぎ、 早大からテニスで誘いがあったが私大にゆく経済力がなく、一念発起・移民船として最後のアルゼンチン号に乗って、 十九歳で労働者として単身アルゼンチンに移民していくのである。

 世間には、逞しく生きている人は多いはずだが、彼の場合、特別すごい。 異国の地で裸一貫、難しいところ難しいところと、つっこんでゆく。 男気と実力があると、どうしてもこうなっていくのか。世の表六玉たちに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。

 舞台はアルゼンチン、メキシコ、ボリビアなどと、まさにマカロニウェスタンを観ているようだ。 花の都ブエノスアイレスを飾る花々も、日系移民の農民たちが、血と汗で栽培の苦労を重ねた賜物だったのだ。 しかも、それが国の経済が不況になれば、花卉などといってはおれない状況にみまわれる。 メキシコの国家的破産や大地震で、ようやく築いた生活の基盤が、元の木阿彌になってしまう。

 そこからまた立ち上がるために、国民性が全く違い、なにごとも、よくつかわれる挨拶のとおり 「アスタ マニャーナ(また明日)」で処理していく風土の中で、まさに生存競争を戦っていくのである。

 また、外から日本を観ることになるから、その感想も鮮やかに鋭い。

 幾年振りかで帰国したとき、ふるさとの海がなくなっていた。

「あれ、母さん、海がないじゃないか?」。

 母親は、その海の恵みで彼ら子供五人を育て上げたのだったが。 千葉市の国道14号線のすぐ下は遠浅の海だったが、高度成長期に埋め立てられた。 今日ではさらにそれが発展して、団地群と幕張新都心などと呼ばれている。

 身につけた抜群の語学力で日本で商社に就職しようとしたが、高卒の学歴で相手にされず、 メキシコに戻ってゆく。現在は、南米と日本の架け橋として、幅広く事業を企画しているようである。 「日本に帰ると浦島太郎の気分だ」とはいうが、活力に満ち満ちた日本男児もいたものである。

 (かわしま・まさひと著、自分流文庫刊・自分流選書、千四百円)

 ホームエコノミスト 篠崎悦子

◎「懸け橋そして出会い 8 」 (讀売新聞 1997.1.17)

川島 正仁ホームページ 紹介記事  時を超え息づく「誠意」

 メキシコ人と千葉人との「出会い」は一六〇九年(慶長十四)にさかのぼる。 メキシコ出身のフィリピン政庁長官ら約三百七十人を乗せた船がメキシコに戻る途中、 上総国岩和田(現在の御宿町)沖で座礁、乗組員は辛うじて岸に漂着した。

 当時の御宿は寒村。だが、裸同然となった乗組員の姿を見た村人は、 米やナスなどのなけなしの食料を分け与えた。時の大多喜城主らも彼らを厚くもてなし、船で帰国させた―。

 「御宿町史」のこの史実により、御宿町と大多喜町はメキシコの友好姉妹都市となり、 来日したメキシコ要人は必ず足を向ける。

 それから約三百九十年。千葉県とメキシコとの「懸け橋」として活躍する一人の男がいる。 空港荷物を取り扱う会社を経営する川島正仁(五〇)(千葉市)だ。

 法務省によると、昨年六月の県内のメキシコ人は百七十四人で全国第二位。 うち約半数が川島が懸け橋になって来日している。 終戦直後の混乱期に生まれた川島は、貧しさから「将来はビッグに」との夢を持ち続けた。

 高校三年時、中南米で日系人か大活躍しているのを知り、「億万長者になり、皆を見返したい」 と移民を決意。アルゼンチンに渡った後、二十代半ばに今度はメキシコに移住。外務省の外郭団体の派遣員や通訳をした。

 七年前に帰国し、成田空港で荷物の運搬や仕分けをする会社を設立した。 入管法の改正で自由化された日系人の労働力を利用した。従業員四十四人のうち約半数が日系メキシコ人。

 しかし、会社は苦難の連続だった。日系といっても外国人。 「家族が病気になり仕事が手につかない。治療費をくれ」「故郷に残した妻が浮気者で、 家がほかの男に乗っ取られるから帰国させてくれ」と、 遠慮なくスペイン語でまくし立てるメキシコ人従業員の要求にほんろうされた。

 強盗されかけたこともあった。宿舎を回って従業員に給料を渡していた川島が、 次の寮へと車に乗り込んだ時、後部座席から覆面をした男に銃を突き付けられた。 車内には約三十人分の給料、計約二千万円があった。が、短銃がモデルガンと わかり短銃をもぎ取り、覆面をはぎとった。

 顔を見て仰天した。雇っていた二十歳の日系メキシコ人従業員だった。 給料の用意方法を知り、帰省と偽って休暇をとり強盗をたくらんだ。

 「飼い犬に手をかまれるとはこのことだ」

 しかし、粘り強く仕事に取り組む川島に、信頼を寄せる従業員も多く、 次々と家族や友人を呼び寄せ、いつの間にか県内メキシコ人の半数は知り合いになっていた。

 大学教授を辞め出稼ぎに来た大関リカルド(三九)は、

 「川島さんのお陰で日本に来られた。メキシコでは給料が安く家族は食ベていけなかった」

 と話す。

 「誠意を見せることが人間関係の基本」。

 川島はそんな思いからメキシコ県入会を創設。県出身日系メキシコ人の支援のほか、 子供の絵画展開催などメキシコ文化の普及にも取り組む。

 今年、メキシコ移住百周年の節目。メキシコとの愛憎入りまじった約十五年。 ビッグになれたかどうかわからない。でも自負はある。

 一日六万七千人を超える利用者が行き交う成田空港で、自分が迎え入れた日系人が、 海外へ渡る日本人の荷物の搬送をしている。日本の空の玄関の裏方を支えているのは、 遠い昔、海を渡り南米へ移民した同胞の子孫だ。

 懸け橋役に徹するそんな川島には、遭難したメキシコ人に献身的な救護をした御宿 の村人の精神が時を超えて息づいているのかもしれない。(文中敬称略)