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 2.力行会

ブラジルの移民法では、移民が許可される最低年齢は二十一歳だという。 折角の一大決意も束の間、私は三年間も待たねばならないことになった。 同じ志を持っている横山も、年齢の壁に悩んでいた。

「それまでの間、何かやらなければ。そうだ、自衛隊に入ろう。 自衛隊だったらいろいろな技術を学べるし、金も貯められるぞ」

横山の発案で、私たちは早速、千葉の自衛隊の事務所を訪ねた。

「何、君達は千葉高出身だって?どうしてまた?。まあ、うちにとっては喜ばしいことだが?」

若干いぶかしげな顔をしながらも、事務所の係員は、入隊の手続きをしてくれた。 規約によれば、まず一週間は準備期間で、それを過ぎると最低二年間の入隊契約を取り交わすという。 一旦契約すると、期間中途での除隊は難しいということだった。

私と横山は、横須賀の基地に配属された。午前六時に起床し、ベッドを作り、 駆け足、朝の体操そして朝食と、基礎的な体作りが主体であった。 班長は、気さくで面白い男だった。 横須賀へ来てから三日目の夜、私は横山の所へ遊びに行ってみた。

「おい、横山はどこにいる?どうしたんだ?」

「横山はもうやめて、ここにはいないよ」

同僚のそっけない答えが返ってきた。横山は、私に黙って除隊していたのだった。

「自分から言い出しておいて、ひどい奴だ。こうなったら、俺一人でも続けてやる」

だが、私の決意は一日しかもたなかった。私の決意を打ち砕いたのは千葉県の匝瑳高校出身の吉井 という男だった。吉井は、私が千葉高出身ということが気に入らないようだった。

「おい、川島、相撲をとろう」

掃除の時間に、突然、吉井はそう言ってからんできた。床はコンクリートで、しかも濡れている。

「こんなに濡れてる所じゃ、いやだよ」

嫌がる私に彼はしつこく組み付いてきて、いきなり投げを打った。 私は、反射的にグッとこらえようとした。それがいけなかった。 濡れた床に滑って、足がよじれてしまったのである。

翌日、私の足は腫れ上がって、とてもまともに歩くことなど出来なくなった。 片足をひきずって隊の医師のところへ行くと、

「何です、これくらいのことで。すぐに直ります。休暇はあげられません」

女医はそう言って、ろくに手当てもしてくれなかった。 そのまま放っておいたのでは固まってしまい、片足が不自由になってしまうのは明らかだった。

私は一週間の準備期間ギリギリで除隊を決めた。

「この足のこともありますし、残念ですがやめさせていただきます」

「まあ、いいだろう。お前はもうやめていくんだから、いいものを見せてやろう」

そう言って、あくまできさくな班長は、アメリカ産のハードなポルノ写真を見せてくれた。 そしてその後、連隊長のところへ連れていかれた。

「ふん、やめるだと。そうか、それならこの写真に土下座をしろ。そうしたら、やめさせてやる」

横柄な態度の連隊長は、そう言って飾ってある自分の写真を指さした。同じ写真でも、班長のとはえらい違いだ。 とにかく、ここを出ることが先決だった。私は言われるままに土下座をして、 わずか一週間で自衛隊に別れを告げたのである。

「母さん、帰ったよ」

除隊して家に戻ると、私は何食わぬ顔でそう言った。

「何だって?お前は、まあ、いつも驚かせて」

「せっかく男が決めたことを、すぐに止めおって」

母は驚き、父は渋い顔をしたが、二人ともそれ以上何も言わなかった。

仕事のあてもなく、また相談相手もいない私は、再び千葉県庁移住課の中西先生を訪ねた。

「そうか、それは残念だったな。まあ、とにかく君は若いんだから、焦ることはない。 二年間、農業の勉強をしてみないか?ブラジルへ行くにしても農業移民として行くのだから、 そのための知識や技術を学んでおいた方がよかろう」

そう言って、中西先生は、農業改良普及員の研修所を紹介してくれた。

研修生になるための試験は既に終っていたが、特別な計らいで入所を許可された。 それでも、定員十五名に対し、入所者は私を入れてわずか九名だった。 先輩の二年生はさらに少なく、八名しかいなかった。

この研修所が全寮制で、毎日大きな風呂に入れたことが、私にとって幸運だった。 満足な手当てを受けられずにひん曲がっていた足をお湯で十分に暖め、 少しずつもみほぐして動かす。既に筋が固まっていて、 初めは痛くて伸ばすことさえ大変だったが、 毎日三十分以上もゆっくり入ることが出来たおかげで、私は片足の機能を失わずに済んだ。

風呂だけでなく、寮の生活は快適だった。食事もまあまあだし、何よりも同僚たちが皆気のいい連中ばかり だった事がうれしかった。ほとんどが農家の次男、三男で中にはもういい歳のオジサンもいた。

研修生たちの一番の楽しみは、野球だった。軟式だが全国大会もあり、 翌月に栃木県の研修生チームとの試合を控えて、皆張り切っていた。 なにしろ全員で十七名しかいないので、二組に分かれて練習試合をすることも出来ない。 足の悪い私でさえ、すぐライトのレギュラーになれた。

肝心の研修の事にも、少しは触れなければなるまい。 研修の講師は、大抵千葉県農業試験場の先生方だった。 午前が講義で、午後は実習となる。ちょうどナシの時期だったので、袋かけの手伝いなどもした。

土曜の午後と日曜は休み。私は、久しぶりに中西先生に会いに行った。

そこで、私は、アルゼンチン農業呼び寄せ移住の見出しがある「力行会便り」を見つけた。

「先生、力行会って何ですか?ここには、十八歳の青年でも移住が出来るって書いてあるじゃないですか」

あとから分かったのだが、中西先生自身が力行会の大先輩であり、また理事を務めていたのだった。 私に紹介しなかったのは、私にちゃんと農業の勉強をさせようと思ってのことだったのだろう。

力行会はれっきとした財団法人だが、その昔は「密航会」と言われていた。 米国移民法の成立によって一般人の渡米が難しくなった時期に、 米国留学生を目指す青年を集めて現地の事情や語学などを身につけさせながら、 渡航の便宜を図ってきたという。日本の移民史に欠くことのできない存在である。 中西先生も、かつて力行会で講習を受け、メキシコへ渡ったのだった。

私は早速、練馬区小竹町にある力行会事務所を訪ねてみた。西名理事の説明によれば、 講習は三ヶ月間で全寮制、費用は食事込みで五万円、うまくいけば講習後すぐに渡航できるという。

私にとっては、一日も早く外国へ行くことこそが大事であった。そうすれば必ず道が開ける、と私は信じていた。

「アルゼンチンだって?いったいどこにあるんだ?まあいい、しっかり頑張ってくれよ」

折角知り合えた気の合う仲間と別れるのはちょっぴり寂しかったが、 足りない金を母に工面してもらい、五万円を支払って、九月からの講習を受ける手はずを整えた。

こうして、わずか四ヶ月で、私は研修所をあとにすることとなった。 だが、研修所に入ったおかげで、私の足は助かったのだ。

力行会では毎月受講生を募集しており、九月生は私を入れて九名だった。 寮の部屋は二段ベッドの二人部屋で、私は七月生の木村という男と同室になった。

彼は自衛隊に二年間入隊していたため二十一歳と年上で、トラックの運転や無線の免許も持っているとのことだった。 また、隣の部屋には串田というメキシコ生まれの二世がいたが、親の金を使って毎日放蕩三昧のどうしようもない ぐうたら息子という噂だった。

ここでの生活は午前六時に起床し、まず朝のミサから始まる。 そのあとトイレの掃除、朝食そして南米事情や語学の授業というカリキュラムだった。

朝のミサでは、力行会を現在の姿にまで育てた永田繁先生が、八十二歳という高齢にもかかわらず、 聖書を朗読する。力行会の受講生は意外にも農業関係者が少なかったために、 農業移住者として渡るには実務経験が足りなかった。

そこで、練馬区の農協と話をつけて、三ヶ月間農作業の手伝いをする代わりに、 特別の農業労働従事証書を発行してもらい、それによってビザをとることが出来た。

週一回、朝八時に力行会の前に自家用車が横付けされる。受講生は、それに乗って実習に出かけるのである。 特に、養鶏所からの依頼が多かった。一日中鶏糞にまみれて仕事をしてみれば、まあ大抵の仕事は我慢出来るというものだ。

帰路の送りはなく、バス賃をもらってバスで帰って来るので、着替えを用意していかなければ、 それこそ乗客に大迷惑をかけてしまう。

力行会は、受講生たちの寮費だけではとても運営していけないので、同じ敷地内に幼稚園や学生寮を建て、 その収益で何とかやりくりしていた。永田会長の家も、西名理事の家も敷地内にあった。

力行会の受講生の楽しみのひとつに、「南十字星の会」の人達との交流があった。

この会は力行会の久米理事が中心になって、ブラジルに渡った先輩の受講生達に花嫁さんを紹介するという 目的のために設立されたのだった。

私は、七月生と九月生の中では最年少の十八歳だった。南十字星の会の会員たちも皆、私より年長者ばかりだった。 中には、失恋したので、ブラジルへでも行ってしまいたいなどと公言する人もいた。

受講生達は、互いに名前の頭一文字に「さん」をつけて呼び合っていた。 私は川島だから、「カーさん」という具合。私と同期の九月生の中には、中卒だが四歳上の堀内、 日大でボディビルをやっていた保坂、関西やくざの前川等がいた。

この堀内ことホーさんは東京生まれで、運転手、自衛官、皿洗い、コックなど一通りなんでもやってきた という経歴の持ち主で、私と同じくアルゼンチン行きを望んでいた。

七月生の八木さんことヤーさんは慶応大学の出身で、レスリング部のマネージャーをやっていたという。 当時としてはかなりの大金であった三百万円を元手に、ブラジルで農業を始めるのだと言っていた。

その三百万円は、酒も煙草も、もちろん女もやらず、衣服さえもろくに買わずに、 靴などは半分口を開けているという有様で、文字通り爪に火を灯して貯めたという。

たまたま私の姉が新宿のコマ劇場で踊っており、入場券が手に入ったので連れて行ってあげた時の、

「奇麗だなあ。いいなあ」

と溜息を連発していた子供のように無心な彼の横顔を、私はなぜか今でも忘れることができない。

講習期間中に、力行会を通じて、南米アルゼンチンにある亜国拓殖組合へ我々の写真や履歴書等が送られていく。 これを亜国に住む農業を営む日系人が見て、呼びたい人間を決め、組合に申し入れれば、 海外事業団が移住手続きをとるという仕組みである。

秋の力行祭を無事に終え、三ヶ月間の講習を修了する頃には、私のパトロンは決まっていた。 渡嘉敷善行という沖縄県出身の人で、ブエノスアイレス市から三十キロ離れたブルサコという所に 五十町歩もの土地を所有し、ペオン(下級労働者)を三十人も使って農場を経営しているという 大変な成功者であった。

必要書類は全て送り、あとは待つだけとなった。 間もなく、アルゼンチンの渡嘉敷氏から手紙が届いた。 私に対してよろしくお願いしたいということ、できれば必要な物を買ってきてほしいということが、 その内容だった。

必要な物のリストはノコギリとかスパナ等の工具類がほとんどであり、何もわからない私にも、 現地での生活ぶりを彷彿とさせるものがあった。

そうこうしている間に全てOKとなって、出発の日取りが決まった。 四月二日、最後の移民船となる『アルゼンチナ丸』に乗船する。

その一週間前に横浜の海外移住センターに入所し、最後の詰めが行われる。 ほとんどがブラジル行きで、アルゼンチンへ行くのは、力行会からは私と南十字星の会の会員で エスコバル市の細川氏のところへ嫁ぐこととなった花嫁さんの二人だけであった。

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 ・ 7. 弟の来亜
 ・ 8. 花の都
 ・ 9. 五年ぶりの帰国
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
 ・ 15. ミチルとの新しい生活