川島 正仁ホームページ 著書「花の道」のタイトル画像

   | 「花の道」トップ | Webダイジェスト版 | 第2部プレゼント | 紹介記事 |

川島 正仁ホームページ 民芸品の画像Webダイジェスト版

 8.花の都

若いということは、素晴らしい。

夜通しのバスツアーも何のその、ぐっすり眠りこけ、目が覚めたらブエノスだった。 疲れなど、微塵もない。花の都。

ターミナルでタクシーを拾い、私達のアパートに直行する。 オーナーのセニョール ガルシアとセニョーラ ガルシアが、出迎えてくれた。

荷物を部屋に運び入れて、いよいよ大都会ブエノスでの生活が始まる。 島津さんに到着した旨を伝えると、早速明日から出勤ということになった。 弟の方はまだ決まっていないので、就職活動である。

翌朝、私は早目に起き、張り切り勇んでアパートを出た。始業の九時までには大分間があるのに、 島津さんは既に出勤していた。オフィスには、二人のセクレタリーと五人のセールスマンがいる。 今は、主に日本の日立のピーラ(電池)を扱っているという。

セールスマンのサラリーは国定の最低賃金を基本給とし、売上高に応じたコミッションがプラスされる。 そうでなければ、まず本気になって仕事をする人間はいないという国柄なのである。

私の基本給は最低賃金プラスアルファだが、その代わり何でもやらなければならない。 とにかく、ブエノスアイレス市内の電池を扱う全ての小売店に品物を卸すのが主要な仕事である。

私は新米なので、慣れるまでベテランのセールスマンと一緒に行動することになった。 かつてイギリス人の手によって造られた地下鉄を上手に利用すれば、市内のどこへでも気軽に行ける。

一週間もすると、私は一人で自由に飛び回れるようになった。しかし、肝心なピーラの売り上げは思うように伸びず、 サラリーの増額は期待出来そうになかった。

安月給でも、都会の良さをエンジョイ出来る。その目玉は、ランチ・メニューの豪華さである。 まず日替わりスープ、次にエンサラダ、メインの分厚いステーキ、そしてデザートのフルーツ、 ケーキ、アイスクリーム、最後にコーヒーまたはティーという完璧なコースなのだ。 不思議なことに、毎日食べても飽きない。

鶏肉は牛肉より高価で、ないものねだりであろうか、ブエノスっ子は鶏肉を好んで食べる。 私もたまには食べたが、飽きてしまってステーキのように毎日食べることは出来なかった。 フリート(チャーハン)にして目玉焼きと一緒に食べる米飯も実に美味で、 私はアルゼンチンで五年近く暮らしていたのに、一度も日本の米を懐かしむことはなかった。

弟は小林の仲介によって、貿易商を営む上野さんの会社で働くことが決まった。

上野さんは島津さんより一回りも若く、日本から雑多な品物を仕入れては売りさばいているという。 彼の商売のやり方が強引であったことにもよろうが、それ以上に若くして成功をおさめたことに対する妬みから、 彼についてのいい評判は聞けなかった。

元来、日系人の先輩達には、自分達が大変な苦労を重ねて今日を築き上げてきたという大 きな自負があり、後に続く若者達にも同じようなやり方を強いる傾向があった。

田舎で花作りをしている人達も、都会で商売を営んでいる人達も、その考え方に大差はない。 前にも少し触れたが、ここブエノス市内での日系人の商売は、洗濯業が大半を占めている。 その多くは沖縄県(当時は琉球)出身者であり、彼等は日本人会とは別個に琉球会館を設立 して互いに自分達の言葉で話し合い、日本本土の出身者を内地人と呼んで一線を画していた。

当然のことながら、彼等の子供達は日本語をうまく話すことが出来ず、そのことが内地 人に対するコンプレックスをさらに強めていたようだ。だが、半面、彼等同志の結束は固く、 全てがファミリーなのだった。

彼等が洗灌業に進出出来たのは、資本がいらないということ、手先の器用な日本人に適していたこと、 そして他人の汚れた衣類を洗灌することを潔しとしないブエノス人の特異なプライド等の要因 が重なったためである。

要するに仕事が比較的簡単に覚えられ、現地人の競争相手がいないので、すぐに独立出来るというのが大きな魅力 だったのである。

沖縄県人の二世達は、ほとんどが同県人の二世同志で結婚する。 しかし、当然のことながら適齢期の人数は限られており、性別のアンバランスもあるので、 アルゼンチン人と所帯を持つ者もいる。

私達兄弟は、友人の紹介で、沖縄県人の二世グループと知り合った。最初はとっつきにくかったが、 彼等の気持ちの暖かさ、取り分け女性の気配りの細やかさは格別である。 それは、一世から引き継がれた男尊女卑の伝統に由来するものであるように思われる。

例えば、彼等の家に招待されると、我々男性はメインルームに案内され、男同志でお茶を飲み語り合うのだが、 女性は奥の台所でお茶の用意をしたり食事の支度をしたりしていて、決してメインルームの男性達、 特に一世達の会話に加わることはない。

ところが、二世の若者同志の会合となると、話は別だ。二世グループのリーダー格で、 私と同じ年頃のマルガリータという女性は、私達兄弟に特別な興味を抱いたようだった。

我々の理解を越えているほどの内地人に対する彼らのコンプレックス、それがやがて愛に変わるとは、 その時は思いもよらなかった。

二世グループの活動は活発だった。勉強会や親睦会、それに、ラテンの地で生まれ育った彼等には、 バイレ(ダンス)は欠かせない。土曜日の夜には必ずと言っていいほどバイレが催され、 延々と翌朝の四時頃まで続くのだ。

高校時代は度はずれた硬派だった私にとって、バイレは全く苦手な代物だった。 それに引き替え、同じ兄弟でありながら、弟の博志は中学時代からギターなど弾いていただけ あってリズム感が良く、バイレも巧かった。その上、会合には大抵、弟のギター 演奏がプログラムに加えられた。当然、二世の女の子達に大もてである。

島津商会の仕事は、単調だった。ピーラの売り上げは、急激には伸びない。 アルゼンチンでは、『エバレディ』の力が強く、後進の日立の追撃を簡単には許してくれない。

当時、日本製品の信頼度は、まだ今日のように高くはなかったのである。それに、 日立とは言っても、現地生産となると、不思議にその品質はアルゼンチンの製品と同程度になってしまう。

そんな具合で、私の貧乏生活は健在だった。いや、マルデルプラタでの生活の方が、 よっぽどゆとりがあった。サラリーマンにとっては必需晶である背広の一着も、満足に買えない。

だからと言って、綱渡りで商売をしている島津さんに向かって、サラリーのアップを口にすることは心苦しい。 弟の方も、同じようなものだった。仕事は得たものの、最初のサラリーは国定の最低賃金にほんの 少し上乗せしただけで、私と大差なかった。 部屋代を払ってしまうと、残りはほんのわずか。若い二人は、青春の真っ只中である。

小林のようにかわいい子とデートもしたいが、彼女の食事代さえもつことが出来ない。 折角小林がラウラの友達を紹介してくれたのに、あきらめるしかなかった。

こんな私のアルゼンチン生活も、来月で丸五年を迎えることになった。 今まで無我夢中で突っ走ってきた私にとって、弟やその友人達がもたらす日本の情報は極めて興味深く、 私はどうしても新しい日本を自分の目で見たいと思うようになった。

そんな思いを弟に打ち明けると、日本を発つ時、母から困った時に使うようにと千五百ドル渡されたという。 稲毛海岸の埋め立てに伴い、わずかながら漁業権を所有していた川島家にも補償金が支払われ、その一部だというのだ。

だが、それは兄弟二人のためにくれた金であり、私一人で使うわけにはいかない。 私の財産といえば、海老家のホセに売りつけられたマルデルプラタのあの土地が残っているだけだ。 私にとっては、文字通り五年間の汗と涙の結晶である。

「博志、すまないが、俺ももう五年になる。もう一度日本を見たい。土地をお前にやるから、帰らせてくれ」

「兄貴、わかった。俺はまだ来たばかりだし、もう少しここで勉強したい。先に帰ってくれ」

千五百ドルは、正しくアルゼンチンのブエノスアイレスから日本の羽田までの片道運賃と同額であった。 島津さんは、快く了解してくれた。いつのまにか大勢になっていた二世の友人達も、皆別れを惜しんでくれた。

著書「花の道」 トップに戻る

 前に戻る←  ★   →続きを読む

 ・ 
 ・ 1. 少年時代
 ・ 2. 力行会
 ・ 3. アルゼンチナ丸
 ・ 4. 渡嘉敷農園
 ・ 5. 谷村農園
 ・ 6. 海老農園
 ・ 7. 弟の来亜
 ★ 8. 花の都 ←現在のページ
 ・ 9. 五年ぶりの帰国
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
 ・ 15. ミチルとの新しい生活