川島 正仁ホームページ 著書「花の道」のタイトル画像

   | 「花の道」トップ | Webダイジェスト版 | 第2部プレゼント | 紹介記事 |

川島 正仁ホームページ 民芸品の画像Webダイジェスト版

 6.海老農園

佐々木氏がカパタスをしている農圃は、アルゼンチン人のオーナーの名前をつけてサパタ農園といった。 佐々木氏は、五十人程いるペオンの管理を任されていた。

私は、吉田さんという四十歳を過ぎた日本人と一緒に住むことになった。 最初の話とはまるで違い、食事も自炊、他のペオンと全く同じ待遇で、 責任だけが重かった。オーナーのサパタ氏は、週に一度、農園を見にくるだけだった。

「オー、新しいムチャーチョ(青年)か、頑張って働いてくれよ」

吉田氏は、ここに来てまだ二年程だが、アルゼンチンには既に二十年もいるという。 私とほぼ同じ年齢で渡亜してきたわけだが、様々な境遇にもまれるうち当初の夢も希望もなくなり、 今はもう酒とタバコさえあれば満足という人であった。

「川島君よ、ここで独立なんぞ夢だよ。佐々木のやつは、ただ自分がかわいいだけだ。君がいくら一生懸命働いても、 賃金が上がるわけじゃない。あいつが得するだけだ」

私達の給料は一万二千ペソ、日本円で約八千円。私がアルゼンチンに来た当初の給料は七千五百ペソ、 日本円で約一万円の価値があったが、インフレが徐々に進行してその価値は下落している。

瞬く間に三か月が過ぎた。谷村園にいた頃と比べれば、仕事はかなり楽だが、目的がない。

独立の希望はなく、しかも一万二千ペソの給料から生活費を差し引いたら、いくらも残らない。 マルデルプラタは「銀の海」。その名の通り、美しい銀色の砂の海岸線が何キロにも伸び、波は穏やかである。

毎年何百万人もの避暑客でにぎわう海岸線には、世界最大級のカジノがある。 カジノは金持ち用と一般用があり、金持ち用の入場料は一般用の二倍、賭金の最低額も異なっている。

どちらのカジノも、男はコルバータ(ネクタイ)を着用しなければ入場出来ない。 ブエノスで働く日本の商社マンにとっても、ここは憧れの街で、彼等は金曜日の夜行バスで乗りつけ、 土曜日曜とプレイを楽しみ、日曜の午後のバスで帰って行くのだった。

マルデルプラタは、夏は暑すぎず、冬は寒すぎず、湿気もそれほど高くはなく、気候的には申し分なく 暮らしやすい所である。だが、私の心は動揺していた。

こんな所にいては、独立も何も出来ない。やがては、吉田さんのようになってしまうのか。

マルデルプラタは、メルーサ(鱈)、カラマル(いか)、ベスーゴ(鯛)等が豊富に獲れる漁港としても有名である。 その港の近くに、私と同じ千葉県出身の大川夫妻が住んでいると聞き、吉田さんに連れて行ってもらうことにした。

どんなにささいな手がかりでもいい、とにかく私はきっかけを求めていた。

大川さんはメルーサ船に乗船する漁師であり、マンションを借りて家族と住んでいた。 最初はエスコバルにいたのだが、問題が起こって狭い日系人社会にいられなくなり、ここに流れて来たのだという。

その問題とは、夫人のことであった。写真花嫁として迎えた現夫人は、長い船旅の間に船員と恋に落ちて しまったという。結婚話は破談になりかけたが、亜拓組合やコロニアの人達の説得でどうにか結婚にこぎ つけたものの、夫人は既に船員の子を孕んでいたのだった。その子は、もう一歳になっていた。

メルーサ船の一航海は一週間から十日、一船員の給料は水揚高による歩合性である。 最近は水揚げも多く、稼ぎは馬鹿にならないという。

「私も、乗船出来ないか?」

迷わず、私は尋ねた。どのみち、サパタ農園にこれ以上いても意味はない。

翌日、大川さんから連絡があり、港のオフィスに来てほしいという。私は既に、 佐々木さんにはサパタ農園をやめたい旨伝えていた。私にとってはもう、 仕事を変えることなど何の抵抗もなくなっていたのである。

大川さんのマンションに移り、二日後に乗船することが決まった。 最初はカデーテ(見習い)として給料は小遣い銭程度だが、次回からはちゃんと歩合をくれるという。

私が乗ることになった漁船は百五十トンあまりの中古船で、船名は女性の名をとって マルガリータ(ひまわり)と言った。乗組員は、船長を含めて総勢八人である。

乗り物に弱い私には、アルゼンチナ丸での辛い航海が思い出される。 しかし、ここでは、そんなことは全く関係ない。 百五十トンのマルガリータは、メルーサの漁場に向かって突き進む。

大西洋の波は荒く、小さなマルガリータは振り子のようにローリングする。 フラフラしていたら、巻上機に巻き込まれてしまう。死と隣り合わせている…私は、それを強く実感した。 誰も、助けてくれない。頼れるのは、自分だけだった。

コックを担当しているフアンは実に手際よく食事を作るが、私は何を食べても吐いてしまう。 私は、ただ無我夢中で体を動かした。死に物狂いで頑張っていると、その労苦が酔いの苦しさを追い越してくれるのだ。

今航海も、いつものように大漁であった。いよいよ帰港だ。酔いの苦しさは、もうなくなっていた。 次の航海からちゃんと歩合がもらえると思うと、私の心は躍った。

ところが、陸に上がって驚いた。今度は、大地がグルグル回るではないか。とても立っていられない。 かがみ込んで両手を地面につき、じっとしているしかない。それが収まったのは、随分時間がたってからであった。

折角海の上に慣れたと思ったのに、とたんに私は次の航海が心配になってきた。 カピタン(船長)のセニョール マルケスは、今航海の手当てとして、バケツ一杯のカラマルをくれた。 大川さんに見せに行くと、マルデルプラタの中心街でレストランを経営している石橋さんのところへ 持っていけばいいと教えてくれた。そこでは、私の運命を変える話が待っていたのである。

石橋さんに会ってカラマルを渡した後、今回の漁のことだけでなく、 問われるままに今までやってきたことをかいつまんで話した。

「君は、どうして海老さんのところへ行かないのだ?メディアネーロを探しているよ」

メディアネーロとは、オーナーから土地、温室、その他必要な全ての設備や材料を借り受け、 製品の売り上げを折半にするという条件で、花作りを請け負う人間のことである。

私にとっては、願ってもない素晴らしい話だった。 海老夫妻は戦前から亜国に移住し、ブエノス近郊のフロレンシアで花作りを始めたがうまくいかず、 六、七年前に手に入れたマルデルプラタ近郊のこの土地へ家族とともに引っ越してきたという。 以来ここで花作りをしてきたが、最近体をこわし、今では三男のロベルトが後を継いでいる。

ところが、この三男があまり花作りを好まないので、誰かいい人がいたら紹介してほしいと、 石橋さんに頼んでいたのだった。

石橋さんは早速、私をマルデルプラタ市の中心街から十五キロ程離れた海老農園に案内してくれた。 ここのコロニアの広さは、およそ十町歩である。

海老さんの病名は、癌であった。発病してから、もう三年になるという。 日本のような保険制度のないここでは、治療費は全て現金で支払わなければならない。二度に渡る大手術のために、 これまで蓄えてきた金はすっかり使い果たしてしまい、おまけに土地を担保に借金までしている。

この肥沃な土地で立派なカーネーションを育てることに成功し、それが高値で売れ始め、 これからという矢先のことだった。折角建て始めたレシデンシィア(大邸宅)も、 レンガを積み上げた時点で中断されていた。

ほんとうに大変な手術だったらしく、背中から尻までぽっかりと穴が開いていて、 夫人が毎日消毒しなければならないという。

「川島君、こちらに来い」

だが、海老さんは、全く閣達な人であった。気の弱い人間だったら、 生きていることさえ難しいだろう。こんな状況の海老さんを支えている夫人にも感服する。

私は、四棟の温室を任された。住居は、建てかけのレシデンシィアの比較的完成されている 一室を与えられた。とは言え、窓ガラスは割れ、床は土のままである。 大雨が降れば、雨漏りはバケツ一つではとても間に合わない。

土地が肥えているので肥料もいらず、花の栽培は楽だった。耕すのもトラクターでいいのだが、 赤根(雑草の一種)だけは曲者だった。掘り起こしたまま何日か天日にさらしておけば枯死してしまうが、 土中にはびこった赤根を全て取り除くことは容易ではない。いい加減で放っておくと、 苗を植えた後で勢いを盛り返し、苗を枯らしてしまう。

機械では取り切れない赤根を、腰をかがめて丹念に拾い続けるのはきつい作業である。 こうしてきれいにした土で苗床を作るわけだが、全体に傾斜をつけて水はけを良くすることが、 苗床作りの重要なポイントとなる。

苗床の上に、温室を建てる。大きさを決め、ラインを引き、柱を立てる場所に穴を掘る。この穴掘りが、少々厄介だ。パラプンタ(先の尖ったシャベル)を真っ直ぐに打ち込み、土を呼び込むようにしながらうまく引き抜かなければならない。土を払い再び打ち込む、この繰り返しである。慣れないとうまく土を捕まえられないので、とても時間がかかってしまう。また、立てた柱がぐらつかないように柱よりほんの少しだけ太自に掘るようにしなければならないので、余計に難しい。 柱を立てたら、屋根の枠を組み横板を張る。その上にボリエチレンのシートをかけるのだが、それがまた一仕事だ。片方を横板に打ちつけておいて、もう片方をトラクターに縛りつけて引っ張る。適当な位置でトラクターを止め、ポリエチレンを打ちつけてからカットする。一シーズンもってくれれば、採算は合う。運の悪い年には、ピエドラ(大きな霰)が降ってポリエチレンをずたずたにし、全てのプランタを潰してしまう。最初の年にそのような目に会ってしまったら、最悪の事態となる。 幸い私は、そのような不運には見舞われなかった。まあまあの花が出来、パトロンもコンテント(満足)だった。私は気を良くし、温室をもう一棟増やそうと考えた。 海老さんの三男のロベルトは二十四歳で既に結婚しており、十九歳の若い夫人との間には生後三か月の子供もいる。 ハンサムなロベルトは、一見白人との混血のように見える。 夫人のオルガも目鼻立ちのはっきりした端正な美人で、正に絵に描いたような美男美女のカップルだった。

しかし、一緒に生活していると、いろいろとボロが出てくるものだ。 通常私は独りで自炊していたが、ブエノスでセールスマンをしている長男のホセが帰って来た時、 日曜日や祭日、そして仕事が遅くまでかかった時等には、食事に招待された。

アルゼンチンの米は、私には日本の米と全く変りないように思えた。ホセもロベルトも健たん家であり、 濃い味付けを好む彼等にとっては白米だけでは物足りないらしく、ブエノスの日系人が作った督油をかけ て食べる。また、彼等の食卓には、必ず肉とエンサラダが添えられる。

一方、私の自炊のメニューはいつも同じだった。大きな鍋にたっぶり水を入れ、 ジャガイモ、王葱、人参、トマト等の野菜と大きめに切ったプチェロ(骨髄)を入れる。

塩だけで味付けして、弱火でじっくり煮込むのである。安上りで、おいしくて、栄養満点の料理だ。 オルガ夫人は確かに若くて美しい女性だが、料理というものをしたことがない。 いつもスエグラ(姑)に任せきりだ。

そればかりではなく、時たま温室で働いているロベルトを手伝いに来たかと思えば、 ただベラベラとおしゃべりをして何時間も過ごすのである。

私とて、アルゼンチンに来たならば、何としてでも映画で見た女優のような美人と 結婚したいと願っていたのだが、毎日毎日こうしたアルゼンチン美人の生活振りを見せつけられていると、 私にはとても耐えられないと思わざるを得なかった。

前にも記したが、ロベルトは花作りを嫌っていた。彼の夢は、タジェル・メカニコ(自動車修理工場) を持つことだった。とにかく自動車さえいじっていればコンテントな彼は、 実際器用でもあった。

だから、近在のカンペシーノ(田舎者)は、町の修理工場へ行かずに、 故障したトラクターや自動車をロベルトのところへ持ち込んで来るのである。 そうなると、花などそっちのけで、ロベルトは朝から晩まで車にへばりついている。

「マリオ(私の愛称)、俺の分も頼むよ」

大した手間でもないので、私はいやがらずに彼の花切りを引き受けてやった。 ロベルトのところへは、近くに住むホルヘというクリオージョが手伝いに来てきた。

ホルヘも私と同じメディアネーロだが、手間のかかるカーネーションではなく、 広い土地を利用してグラジオラスを路地栽培していた。当たれば、大きな儲けになる。

ホルへは口が悪く、私は彼のいいからかい相手にされていた。言葉が半分程度しか理解出来ないので、 彼とその仲間が私のことを言っているのはわかるのだが、何をどのようにしゃべっているのかわからない。

従って返答するにも文句を言うにも勢いは鈍るし、何倍もの言葉が返ってきて言い負かされてしまう。 それがもたらすストレスは、私の中で次第に膨らんでいった。 思いあぐねて、そんな悩みを海老夫人に打ち明けたら、

「貴方が悪いわ。そんなことには、構わなければいいのよ。もっと強くなりなさい」

逆に叱られてしまった。同じ日本人として頼りにしていた夫人のそんな態度に、私は大きなショックを受けた。 私は、皆が自分を除け者にしようとしているとしか思えなくなった。私は、完全に孤立した。

どこにも、逃げ場はなかった。折角苦労して作ったカーネーションまでも、 皆に奪われてしまうのではないかと不安でたまらなくなった。どんどん落ち込んでいく自分がわかる。 私の状態は、最悪になった。ついには、どうにでもなれという捨て鉢な気持ちになってしまった。

そんな折、私の身にとんでもない事件が起こったのである。

いつもの年なら、四月といえばもうかなり涼しくなっているはずなのに、 今年は例年にない暑さが残っていた。そのために、花がドッと一遍に咲いてしまったのである。

マルデルプラタの市場は狭い。たちまち価格は下落し、とても売れる状況ではなくなった。 そこで、私はロベルトと相談し、ルータナショナル(国道)まで出て、ラグーナベルデ(緑の湖)の交差点で 「ベンタ デ フロル」(花売ります)の看板を立てることにした。

バケツに一ダースずつ束ねたカーネーションを入れ、トラクターで運んで客を待った。 すると、うまい具合にラグーナベルデ等から帰る人達が脇道に車を止めて花を買ってくれた。

それだけなら有り難い事件なわけだが、問題はその後だった。私から五十メートルくらい離れたルータ沿いで、 アイスクリーム屋がアイスクリームを差し出しながら行き交う車に声をかけていた。

一台のワゴン車と二台のオートバイが止まった。何気なく見ていると、下りて来た四人がアイスクリーム屋を取り囲み、 その中の一人が突然アイスクリーム屋の胸ぐらをつかんで顔を殴った。もう一人が、足蹴りを食わす。 とっさに、私は杭を打つために持ってきたパラ(シャベル)を掴んで走っていた。

「ケ アセ ウステデス」(何をするのだ、君達)

四対一、いずれも体の大きな若者である。

「ケ ハポネス ノ ノス メタス」(何だ、日本人、余計なことをするな)

そう言うなり、一人が殴りかかってきた。私は威嚇する積もりで、パラをかざした。だが、彼等には通じなかった。

私を取り巻いた輪が、ジリジリと狭められる。本気で使う積もりなどないパラを投げ捨て、 私は空手の構えをとった。すると、何と中の一人がそのパラを拾って背後から殴りつけてきたのである。

私のシャツが、裂けた。間髪を入れず、もう一人が素手で殴りかかってきた。

「マタロ エセ ハポネス」(その日本人、殺しちゃいな)

ワゴン車に乗っていたムチャーチャ(若い女の子)が叫んだ。男達は、調子づいた。 私も、多少空手の心得があるので、そう簡単にはやられない。

ルータを行き交う車は、関わり合いになることを恐れて、一台として止まってくれない。 男達はカーネーションをぶちまけ、踏みにじった。 そこヘ、ようやくロベルト達が来た。男達はあわててワゴン車に乗り、オートバイに跨がった。

] 「ケ パソ エスタス フローレス?」(どうしてくれるんだ、この花を?)

悔し紛れに、私はワゴン車の運転手に向かって叫んだ。すると、その男は座席の下からピストルら しき物を取り出して怒鳴った。

「カジャ テ ラ ボカ. シノ テマート エ」(黙れ、さもないとお前を殺すぞ)

事件は、終った。アイスクリーム屋は、既に影も形もなかった。

「マリオ、危なかったね。これで、良くわかっただろう。あんな奴を助けたって、自分が殺されたんじや、 合わないよ。ああいうチンピラ連中には、関わり合いにならない方がいいよ」

私はこの時、確実に一つのことを学んだ。何よりも、まず自分なのだ。 自分こそがしっかりしなければ、何も出来ない。海老夫人の冷たい言葉の意味が、今はっきりと理解出来た。

自分は、甘えていた。言葉では何も覚えない。身をもって体験して、初めて分かるのだ。 幸い、背中の傷は大したことはなかった。二週間が過ぎた頃、何とあのアイスクリーム屋が突然訪ねて来た。 ああ、やっぱりお礼を言いに来たんだ?。私はそう思い、また思いたかった。

「もう寒くなっちまったんで、アイスクリーム屋はだめだ。お前の花を、安く譲ってくれ」

それが、彼の目的の全てだった。私は再び、自分の甘さを痛感させられた。 ここでは、とにかく自分が第一なのだ。自分を大切にし、自分を守れて、初めて他人がいるのである。 この思いを、私はうまく言葉で表すことが出来ない。

日本へは、よく手紙を書いた。地球の裏側にある日本へ着くまでには二週間、 ひどい時には一か月も二か月もかかる。航空便が、船便に紛れてしまうのだという。

だから、封筒には「ビア アエレア」(航空便)とはっきり記さなければならない。 「アスタ マニャーナ」(また明日)と彼等が交わすその言葉通り、この果てしなく雄大な自然の中で生きてい る彼等にとっては、航空便と船便の遣いなどどうでもいいことなのだ。早く家に帰って、 大きなステーキにぱくつき、女房と一戦交えることしか頭にないのだろう。

三月に高校を卒業した私の弟の博志が、アルゼンチンに来たいという。 彼も、進学のことで悩んでいた。海老さんが、保証人になってくれた。 あとは亜拓組合、そして移住事業団に任せておけばいい。

この十月に横浜を出航し、十一月にはブエノスに着く。 それまでは研修所へ通ったり、房総の花卉園へ行ったり、忙しいらしい。

長男のホセは、最近よく顔を見せるようになった。来るたびに同伴の女性の顔が違う。 今回はノルマという愛嬌のある親切な女牲だ。

ブエノス近郊のサンホセという町で、小学校の先生をしているという。 ノルマは、私に言葉を教えてくれた。ほんとうに教えることが好きらしく、 ゆっくりはっきり話してくれるのでとてもわかりやすい。

いくらか話せるようになると、私も意欲が沸いてきた。ノルマが言うには、九月から夜間学校が関校するという。 いろいろな事情で小学校を卒業出来なかった人達のための、特別クラスである。

私は、入学手続きのために学校へ出かけた。だが、農園から学校までが一苦労だった。 農園からルータまで歩いて十五分、そこからバスで町まで二十分程度だが、このバスが問題なのだ。

ルータを走っている長距離バスは百五十キロ程離れたバルカルセという町から約三十分おきに 来ることになっているのだが、バスストップの標示はないし、まず時間通りには来ない。 とにかく早目に行って待ち構え、バスが見えたら必死になって手を振らなければ止まってくれない。

だから、私はよくヒッチハイクをした。いや、せざるを得なかった。みさかいなしに、走って来る車に手を上げる。 同国人には用心深い彼等も、日本人の場合は結構止まってくれる。 これも、同朋が今日までに築き上げてきてくれた信用と言う財産のおかげだろう。

夜間学校、つまりアダルトスクールの日本人は、私一人だった。年齢層は二十歳から六十歳くらいまでと幅広く、 やはり年配者が多い。若い頃に学校へ行けなかった人、仕事の都合でどうしても小学校の卒業証書が必要になった 人、様々な事情の人がいるが、皆真面目そうな感じの人で、私も歓迎された。

朝早目に起きて花切り、パッケージング、水かけ、草取り等全ての仕事を終え、手を良く洗い、 特に爪の中の土を洗い落として学校へ行く。授業は午後六時から九時までの三時間で、土曜日曜は休校である。

語学はどうしても遅れをとったが、英語だけは別だった。それに、数学。この二教科については、 先生以上だったと言っても言い過ぎではないだろう。その分、私は地理、歴史、国語等の教科に力 を入れることが出来た。

いろいろな教科の中でも、やはり言葉の上達が一番うれしく、またその手応えが感じられたので、 学校へ行くのがますます楽しみになったが、雨の日は悲惨だった。 ルータまでの土道はドロドロの粘土と化し、潜ってしまう足を引き抜きながら歩く 一キロの道のりは並大抵ではない。

帰り道は、さらに大変だ。バスストップがないので、大体の見当をつけて下りる。 その先が問題なのだ。どしゃぶりの夜道で、入る土道を間違えたりしたら、 それこそどうなるかわからない。私は念の為、ルータに一番近い人家で尋ねてみることにした。

何しろ一区画十町歩以上の広さである。門から玄関に辿り着くだけでも、簡単ではない。 私は、家の薄明かりに向かって叫んだ。

「ソイ ハポネス ドンデ エスタラ カサ デ セニョール エビ?」(私は、日本人です。海老さんの家は、どこですか?)

家主のセニョール エルナンデスが出てきた。手にはエスコペタ(ライフル銃)を持っている。

「ケ キエレス ムチャーチョ? ノ テ オイゴ ビエン」(何が聞きたいんだ。良く聞こえないぞ)

この国では、こんな状況なら、撃たれても文句は言えない。殺されるかもしれないという恐怖と戦いながら、 私はありったけの声を張り上げて、同じ質問を繰り返した。

七月の初めに試験がある。これに合格すると、夜間学校を卒業出来る。まずは受験資格が問題で、 二十名のクラスメイトのうち受験出来るのは私とカタリーナおばさんのほか三名、計五名のみだった。

残りの十五名は出席日数や授業中の試験の得点が十分でないために受験出来ない。結局、合格したのは私とカタリ ーナおばさんだけだった。

この後、学校は一か月あまりの冬休みに入る。冬休みになるとすぐ、ホセがノルマを連れてやって来た。 ホセは前夫人との離婚が成立していないので、ノルマは内縁の妻ということになる。

ところで、ホセは語学の天才といってよかった。どんなに複雑な内容の話でも、見事に通訳してしまう。 そもそも彼は実に話好きであり、現在彼がやっている土地のセールスはうってつけの仕事だった。

冬休みの期間中にマルデルプラタの分譲地をセールスすると張り切っている彼は、 まずこの私に矛先を向けてきた。現金など持っていてもインフレですぐに価値が下落してしまう。 土地の購入は、この先どれほど有利となるか等々、得意の話術で説得するのである。

私は、いとも簡単に彼の話に乗ってしまった。谷村農園で得た給料、今までコツコツ貯めてきた金が ちょうど分譲地のウンロッテ(一区画)分だったのである。私が買ったウンロッテは、 百四十平方メートルの角地だった。

もっと奥地にはもっと広いロッテがあるのだが、将来売ることを考えればその方が得だという 彼のアドバイスがあったからである。

ノルマのおかげで、私のスペイン語はますます上達した。私はもう、夢中だった。 ホセに頼んで中学校のことを調べてもらい、バス停に近くて午後のクラスのあるマルデルプラタ第五 中学に入学することを決めた。

アルゼンチンには、マツティーノ(午前)、ベスペルティーノ(午後)及びノクツルノ(夜間)の三つ のタイプのクラセ(学級)がある。国の文化予算が足りず、学校数が少ないため、校舎をフル活用し なければならないからである。

私は、午後三時から七時までのクラセ ベスペルティーノに入ることにした。 冬休みが終って、いよいよ学校が始まった。クラセ ベスペルティーノに集まった生徒は、 十二、三歳の子供ばかりで、二十二歳にもなる大人は私一人だった。

担任の先生は二十三歳のセニョリータ マルハで、大学を出たばかりのお嬢さんだ。 私は、先生の言葉が良く理解出来るように、一番前の席に座った。子供たちは最初の うちこそけげんそうに見ていたが、すぐに慣れて気楽に話しかけてきた。

「チェ エレス チーノ?」(おい、お前は中国人か?)

図々しいやつは、

「ダ メ ツ シィガリージョ」(お前のたばこをくれ)

などと言ってくる。

「ジョ ノ フーモ」(俺は、吸わないよ)

と答えると、

「ケ オンブレ セーリオ」(何てまじめな人なんだ)

という具合である。

とにかく、少なくとも私の目から見れば、利己主義に徹しているという印象をうける。 だが、半面感心するのは、弱い者は弱い者なりに自分を守る術を知っているということである。

また、日本のように番長というような全体を牛耳るボスの存在はなく、 それぞれ四、五人のグループを作って適当に付き合っている。

「チェ プレスタメ シィェンペソ」(ねえ、百ペソ貸して頂だい)

ある日、私の後ろに座っている女の子が言った。百ペソくらいと思って、気楽に貸して やったのがいけなかった。ここでは、貸すことイコール上げることなのだ。

私にとっては貸しは貸し、百ペソでも十ペソでも同じだ。 その当時の百ペソはコーラ1本分くらいの価値であったろうか、執拗に催促したが、結局無駄だった。

担任のマルハ先生は、私にとても興味を持ったようだった。何しろ、地球の裏側の未知の国から来た自分と 同年代の青年が、自分の講義を一生懸命聞いているのである。

「キエレス ベニール コンミーゴ ア ミカサ?」(家に来ない、私と一緒に)

授業の後、マルハ先生が言った。私はスペイン語の勉強が出来ると思い、喜んでついて行った。 彼女は、住宅街にある簡素な作りの二階建ての家に、両親と一緒に住んでいた。両親は最初はびっくりしたようだったが、

「ビエンベニード ア ミカサ」(家にようこそ)

と言って、笑顔で連えてくれた。

「バモス ア ミ クアルト」(私の部屋に行きましょう)

そう言って、マルハは私を二階の自室へ誘った。

「キエレス トマル マテ?」(マテ茶を飲む?)

部屋に入ると、そう言い残して、マルハは下のコシーナ(台所)にお茶をとりに行った。 パラグァイミショネスに住むインディオ(原住民)が好んで飲み、 その習慣が伝わったのだという。ビタミンCを多く含み、肉食で野菜をあまり食さない彼等にとっては、 重要な栄養源である。

また、マテ茶は回し飲みにするのが習わしであり、同じパイプで飲むことによって、 家族的な雰囲気の中で親交を深めるのである。

マルハにとっては、私はさぞかし不思議な男であったろうと思う。いくら誘っても何の反応も示さない、 何と初で実直な男なのか。おそらく彼女の回りにいる男達からは、想像も出来なかったにちがいない。

私としては、彼女が特に好意を持ってくれているということはわかったが、 それ以上の感情は湧かなかった。その後も、彼女は時々、私を招待してくれた。 ある日、私はこのことをロベルトに話した。

「何て、馬鹿なんだ。彼女は、お前を誘っているんだ。それに応えなければ、男じゃないぞ」

「ロベルト、実を言うと、俺はまだ女を知らないんだ」

「本当か?これは驚いた。よし、早速女のところへ連れて行ってやろう」

ロベルトは、私を町の娼婦の館に連れて行ってくれた。

「こいつは童貞だから、うまく教えてやってくれ」

多分、ロベルトはこんなことを言ったにちがいない。とにかく、私にとっては記念すべき日になった。 私は無我夢中だった。

「ああ、これで、俺も童貞を捨てたか」

実に、二十二歳の春であった。

著書「花の道」 トップに戻る

 前に戻る←  ★   →続きを読む

 ・ 
 ・ 1. 少年時代
 ・ 2. 力行会
 ・ 3. アルゼンチナ丸
 ・ 4. 渡嘉敷農園
 ・ 5. 谷村農園
 ★ 6. 海老農園 ←現在のページ
 ・ 7. 弟の来亜
 ・ 8. 花の都
 ・ 9. 五年ぶりの帰国
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
 ・ 15. ミチルとの新しい生活