3.アルゼンチナ丸
とうとう四月二日がやってきた。快晴である。
私の兄弟は見送りに来てくれたが、母は寂しくなるからと言って来なかった。
「川島君、今回は力行会としては君がたった一人の男なんだから、船員さん達を助けて、
長い航海を無事に乗り切ってくれ。そして、南十字星の会の花嫁さんに悪い虫がつかないように、
しっかり守ってあげてくれ。わかったね。頼むよ」
西名理事が言った。ドラの音が、ガンガン響く。陸上自衛隊の音楽隊が演奏を始め、
「蛍の光」が流れる。
ボウボウと汽笛が鳴り、見送りの人達に下船を促す。最後の移民船アルゼンチナ丸一万一千トンが、
ゆっくりと岸壁を離れる。いよいよ出発だ。
私は甲板のデッキにもたれ、黒山のような見送りの人々を見下ろしていた。
その中にかつて一緒に汗を流した高校のテニスクラブの先輩後輩達、そしてクラスの同僚達がいた。
「川島ァ、元気でなァ、きっと成功しろよォ。手紙をくれよなァ」
武藤だった。私には、とっさにわかった。一緒に国体へ行った、あの武藤だった。
岸壁は、どんどん遠ざかって行く。見送りの人達との唯一の絆のテープが、切れて落ちていく。
武藤は、少しでも船に近づこうと懸命に走って来た。大粒の涙が、私にははっきり見えた。
「あいつ、馬鹿だな。泣きやがって」
私は、涙をこらえていた。
こうして、アルゼンチナ丸は四十日余の長い航海に船出した。
移住者の船室は、船底の大部屋だった。かつてはこの大部屋に、何百人、何千人もの移住者が詰め込まれたに違いない。
ここには、彼等の血と汗と涙が染みついている。その頃に比べると、移住熱もすっかり下火になり、隔世の感があるという。
今回は花嫁さんを含めても総勢十八名、残りの乗客は米国への留学生やらブラジルへの再渡航者等で、
積み荷の方が圧倒的に多いということだった。
二、三日すると、シケにあった。大部屋のベッドはくっついて並んでいるので、横波を食らうと、
寝ている人間はゴロゴロとどこまでも転がってしまう。
転げ落ちないようにしっかりつかまっているのだが、揺れは強烈である。
私は子供の頃から乗り物に弱く、日光や箱根などへのバス旅行では一番前に座って、バケツを抱えていた。
そんなわけだから、あっという間に船酔いしてしまった。食欲などあるはずがない。
船室のいやな匂いが抜けない。最悪である。
私が面倒を見なければならない花嫁さんの方がずっと丈夫で、逆に食事を運んでくれたりした。
こんな私が、おまけにアルゼンチナ丸移民船進行委員会の運動部長を仰せつかっていたのだから、
全く恥ずかしい限りであった。
因に、委員会の委員長には、早稲田大学出身でブラジルの南米銀行に行くという井出さんが選ばれた。
他に二人、同じく南米銀行行きの仲間がいた。放送部長の長谷川さんと酒豪の加藤さんである。
本来の航路は南回りでハワイに寄って行くのが通常のコースなのだが、今回は移住者の人数が少ないということもあり、
早く到着するために北回りのコースをとるという。
早速、放送部長の長谷川さんが中心になってガリ版を刷り、皆に配って船長を非難したが、
それまでであった。如何せん、移住者は十八人しかいない。船員の人数の方が、はるかに多いのである。
また、こんなこともあった。アメリカ留学するというT大学の空手部の連中が、下駄履きでカランコロン
と大きな音を立てて、船内をのし歩くのだ。夜になれば、酒盛りである。
一体、彼等はアメリカまで何をしに行くのだろう。
真夜中まで騒いで他人の迷惑を顧みない態度を見かねて、血気盛んな私は仲間の制止も聞かず、
「おい、お前達、いい加減にしろよ。皆の迷惑を考えろ」
と、怒鳴りつけてしまった。内心、彼等が向かって来るのではないかと思っていたが、
連中はそれきりおとなしくなった。今考えれば、案外気のいい連中だったのかもしれない。
そうこうしているうちに、最初の停泊地、ロスアンゼルスに着いた。
T大の学生達は、ここで下りる。私達は、十四ドルのオプションツアーでロス市内の見物だ。
ちょっと高いような気もしたが、折角のチャンスなのでケチってもいられない。
バスをチャーターして、スター達の足型があるあの有名なチャイニーズシアターや映画の都ハリウッド等を見物する。
それに、ビバリーヒルズの高級住宅街。
「何て素晴らしい家だろう。アメリカとは、何て金持ちな国なんだろう」
それが、私が初めて見た外国、アメリカから受けた鮮烈な第一印象であった。
たった一泊の短い停泊でロスを後にし南下して行くと、だんだん暑くなってきた。
シャツ一枚になっても暑いくらいなのだが、波は静かで航海は快適である
。調子が出て来たところで、皆卓球をやったり、マットを敷いて柔道に興じたり、輪投げゲーム等して遊んだ。
力行会の先生から仰せつかった通り、私はシケで伸びていた時を除いては、毎日船員達の手伝いをしていた。
「何もそこまでしなくてもいいのに」
仲間たちの目は、冷ややかだった。
彼等は、既に社会人として、ある程度の経験を積んでいた。私は何も知らない。
だから、ほかにどうすることも出来なかったのかもしれない。
私は、船員たちの手伝いを続けた。それが、力行会の任務だと思い定めていた。
パナマ運河に近づくと、花嫁さん達は、ビキニに着替えた。
「川島君、もっとこっちに来なさいな。かわいがってあげるから」
小島という花嫁さんが、私に声をかける。十九歳になったばかりの一番若い私は、
彼女達の悪ふざけの格好の餌食であったようだ。
「君、あの花嫁さんは何ていう名前なんだい?これを、あげてくれよ」
ある日、一人のボーイが私に言った。南十字星の会の花嫁さんの一人、
沢田さんは二十二歳のポチャッとしたかわいい人だった。私は、ボーイの言伝をその通りに伝えた。
「川島さん、悪いけど、これは受け取れないと言って返してくれない」
彼女は、しっかりしていた。ほかの花嫁さんのように、浮ついたところがなかった。
と言っても、私はそうした花嫁さん達を責める気にはなれない。元々写真一枚で嫁いでゆくのだ。
相手の性格等はもちろんのこと、顔さえろくにわからないのである。
毎日親切にアテンドしてくれるボーイと恋に落ちて、本来の結婚話が解消になってしまったというケースが
良くあると聞いたが、当然のこととも思える。
船は、パナマ運河に入った。この運河の建設は、まずフランスのレセップスという人が着手し、
その権利をアメリカが買い取ったのだが、今はパナマ国に返還されている。
太平洋と大西洋では海面のレベルが違うので、この高低さを利用して少しずつ船を移動させていくのだそうだ。
一回通るのに、何百万もの金を払わなければならない。
ここで、また一人、明治大学柔道同好会三段の清水さんが下りた。コスタリカに行って柔道の教師をするという。
とにかく暑くて、大部屋では寝ていられない。特に既婚者は、大風呂敷きを吊して仕切り代わりにしてあるので、
一段と暑苦しいことだろう。これほどの暑さは、人間を次第に大胆にさせるのかもしれない。
パラグアイに住む吉野夫人は、カメラを何十台と買い込んできた。カラカスで下りるのだが、
税関がうるさいので一人一台ずつ持って降りてくれと言う。旅行者の所持品としてなら、
一人一台は大丈夫なのだそうだ。
そのためか、彼女は若い移住者達に盛んに媚びを売っている。
私の前にも足を伸ばしてくるのだが、私はどうしていいかわからず、慣れない手付きでその足を撫でているしかなかった。
ベネズエラの首都カラカスの港、グアイラ港に着く。カラカスは、港から車で三十分程の所、
海抜六百メートルの高地にある。黒い瞳のセニョリータがたくさんいる。
「ブエナス タルデス」(こんにちは)
と声をかければ、気さくに同じ返事が返ってくる。
道幅が狭く、その狭い通りを米国の大型車が頻繁に行き来する。ここは石油の国、南米唯一の黒字国である。
吉野夫人はここで下り、青年達からカメラを取り返した。日本製のカメラは、何倍もの高値で売れるのだ。
グアイラの次はキュラサオ島だ。ここで、石油を積み込む。船員たちがやけにはしゃいでいるが、私には訳が分からない。
「おい、今晩、女を買いに行かないか?」
ボーイの一人が、私を誘った。
このキュラサオ島には、世界有数の規模を誇る売春宿があり、世界各国の女達が集まっているという。
男なら一度は行ってみたい所ということになろうが、まだ経験のない私には、
女を買うという事がいかにも不潔に感じられた。
ついでに言えば、私が童貞を返上するには、この後二年半の孤独な海外生活が必要であった。
船はいよいよブラジル領に入った。ピミエンタ(胡椒)の町、ベレンはすぐそこだ。
だが、ベレンには入港せず、停泊しただけだった。港からはしけで花嫁さん達の相手、
つまり花婿さん達がやって来た。
花嫁さん達は、たった一つの手掛かりである写真と見比べながら、それぞれ自分の花婿さんを探す。
真っ黒に日焼けして、写真の顔とはぜんぜん違うらしい。
船のボーイさん達の方が、色白ではるかにハンサムだ。
これが二度目の渡航という南米の長さんこと農大出身の長沢さんは、ここで下船する。
学生の時に一年間、アマゾンのトメアスという所にいたという。
長さんのことだから、きっと成功するだろう。というのが、仲間の一致した意見だった。
こうして、アルゼンチナ丸は、あと三つの停泊地を残すのみとなった。
リオデジャネイロ、サントスそして最後のブエノスアイレス港である。
日本をあとにして、もう一ヶ月を超えている。
ほんとうに、長い旅だった。またいつか、この人達とあえるだろうか。
「アマゾン河とラプラタ河を下って、きっと会いに行くよ」
と、冗談混じりに言っていたカリプソ娘の小島さんは、写真の夫とうまくやっていけるだろうか。
彼女はきっと、恋に破れて捨て鉢になっていたのにちがいない。
ベレンを出ると、速かった。私はあわてて、ロスアンゼルスから一緒になったカルロスというアルゼンチンの青年に近づいた。
即席でスペイン語を覚えるためである。
彼は、実にがっちりした素晴らしい体格の持ち主で、丸一年アメリカで働いたのに、
あまり金を貯めることが出来なかったという。盛んに、アメリカ人の悪口を言う。
リオデジャネイロ港に着いた。
ここには、有名なコパカバーナの海岸がある。そして、ここにもまた、世界中の男を魅了する女達の館があるのだ。
「川島君、どうだ、今度は遊びに行かないか?」
その頃にはすっかり打ち解けていた酒豪の加藤さんが誘ってくれたが、やはり私は、不潔感が胸一杯に広がって、
とても行く気にはなれなかった。本当は、ちょっと恐くもあったのだが。
こんな具合だから、結局、移住センターの斡旋員がくれたコンドームは、役立てることが出来なかった。
当時はそもそも何のために使うのかさえ、分からなかったのである。
町に下りて、力行会の花嫁の沢田さん達と市内を見物した。その時初めて、沢田さんから夫になる人の事を聞いた。
力行会の先輩で、南十字星の会で知り合ったという。沢田さんの気持ちが浮ついていない訳がわかったが、
ほかの花嫁さん達のことを考えると、私の気持ちは沈んだ。
リオには、黒人が多い。何やら、早口で話している。見るからに、人がよさそうだ。
「ブエナス タルデス.コモ エスタ?」(こんにちは。元気ですか?)
「ボア タルディ」(こんにちは)
ポルトガル語で返事が返ってくるが、スペイン語もペラペラのようだ。
彼等にとっては、東京弁と大阪弁くらいの違いに過ぎないらしい。
ブラジルは中南米で唯一、ポルトガル語を自国語としている国である。因に、他の諸国は皆、スペイン語である。
人の良いブラジル人達との交流も束の間、サントス港へ向かう。サントスからブラジル一の大都市サンパウロまでは、
約八十キロ。ブラジル全体で八十万人いるという日系人のうち、六十万人がサンパウロに住んでいる。
日本人街があって、日本語が日常語になっていることはもちろん、日本にある物は何でも手に入る。
ブラジル人はとても親日的で、日系の大臣もいるという。
とうとうサントス港に入港した。ここで、移住者を含めたほとんどの乗客が下りてしまう。
皆、下船に夢中で、私のことなど忘れてしまったかのようだ。
ついに、私は細川夫人と二人きりになってしまった。あとは、あのアメリカ帰りのカルロスとパラグアイ
に留学する二人の学生だけである。留学生の名前は下条さんと山田さん、二人ともJ大学の三年生で、
日本の大学は休学にして来たという。
パラグアイには海がなく、極めて交通の便の悪い国だ。知り合いの日系人の紹介で、
ブエノスからバスで丸二日かけてパラグアイの首都アスンシオンに行くのだそうだ。
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