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 15.ミチルとの新しい生活

翌日キューバからクーリエでよく来るS理事官が、

「川島さん、彼女からだよ」

と言って、私に一通の手紙を渡した。それがミチルとの文通の始まりだった

。若い女の子から手紙をもらって悪い気はしない。それにはキューバの生活の様子が詳細に書いてあった。 早速その晩、返事を書いてS理事官に渡した。キューバといってもカストロ、そして共産国といったことしかわからなかった。 しかしこの彼女との文通によって、キューバに興味を持ち始めた。

そうこうしている時、一番下の弟、暁人が来墨した。日本で骨接ぎをしていたのだが、 外国で何かしたいという。私もアルゼンチンで指圧をやった経験がある。ましてや彼の場合、プロである。

ハリ・マッサージの免許も持っている。ここで成功しないわけはない。大統領が代わり、メキシコのペソが下落した。 そのおかげで私たち外国人はしばらくは大助かりだった。ペソが下がれば当然、ドルベースで給料をもらっている 我々の収入が増える。

もちろんインフレもあるだろうが、当分の間はデバル(平価切り下げ)のメリットの方が大きい。 インフレがこれに追いつくのはまだ一、二年先だろう。そういうわけで今度は2LDKのアパートに移り住んだ。 弟がいても大丈夫だ。大使館には非常に近い。わずか五分足らずだった。

あの事故で車は放棄。今度は現地の日産から割安で中古車を購入した。メキシコではダッツンと呼ばれる。 ダットサンがなまったものだ。値段の割りにはよく走った。

早速弟の仕事のことを心配しなければならない。それにはまずワークビザを取得しなければ、 おおっぴらに仕事ができない。

しかしそんなにたやすく取得できないようだ。 アルゼンチンの時はあんなに簡単だったのだが、メキシコは人も多く、 工業がそんなに発達していないため仕事が限られている。毎年何十万人という人がアメリカに 密入国している現状だ。ましてや外国人に仕事を優先するわけにはいかない。

そんな時私たちは、やせるハリを試してみた。私が日本のさる週刊誌で見つけたのだ。 早速それを肥満で悩んでいた大使館の現地雇いの女の子に試してみた。

それが何と、たった一カ月の間に五kg以上もやせてしまったのだ。 うわさは早い。日本から持ってきた数百本の皮内針はまたたくまになくなってしまった。

追加を至急、日本の実家に頼んだ。皮内針は小さくて軽いので、百本、二百本はどうってことない。 うまく包装すれば航空便で一週間から一〇日間で着く。

こうしてこづかいが入ってくるので、弟は調子づいた。言葉の方もそんなに勉強しないのにどんどんうまくなっていく。 人は見かけによらないものだ。

そうこうするうちに、弟のハリはメキシコの上流階級のうちでも知られるようになった。 その一人に、現大統領ロペスポルティージヨの愛人、ルスアレグリアがいた。

彼女の影響で、弟はハリインストラクターという特別ビザを取得できた。 このおかげでその後は心配なくハリで商売できたわけだ。

私とミチルの文通もすでに八カ月近く続いていたが、突然手紙が来なくなった。 ほとんど毎週といっていいぐらいに来ていたのに。

それから一月後、キューバから I 書記官が来るという。例のごとく、飛行場に迎えに行った。

そこにはなんと、彼女がいるではないか。私はビックリした。彼女の様子もおかしい。

「 I さん、どうしたんだ。何かあったのか」

「彼女、ノイローゼで、大使とうまくいかないんだ。それで帰国が決まって、俺が連れていくんだ」

その日はガリバルディ広場、通称マリアッチ広場に連れていった。少しでも心が安まれば、という気持ちだった。 この広場はあまりにも有名で、何十、何百というマリアッチの楽団がここに集まり、音楽を競い合う。 そして毎晩何千人というお客が、中には恋人同士、家族連れ、外国旅行者がこの音楽を聴きに集まってくるのだ。

そうだ、私もおよそ四年前、ボクシングマネージャー、パンチョ・ロサーレスとセニヨールマルティンに 連れてきてもらったことがあった。早速チームの一つと交渉し、彼女の好きな曲を演奏してもらった。 ラ・マラゲーニャと、シエリート・リンド。なんとも言えないほどすばらしい。一曲千円とは安いものだ。

翌日後らを飛行場に連れていった。あとは I さんがうまくやってくれる。彼女と八カ月近くも文通したが、 それほど印象に残らなかった。イヤな事、自分に都合の悪い事はすぐに忘れるたちだった。

アルゼンチンの生活体験が自分をそのような性格に変えていたのかもしれない。 このラテン社会で生きていくには、そうしなければとてもやっていけない。

「アスタ マニャーナ」(また、明日まで)の心境でなければならないのだ。 それに私は二年の契約期間が終了したら日本に帰って、田先生の秘書になることに決めていた。

しかしある日、予想もしない電話がかかってきた。ミチルからであった。 メキシコに行ってメキシカン料理を勉強したいので、どこか手頃なホテルか寮を探してくれというのである。 私は気軽に何も考えないで、

「わかった。探しておいてあげる」

と言ってしまったのである。まさかその五日後にはメキシコに来るとは思ってもみなかった。

「私、今ロスアンゼルスの飛行場にいるの。これからそちらへ行きます」

と言ってきた。手頃なホテルなんぞ、そう簡単には見つからない。

「暁人、おまえ済まないが、俺の部屋へ移れ」

弟を無理やり移らせた。その部屋を当分彼女に使わせなければならない。 彼女はエアポートに着いた。そしてその日から我が家の住人になったのである。

それからは食事の心配はいらなくなった。何しろ大使館の料理人がついているのである。 部屋もきれいになるし、それは便利であった。

今になってみると、彼女がこんなにも早く メキシコに来られた原因は、正しくロスアンゼルスに実の姉がいたからである。 たまたまJALの職員に嫁いでいた姉は、夫のロス転勤で家族ともどもロスのガーテナーに住んでいた。

ミチルはしばらくそこでやっかいになっており、時期をみはからってメキシコに来たのだった。 ロスからメキシコシティまではわずか飛行機で三時間の距離であった。 ロスからニューヨークヘ行くよりも近い距離にあった。私はそのことをまったく知らなかったのである。

このことが、私たちの運命を変えた。 これがきっかけとなって結婚することになった。十二月のことであった。

次の年の三月には任期が切れて帰国しなければならなかった。大使館側では任期を延ばさないかと 打診してきたが、私の考えは変わらなかった。結婚はグアダラハラで行うことになった。

仲人は私の友人で、日本で知り合ったあのアルベルト・モーラとその母親が引き受けてくれた。 彼の妻はかなり前に死んでいて、日本で彼を知った時はやもめ暮らしをしていた。 また日本で知り合ったすべての友人が出席してくれた。

私はカトリックではなかったがミチルが洗礼を受けていたので教会で儀式を行うことが認められた。 特別のはからいであった。

すでに住居の属するメキシコ市の役場での登録は済んでいた。 二人の証人が必要で、一人は家の女中さんが、もう一人は私のスペイン語の教師でかつ 友人のルシアがなってくれた。

彼女は現在日産メヒカーナの重役夫人で、雨宮ルシアである。 彼女はグアダラハラの結婚式にもわざわざメキシコシティから駆けつけてくれた。 メキシコシティからは弟の暁人と、実に二人だけだった。 後は皆グアダラハラのアルベルト・モラの関係だった。彼はその時下院議員だった。

結婚式は実におごそかに行われた。アルベルトの子供のアルベルト・ジュニアとクラウディアがミ チルのウェディングベールの端を持ってくれた。彼女はまだ言葉がよく理解できないこともあって、 ことの他緊張していた。

私も落ち着いてはいたものの、何とも表現できない気分だった。私にとってはまるで映画でしか見たことが ない世界だったので、まったく何をしていいかわからなかったが、アルベルトはそこは政治家、 彼の秘書を私のそばにつけてすべての段取りを手際良く導いてくれた。

このおかげで儀式は大成功に終わった。 特に最後の場面でのグアダラハラの少年聖歌隊のすばらしい歌声がいつまでも耳に残るほど印象的だった。

グアダラハラで最高級のカミノレアルホテルに宿泊し、翌日はハネムーンだ。私が選んだコースは 太平洋岸に北に上っていくコースだった。

ロスモチス、クリアカンにはやはり日本でガイドをしているとき知り合ったチャベス兄弟がいた。 連絡をすると彼らは喜んで、早速現地のホテルをとってくれた。

しかし彼らの紹介で、我々が最初に訪れた場所はツスパンの安達さんの家であった。 グアダラハラからバスで五時間の場所にあり小さな町であった。安達さんは終戦直後にメキシコに渡り、 小さな金物屋を始めたが今では町でも有数な店となり、ここで安達さんの名前を知らない者はいないほどだ。

ここはエビで有名な場所で、毎日カゴにいっぱいとれたばかりのエビをいれてセニョーラが売りに来る。 グラムでは売ってくれない。毎日毎日、エビをおどりで食べたり、わざわざ私たちのために天ぷらにしてくれた。 ここでは日本食はなかなか手に入らないのですこぶる貴重だ。

奥さんは生粋のメキシコ人なので子供は日本語を話さない。どうしても言葉には母親の影響が大きい。 しかしとてもまじめな青年で、親の仕事を立派に引き継いでいた。

翌日はカモ猟だ。長男のホルヘが連れていってくれる。朝五時に起きて、 外はまだ暗い。ワゴン車に彼の友人二人と乗り込む。

暗い道の中をどんどん山側に走っていく。三〇分少し走っただろうか。空がなんとなく白んできた。 「さあ、ここだ。ここで降りよう」

ワゴン車を降りて、あとは畑の小道を歩いて行く。そこはトウモロコシ畑だ。すでに実は刈り取られている。 その時、ザーザー空がうるさくなってきた。

「バヘ ラ カベサ シーゲ デ ノソトロス」

頭を下げて、我々の後ろについてきて。ホルヘはこういいながら、エスコペタ(散弾銃)を片手に 持ちながらひざをついてその音のする方向へと向かう。

するとどうだろう、真上の空が急に暗くなったかと思うと、数千、いや数万羽のカモがトウモロコシ畑に 舞いおりてくるではないか!それは大変な数である。

ガァガァと鳥たちは残りの実をつついている。スペースなどありはしない。 畑一面カモのフトンだ。ホルヘと仲間二人は地面をはいながら、 鳥の胸にねらいを定めてエスコペタをかまえた。

そして合図をし合い、一斉にバァーン。散弾銃には五〇発のバラダマがはいっている。 それがあたりに飛び散るのだからたまったものではない。カモはなかなか死なないでもがいている。 彼らは一目散に走りながら逃げていくカモの群れにもう一度銃を発射する。畑一面傷ついたカモでいっぱいだ。

彼らはそのカモの一羽一羽、手でわしづかみにすると首をぐるっと回して息の根を止め、羽をもいでいく。 暖かいうちは簡単にとれるのだという。手際の良いこと、早いこと、あっという間に処理していく。

なんとその日の収穫は合計約一〇〇羽だった。六発の弾で一〇〇羽なんてとても信じられない。 彼らが言うには、多い時は一発で四五羽しとめたそうだ。

「世界記録なのではないか?ギネスにのったりして」

なんて私は冗談を言う。

それから町に向かう。そこでは業者に一羽一〇ペソ(約一〇〇円)で売る。 本日の売上は一万円だ。彼らにとってはちょっとしたこづかいだ。

こうして朝の猟は終わった。ホルヘが言うには、毎年この時期になるとカナダからこちらに南下してくるのだという。 サイズもこちらのカモより大きいのだそうだ。エビは毎日食べらられるし、海へ出ればマリーン、 まぐろ、大物がごろごろ釣れるそうだ。

安達さんがここに住みついたのもこういう狩猟や漁ができるからだという。 そういえば家の中に三mもあるマリーンの剥製や、ジャガーの毛皮が飾ってある。 昔はジャガーもよくとれたが、今は乱獲でさがすのは非常に難しいという。

その夜の夕食もエビのおどり食い。実のところ、私はエビにはもううんざりしていた。 だがそんなことは口には出せない。ミチルは好きなのか、同じようによく食べている。

本当に世話になった。初めて会った私たちをこのようにもてなしてくれるなんて。 それも友人のたった一枚の紹介状で。これがメキシコのよいところかもしれない。

ビバ メヒコ!

メキシコ万歳だ。

次の日はマサトランに向けて出発だ。ホルヘが車でバスの停留所まで送ってくれる。

再びバスでマサトランヘ。メキシコの長距離バスはほとんどリクライニングシートなのでゆったりしている。 ただ運転が実に荒っぽい。そこで私たちはいつも真ん中から後方に座ることにしている。

数年前ロスアンゼルスからメキシコシティまで丸三日間バス旅行をした経験が今でも目に浮かぶ。 このガタガタ道を時速一二〇kmで走るのだから、特に夜行バスはおっかない。

朝方にいねむり運転で対向車と正面衝突が起こることになる。 時速一二〇kmと一二〇kmが正面からぶつかるのだからたまったものではない。

そうなると新聞記事になるのだが、三〇人とか四〇人死亡とか、このくらい死なないと記事にならない。 それで私はバスに乗る時は決まって後部の席に座ることに決めていた。

しかし他のメキシコ人はそういうことにおかまいなしで、あまり気にしないようだ。 逆にゆっくり走ったりすると彼らは運転手をせきたてている。メキシコではバスの近くを走ることはタブーなのだそうだ。

五時間も乗っただろうか。マサトランの町に到着する。

ここはロスアンゼルスから飛行機で二時間もあれば楽々着いてしまう太平洋岸に位置する有名な避暑地だ。 カミーノレアル、シェラトン、ホリディインなどの世界的に知られたホテルが軒並みに並んでいる。

バスターミナルからタクシーで一〇分、カミーノレアルホテルに到着。 ここで一泊。明日はチャベス氏がこのホテルに迎えにくることになっている。

非常階段を下りると崖に達する。その崖に沿ってさらに下に下りると、もうそこまで海水がきている。 その陰の岩肌に無数にはりついているものがある。ウニだ。それを岩からひっぱがして食べる。

こんな簡単に手に入るなんて、こっちの人はあまりウニに興味がないのだろう。

さすがに北半球、 この一二月のシーズンはかなり涼しい。米国、カナダのお客はさらに南に下がったシワタネホ、 アカプルコ、さらに南のカリブ海のカンクンの方に足を伸ばす。こちらは一年中泳ぐことができる。 さすがにマサトランのこの時期は水泳は無理だ。

翌日一一時にチャベスは義兄のセニョールガルシアと二人で迎えに来てくれた。

彼らと会うのは七五年の沖縄海洋博以来である。私はその時彼らのガイドを務めて、東京、京都、大阪、 そして沖縄まで案内したのだった。彼らの他、チャベス ラウルの兄、カルロスと、 それぞれのセニョーラ(夫人)を同行しての六人のVIPのツアーだった。

まずガルシア氏の住んでいるクリアカン市に向かう。舗装はまあまあだが、 道のところどころに穴が多い。よほどの大きな穴がない限り、決してスピードを落とさない。

メキシコ人の金持ちが大型車を好むのは見栄だけではなく、事故を起こした時の安全性を 買っているのだということがよく理解できる。

午後二時前にクリアカンに着く。ガルシア氏は町の歯医者だ。 クリニックのすぐ裏側に自宅がある。そこでは夫人が昼食を用意してくれていた。

子供が五人いて、男の子もよく手伝う。食事を終え、ドクターガルシアファミリーに別れを告げ、 一路ロスモチスヘ。ここからはラウルガルシア氏が一人で運転する。

途中軍隊のトラックが前方を走っていく。 見るからに人相の悪い兵隊らしき者が自動小銃を小わきに抱えている。 その様子が普通見かける兵隊とはちょっと違っていたのでついカメラを取り出して写真を撮ろうとした。

「エスペラ マサヒト。ノ プエデス。テ マータン」(待て、正仁。撮るな。殺されるぞ。)

まじめな顔で言う。先日右前方にそびえる山のふもとで軍隊とマリファナを栽培するマフィアの組織との間で銃撃戦があり、 双方ともかなりの死者を出したという。

彼らはその援護に行くのだろう。おそらく軍人ではなく、金で雇われた傭兵だという。 シティでいつも人のいいメキシコ人を見慣れている私にとっては、 こんなに人相の悪いメキシコ人を見るのも初めてのことだった。銃を持つと人間の性格まで変わってしまうのだろう。

そうこうするうちにロスモチスの町に到着した。ここでラウルはアボカード(弁護士)をしていた。

彼のことを町の人はリセンシアド(弁護士の意)と呼ぶ。友人にはチャトと呼ばれている。 チャトとは、鼻の低い人という意味だ。そういわれてみれば、トナカイの鼻のようだ。

まず彼らがリザーブしてくれた町のホテルにチェックインする。 そこで荷物を預けて、再び彼の車に乗る。それからカルロスの家に行く。

「ビエン ベニード マサヒト。コモ ジェガステ テ エスペラバ」(よく来てくれたね、正仁。待っていたよ。)

「ツ エスポサ。ムイ ボニータ」(おまえのワイフか。美人だね。)

などと言いながら、家族を紹介する。夫人はもちろん日本で会ったので知っている。 そしてチャトの夫人アリシアも同席していた。彼女はメキシコ美人だ。

メキシコで美人をもらうには、格好よりもまず金だ。金持ちにならなければまず無理だ。 そういえば大きな高級車をのぞいて見ると、男性は美男子もブ男もいるが、 隣にはかならずといっていいほど美人が乗っている。

そういえばアルゼンチンでもそうだった。変なところでアルゼンチンを思い出してしまう。 聞けばアリシアの実家は千ヘクタール以上の農地を所有してトマトや野菜を栽培しており、 そのほとんどは米国に輸出しているという。それを運ぶトラックも自分たちの所有物だという。

そういえばこの地帯には潅漑設備が非常によく整っていた。この一帯は米国のロスアンゼルスと同様雨が少なく、 砂漠状態だった。それを河を堰きとめ、ダムを作り、潅漑設備を整備してからはメキシコでも有数の農作地帯と して発展した。

その水を管理する水道局の局長がカルロスだった。 それで夫人同伴のオリエンタルVIPツアーが可能なわけだ。

翌日はそのカルロスの浄水場を見学。それから湾にデルフィン(イルカ)の群れを見に行った。 他に見るべきところもないのでこの町の唯一の日系人、赤地氏の経営するメルセリア(小間物店)に 連れていってくれた。

もともと砂漠で何もないところにできた町なので、かなり舗装はされているものの道は非常に広く、 埃っぽく、その作りはいかにも西部の町といった感じだ。

翌日ホテルをチェックアウトし、料金はすべて、彼らの招待ということで彼らが支払ってくれた。 そしてクリアカンの飛行場に連れていってくれた。

私たちのハネムーンは、バスが多く大変な旅行だったが、いろいろな人たちの暖かさに触れ、 すばらしい思い出がたくさんできた。ミチルも言葉こそよく理解できなかったものの、それなりに満足していた。

メキシコシティに戻り、アパートに帰った。弟はすでに仕事を始めていた。明日からは大使館に出勤しなければならない。 九時前に大使館に着くと運転手が皆寄ってきて、

「フェリシダーデス フェリシダーデス セニョールカワシマ」

おめでとう、川島さん、と言いながら抱きついてくる。そして肩をポンポンと軽くたたく。 一応上司のN会計官、そしてO公使にあいさつをしに行く。とにかく一週間以上も休暇をくれたのだ。感謝しなければ。

O公使は私たちを次の土曜日に自宅に招待してくれた。話によると学生時代に外交官試験を通ったが、 最初からその道を選ばず商社で三年ばかり働いて、それからカーブしたのだという。 道理で人間に幅があるようだ。

若いうちはいろいろな事をやった方がいい。 いろいろな経験を積んで大きくなっていくんだ。

私もアルゼンチンから帰国してさる商社に行ったところ、大学を卒業していないという理由で追い返 されたことがある。そういう社会環境を作っていくと若者は育たない、狭い、排他的な社会になってしまう。

最後に外務省の職員にならないかとも尋ねられたが、私の気持ちは堅かった。 家内は調理士、栄養士の資格を持っていたので、まず大使館の夫人たちから口がかかった。

ロコミというのは恐ろしいもので、それから商社の奥様方に、そのうちメキシコ人の中にも広がっていた。 このまま料理の先生をやっていたら案外妻の方が成功するのではないかと思えたが、 私の性格は一度決心するともう後には戻れなかった。

O公使はよくやってくれたと大使館最後の仕事としてクーリエとしてキューバに派遣してくれた。 妻はもう一度友人たちに会えると大喜びだった。

たまたま日程の都合上、フライトはクバーナ(キューバ)航空だった。 あの旧ソビエトのイリューシンの中古機だ。機内は狭く、なんとなくちゃちな感じだ。 それでも不平は言うまい。とにかく長年行きたかったキューバに行けるのだ。 初めて共産圏の国を見られるのだ。

飛行場には我々の共通の友人S書記官が迎えに来ていた。ブレシデンテホテルに直行する。 外面はすばらしいが内はかなり傷んでいる。

エアコンをつけたらガタガタ音がして、なんとなく気持ちが悪い。 行く前に行った経験のある官員から、キューバは共産国だからお金は受け付けないので、 チューインガムやチョコレートをたくさん持っていったらいいと聞かされてきた。

確かにそういう物に飢えているようだ。外貨が不足して、そのために外国人旅行客を誘致しているとのことだったが、 まだまだ受け入れの用意が足りない。

S書記官は自分のフォルクスワーゲンでまず大使館に。ここには大使をいれて官員は四人しかいない。 今大使夫妻は日本に行っているという。その方が我々にとってもちょうどよかった。 あの口うるさいおばさんに会わなくて済むからだ。

私は仕事上、ここの大使夫人のアテンドをよくやらされた。いつもグチの聞き役だったが、 私は黙って聞いてあげたので、評判はよかったようだ。それでいつも私が相手をさせられた。 武田氏はあきあきしていたのだろう。

それで次席のT一等書記官にあいさつをした。妻がいた時のY書記官はすでに日本に帰国していた。 T書記官はその後任だった。

それから現地職員のMさん。彼は若い時キューバに移民で来て、 そのままキューバ人と結婚し、二人の子供がいる。大使館のわきに家を建ててもらい住んでいる。

キューバ人にとっては大使館で働けるということはまさにエリートであった。 いろいろな物が手に入るからだ。物がないということは、人の心まで貧しくしてしまう。

すべて平等に物がなければそれでよいのだが、少しでも無理をすれば手に入るとなれば、 人は競って手に入れようとする。

外交官の特権で彼らの専用のショップがある。すべてそろっているわけではないが、 まあだいたいの物はおいてある。大使館で長年働いていればおのずから要領がわかってくる。

そういう理由で彼の家族はキューバでは特別階級であった。しかも自家用車まで持っているのだ。

妻はこの家族には大変世話になったのだという。結婚後こんなに早く、こうしてここに来られたのだから、 これ以上の再会のチャンスはないであろう。

S氏はいろいろ一般の旅行者が見学できない場所に連れていってくれた。 町のどの店もたくさんの列ができて、クーポン制だという。 途中で物がなくなることもしばしばあるらしい。

S氏は、川島さん、おもしろいところがあるよ、と言って、私たちを骨董品屋に案内した。 ここはもちろん政府が管理している。外国人のみがOKだ。

革命前の金持ちたちから没収した品物がすべてで、宝石から絵画など、あらゆる物があった。 そのどれもに値段がついてペソからドル、そして円に換算すると以外に高価だった。

ほとんどの品がイタリアのバイヤーに持っていかれてしまったらしい。 そんなわけであまりこれといった掘り出し物はなかった。

そこで記念に銀の皿を一枚二五〇ペソ(約三〇〇ドル)で買った。 当時キューバペソの方がドルよりも高かったが、ヤミでは一ドル六ペソも七ペソもした。 そのかわりもし秘密警察に見つかればセーラー(売り手)もバイヤー(買い手)も同様に罪になった。 こんなところでぶた箱にぶちこまれてもしょうがない。

夜はへミングウェイの店を訪れた。ヘミングウェイはこのバーによく来たのだという。

あまり観光資源のないこの国ではへミングウェイの知名度は貴重なものだった。 その店には自筆の書き物・写真などがすぐに目にふれるところに飾ってあった。

翌日はキューバで最も有名な海岸バラデーロに行った。車で一時間と少しだ。 とにかく国といってもたかだか小さな島だ。メキシコから比べればと本当に小さい。

しかし、ことスポーツに関してはとてつもなく強い。すべてのスポーツを通じて中南米最強国に違いない。

キューバで私が気づいたことは、通学する小学生、中学生の顔の生き生きしていることだ。

S氏に言わせると、子供は昔のことを知らないからだという。子供はそれでいいが、多くの年寄りたちは 昔と比べるので不満だらけで、話はいつも昔のよかった時のことだ。

人間とはそんなものだろう。一〇〇%満足している人なんていやしない。

ビーチは思ったほどではなかった。とにかくカンクンと比べると雲泥の差だ。 水の色、透明度、どれをとってもかないやしない。そのビーチで日光浴をしているほとんどは旧ソビエト人だった。

妻は八カ月いて、ここには一度も来たことがなかったという。ノイローゼになるわけだ。 女の子一人の身で、よくこんなところに来たものだ。

その夜はキューバで最も有名な野外ナイトクラブトロピカーナに出かけた。 とにかくここのショーのすばらしいこと、これだけは世界に誇れるだろう。

踊り子のテクニック、体の線のしなやかさ、自然の木々をうまく取り入れた舞台のコンビネーション。 まさしくこのショーには金をいくら払っても惜しくない。食事はまあまあというほどだったが……。

こうして我々のキューバの旅は終わった。妻はすでに妊娠していた。 おそらくハネムーンベービィだろう。

せっかく帰るのだから、まだ行ったことのないサンフランシスコ、 そしてバンクーバーに寄ることにした。

バンクーバーでは、つわりがひどく、私は一人で町をブラブラ見学した。

しかし三月というのにそんなに寒くはない。メキシコ暖流が北上しているからだ。 日系人も多く、特にここの中国人街はサンフランシスコについで大きいという。

そして、翌日のJAL一〇便で日本へ帰国した。

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 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
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