4.渡嘉敷農園
ついに、四十二日間の船旅は、終りに近づいた。船は、深い霧に包まれていた。
「カルロス、カルロス」
霧の中から、呼び声が聞こえた。そのとたん、もうカルロスは泣きじゃくって、大きな体を震わせながら、
「ママ、ママ。パパ、パパ」
と、大声で叫ぶ。
岸壁が、そして出迎えの人々の顔が、ぼんやりと見えてきた。
カルロスはいてもたってもいられないという風に、デッキから巨体を乗り出し、盛んに手を振って、
挨拶を交わす。毛むくじゃらな顔が、涙でくしゃくしゃだ。
たったの一年間なのに、何て大袈裟な人種だろう?。カルロスによって受けた、
これがアルゼンチン人に対する私の第一印象となった。
アルゼンチナ丸は、静かに霧のブエノス港に接岸した。大桟橋へ、ゆっくりと横付けされる。
艫綱がかけられるか否かのうちに、カルロスはもう、家族とともに消えていた。
背の高い一人の日本人が、タラップを上がって来る。
「川島君ですか?私は亜国拓殖組合の須藤です。迎えに参りました」
渡嘉敷善行さんは、下で待っていた。
「川島です。よろしくお願いします」
「よく無事にいらっしゃいました。渡嘉敷です」
二つのスーツケースが、私の全財産だった。まず、イミグレーションを通る。
税関官吏は、渡嘉敷さんに頼まれて私が日本から持ってきた工具類に目をつけた。
亜拓の須藤さんはこの道二十年のベテランなので、その辺は慣れたものである。
二十ドルのチップで、ケリがついた。チップのことを、ここではプロピナという。決して賄賂とは言わない。
渡嘉敷さんに連れられて、ブルサコの彼の家へ行く。ブルサコは、ブエノスアイレス市から西北西へ三十キロの位置にある。
ブエノス市の中心街を抜けると、畑が広がっている。住宅は、ポツリポツリとあるだけだ。
石畳の通りを過ぎると、あとは果てしない土道である。大雨が降ったら、通行は不可能だという。
渡嘉敷さんの土地は、五十町歩。そこで、温室物として観葉植物、路地物としてグラジオラス等を栽培している。
ガラスの温室は、全部で二十棟ある。
まず、奥さんを紹介された。彼女は鹿児島県出身で、内地の人だという。
沖縄がまだ本土復帰していない頃のこと故、沖縄出身の渡嘉敷さんは、彼女のことを内地人と呼ぶのである。
次に、兄弟を紹介された。沖縄の人は、家族の結び付きがとても強いようだ。
それに、実に流暢なスペイン語で話し合っているのには、びっくりした。
あとで分かったのだが、彼等は沖縄の方言で話し合っていたのだった。
所々に私の知っているスペイン語が出てきたので、沖縄の方言をまったく理解できない私は、
てっきりスペイン語で話していると思い込んでしまったのであった。
渡嘉敷さんには、子供が三人いる。十七歳の長女を頭に、十五歳の長男、そしてスサナという名の十三歳の次女である。
「川島君、すまんが君の家はまだ出来ていないんだ。出来るまで、息子の部屋に一緒に居てくれないか」
私が、予定より早く着いてしまったからだという。何事もゆっくり進む中南米にあって、
私の話は彼等にとっては例外的な速さでトントン拍子に決まってしまったということらしい。
とはいえ、翌日には早速、私が住むためのガルポン(バラック小屋)作りが始まった。
具志堅という沖縄の青年と山田という内地の青年が、手伝ってくれた。彼等は、
もう三年も渡嘉敷さんの所で働いているという。
まず、母屋の脇の土地をシャベルで削って平らにした。その上に、パラグアイから来た田代さんという大工が、
慣れた手付きで、あっという間にガルポンを作ってしまった。
私の家は、たったの半日で出来上がってしまったのである。もちろん、床は地べたのままの、全くお粗末な小屋だ。
「今日の昼飯は、アサードにしよう。川島君の歓迎会をやろう」
渡嘉敷さんの発案に応じて、弟の渡嘉敷善吉氏一家をはじめとする近隣の家族が、ぞくぞくと集まって来た。
アルゼンチンでは、フィエスタ(お祭り)には必ずといっていいほど、アサード(焼き肉)をする習慣があるそうだ。
日本の八倍という広い国土に、人口はわずか二千五百万人。パンパスという非常に肥えた大草原地帯を有し、
そこには人口の二倍、五千万頭もの牛がいる。そのほかにも、オベーハ(羊)、豚、山羊、馬等数知れない。
炭火をおこして、その上にアサドール(鉄綱)を乗せ、肉を置いてジワジワと焼く。
火が強過ぎると表面だけがすぐに焦げてしまうので、じっくり焼くのがコツである。
肉はフィレ肉、リニョン(肝臓)、牛の血を腸詰めにしたモルシージョ、それに日本人が最も好む豚肉の腸詰めのチョリーソ。
塩をまぶしながら焼くだけの、考えてみれば実に簡単な料理である。
これに、レタスとトマトと玉葱の野菜サラダが添えられる。オイルと塩とブィナグレ(酢)
をまぶしたサラダはさっぱりとしていて、アサードには欠かせない。
私は生れてこの方、これ程たくさんの肉を食べたことがなかった。私の少年時代には、昼飯といえば麦飯の中に
梅干しを一つ入れただけの日の丸弁当だった。私の家では海苔の養殖をしていた関係から、シーズンである冬の間だけ、
麦飯の間と上に海苔が一枚ずつ敷かれた。たっぷりかけられた醤油が、昼時までには麦飯と海苔に染み込んで、
ほんとうに美味しかった。少年の日の私にとって、それは冬の間の大きな楽しみであった。
日本の経済が上向きになるに連れ、弁当の中身も上等になっていったが、例えば牛肉を使ってのすき焼きなど
月一回食べられるかどうかだった。その肉もグラム単位で買うのが常識で、キロ単位で買う家庭などまずなかったであろう。
肉を腹一杯食べるということが、私には不思議に思えた。いくら食べても食べても、肉がなくならないのである。
ここでは、正に肉そのものが、主食なのであった。
豪華極まりない昼食が終ると、セニョーラ(奥さん)が私を温室に連れて行った。
温室では、マセタという鉢物を栽培していた。ゴムの木などのいわゆる観葉植物である。
私には、何もかもが新しい事ずくめだった。
だが、私の心には、ただ一つの思いがあるだけだった。
とにかく一生懸命覚えること−それだけであった。
「川島君、あの二人の青年には注意しなさい。悪い人達だからね」
唐突に、セニョーラが言った。私は、びっくりした。
「今日、あんなに一生懸命小屋作りを手伝ってくれた彼等が悪い奴等だなんて。彼等が、一体何をしたっていうんだ」
その夜、私は眠れなかった。いろいろな事があり過ぎた。昨日までの事が、まるで夢のように思われる。
今まで憧れにも似た気持ちで漠然と思い描いてきた移住者としての生活が、いよいよ明日から現実のものとして始まるのだと、
私は自分に言い聞かせた。
翌朝は、六時には目が覚めてしまった。若い私には、時差は苦にならなかった。
顔を洗って温室に行くと、もうセニョーラが先に来ていた。
「ブエノス ディアス」(おはようございます)
最初の仕事は、マセタの土作りだった。この土がしっかりしていないと
、折角植えた植物が、栄養不足ですぐに枯れてしまう。肥料が多過ぎても、枯れてしまう。水かけも、大事な仕事だ。
ここブエノスアイレスでは、何千もの日系家族が花卉栽培を営んでいる。
ブエノス市の西南四十キロにあるニスコバル市で毎年開催されるフィエスタデフロル(花祭り)は、特に有名である。
彼等日系人の間では、温室を何棟持っているかによって、花作りの評価が決まる。
彼等にとっては、より多くの温室を持つことが全てに優先するのであった。
「俺のところには、温室が二十棟とペオンが十人いるんだ。君のところには、何棟あるんだね?」
いつも、こんな会話が交わされた。A氏が何棟温室を増やしたとか、B氏がとうとう温室を手放してしまったとか、
同じ噂が幾度となく話題にのぼる。
そんなことを耳にしながら、とにかく私は働いた。ここでは、デ ソル ア ソル(日の出から日の入りまで)
という言葉がよく使われたが、私は文字通りデ ソル ア ソルに働いた。
休みは、日曜日の午後だけだが、何処かへ出かける気力など全くなく、蓄積した疲れを少しでも癒すために、
ぐっすり眠れることが休みの唯一の楽しみであった。
それでも、私は次第にここの雰囲気に慣れていった。ただ、セニョーラが言ったあの一言が、
いつも頭に重くのしかかっていたが。
パラグアイから来た大工の田代さんは、いつもどこかでトンカチをふるい、ノコギリをひき、ガルポンの修繕に精を出し、
時には新しく建てていた。
ある夜、私は田代さんから誘いを受けたので、仕事を終えてから、彼のガルボンを訪ねた。
彼のガルポンは、五十町歩の土地の中の、母屋からかなり離れた場所に建てられていた。
彼は、妻とまだ幼い三人の子供達と暮らしていた。
彼は、いろいろなことを気さくに話してくれた。六年前に奥さんと二人で移住してきたが、
与えられた土地はひどい土地で、海外移住事業団から聞いていた話とは大違いであったこと。
花を作ってもマーケットがないので売ることが出来ず、そのまま腐っていくのを見ているしかなかったこと。
当然のことながら金が手に入らず、何も買えないので、自家製の作物を細々と食いつないでどうにか生き抜いてきたこと。
話が一段落したところで、私は思い切って尋ねてみた。
「セニョーラは、どうしてあの二人の青年に近づくなと言ったんですか?」
「川島君に、そんなことを言ったのか?それは、全くおかしい。俺はパラグアイでさんざん苦労したが、
ここの使い方はそれよりもっとひどい。君も、考えた方がいいよ」
私は、愕然とした。何が何だかわからなくなってしまった。一体、誰の言葉を信じたらいいのだ。
翌日、仕事が終えるのを待ちかねて、私は青年達のガルポンを訪ねた。
「おお、川島君か、よく来た。今まで、どうして遊びに来なかったのだ?」
「渡嘉敷さんの奥さんに、止められていたので?」
私は、セニョーラが言ったことを率直に話した。
「あのセニョーラの言いそうなことだな。俺達が悪者だなんて、一体俺達が何をやらかしたというんだ」
彼等は、全く気のいい青年であった。少なくとも、私にはそう思えた。セニョーラがなぜあんなことを言ったのか、
いくら考えてもわからない。それも、一度や二度ではなかったのだ。
ここでは、女性がほんとうによく働く。温室の仕事も、男性と全く同じように朝から晩までやる。
炊事は、娘達の仕事だ。次女のスサナは、とても美しい娘だった。彼女は、日本人会のスポーツ大会の花形選手でもあった。
毎年、全コロニアの日系人のスボーツ大会が開催される。
昨年の大会で、スサナはブルサコの日本人会を代表して百メートル及び二百メートル競争に出場し、
見事に優勝したのだった。今年もまた、彼女は優勝候補の筆頭だった。
妹のマルタも、まだ子供ながら運動神経抜群で、将来を期待されていた。
私は、スサナを一目見た時から胸に感ずるものがあった。だが、相手はパトロン(主人)の娘であり、
自分はペオン(下級労働者)なので、初めから気後れがして近寄り難かった。
他方、二人の青年達の気心は、大分わかってきた。彼等は、全く普通の若者だった。
「川島君、多分渡嘉敷さんは、俺達を独立させたくないんだ。それで、君に俺達の悪口を言ったんだ」
ある時、具志堅が言った。日本の八倍もあるこの大国に、日系人は約三万人。そのほとんどが、
ここブエノスアイレス市及びその周辺に住んで、花卉栽培か洗濯業を営んでいる。
国土の広大さに反して、日系人同志の社会は狭い。
広い国土を持つアルゼンチンの牛肉や小麦の産出量は、世界有数である。特に小麦の輸出量は、
世界第一位を誇っている。人口の二倍もの牛は、広大なパンパスの牧草を食べて肥えている。
いくら食べても、牛は減らない。来年になれば、また増えているのだ。
第二次世界太戦によって小麦や牛肉の価格が何倍にも跳ね上がり他の多くの国々が飢えている時、
アルゼンチンはほとんど戦争の影響を受けなかった。どの国も、こぞってアルゼンチンから小麦や牛肉を買った。
当時のブエノスアイレスには、世界中の富が集まったと言っても過言ではなく、
富の力が大規模な都市計画を可能にし、街は碁盤の目のように整然と区画された。
イギリス人の手によって、当時としては最も進歩した地下鉄が敷かれたのもこの頃であった。
こうして、ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれるほど華やかな都となったのである。
イタリア系二世のペロン大統領は、敗戦国となった母国から大量の移民を招き入れた。
何百万人というイタリア人が、ペロン大統領に夢を託して海を渡って来たのだった。
アルゼンチンタンゴ発祥の地ボカ区は、特にイタリア系移民の多い地域である。
また、そこを本拠地とするかの有名なボカジュニオは、リーベルプレイトとともにサッカー王国アルゼンチンを
代表するチームだ。
この豊かなアルゼンチンの国民にとって、食卓を飾る花は生活の必需品となった。
結婚式や母の日等の祝い事にも、たくさんの花が使われた。
ノービア(女の恋人)を訪ねる時、ノービオ(男の恋人)は必す花束を持っていく。
このような習慣に着目した日本人移民達は、こぞって花卉栽培に手を出した。
器用な日本人にとって、花作りはうってつけの仕事だった。
やがて彼等が育てた美しい花々が、来る日も来る日もメルカード(マーケット)に溢れ、ブエノスアイレスは花の都となった。
そして、花の需要の伸びとともに、日系人の数も増えていったのである。
洗濯業のことにも、触れておかなければならない。アルゼンチン人は、手を汚すことを嫌う。
そんな国民性を反映して、洗潅業は非常に割りの良い仕事になっていたため、
当時の洗潅屋の九割は日系人で占められていた。
地方都市には必ず一軒や二軒、日系人の洗灌屋があったのである。
話を花に戻そう。正に天井知らずかと思えた花の需要の伸びに、ここ数年陰りが出てきた。
経済不況から次第にエスカレートしていくインフレのために、一般市民にとって、花は文字通り高嶺の花となっていったのである。
豊かであればこその花。不況は人々の気持ちを、否応無しに「花より団子」に変えていったのだった。
こうした時代の流れをよそに、日系の花卉業者は相変わらす温室を増やすことに夢中だった。
だが、温室を増やしても、質のいい労働者を得ることは難しかった。
気の利いたアルゼンチン人は、花作りを覚えてしまうとすぐに独立してしまうか、
あるいはもっと条件のいいパトロンを探して出て行ってしまうからである。
こうなると、日系業者にとって一番簡単で安全な方法は、日本から実習生を呼び寄せることだった。
何よりの利点は、移住のための費用は国が負担してくれるということである。
パトロン達はただ、亜国拓殖組合に行って移住を希望する青年達の写真を見て決めればよい。
実習生に対する賃金は、アルゼンチンの低い賃金水準によって支払われる。
しかも、それは一日八時間の労働に対してであり、実際には日本から来た青年達は皆、休みもなしに
デ ソル ア ソルに働いてくれる。
ただし、その見返りとして、二、三年働いてくれた青年には独立するための援助をしてやるということが、
日系のパトロン達の間での暗黙の了解事項となっていた。
だが、現実には、誰もが自分達の温室を増やすことだけで精一杯だった。
ましてや、花の栽培を覚えた青年達を独立させるということは、競争相手を育てることにほかならない。
花の需要が減っている時期にである。
渡嘉敷さんも、具志堅青年を独立させなければならない時期にきていた。
土地を見つけ、カーネーションの苗や温室を建てる資金を用意してあげなければならない。
一人独立させるには、大変な散財が必要なのである。だが、青年達が二年も三年もデソル ア ソルに死に物狂いで
働いてきたのは、唯々独立したいがためなのだ。
このような時期に新しい実習生、つまり私を日本から呼び寄せたということは、具志堅青年を追い出すための布石であり、
彼にプレッシャーをかけ、暗に出て行けと言っているのであった。
「川島君に俺達の悪口を言ったのは、正にそういうことなんだ。君が来る前から、
俺は渡嘉敷さんに独立のことを頼んでいたが、決していい顔はしなかった。話は、伸び伸びになっていたんだ。
あんなに尽くしてきたのになあ」
彼はもう、働く気力を矢っていた。
「最近、君達の様子がおかしい。皆、ちょっと集まってくれ」
青年達の気配を察してか、ある日突然、渡嘉敷氏が皆を食堂に呼び集めた。もちろん、日本人だけである。
大工の田代さんもいた。
「君達を呼んだのは、ほかでもない。君達の様子はおかしい。わしに何の話もせんで
、君達はこそこそ何かやっとる。どういうことや?。まあ、川島君はまだ来たばかりだから、
もう行ってもいい。席をはずしてくれ」
この一言に、私はカッときた。
「渡嘉敷さん、あなたは悪い人だ。皆をさんざんこき使った揚げ句、具志堅さんを独立させてあげない。
こんな所なら、私も出て行きます」
渡嘉敷氏は、とてもびっくりしたようだった。まさか私の口から、こんな言葉が飛び出すとは思わなかったのだろう。
具志堅青年を追い出そうという腹だったにちがいないが、私までやめてしまったのでは元も子も無い。
「まあ、待ちなさい。川島君とは、あとでゆっくり話をしよう」
もう、ここにはいられない。いても、具志堅さんと同じようになるだけだ。
何のために、アルゼンチンまで来たのだ?。私の決意は固かった。
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