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 5.谷村農園

翌日、私は亜拓の須藤さんに会うために、ブエノスアイレスヘ行った。

ブルサコ駅から汽車に乗って、ブエノス駅へ向かう。かつてスペイン人がこの土地を征服した時、

「ブエノスアイレス」(何ていい空気だ)と言ったのが、その名のゆかりだという。

だが、鉄道はイギリス人の手によって敷かれたのだった。 私は、「母を訪ねて三千里」のマルコ少年の気持ちを思った。 私が読んだ本の挿絵にも、確かこんな鉄道の風景が描かれていた。言葉はまだ不自由だったが、

「クアント クエスタ ア ブエノスアイレス?」(ブエノスアイレスまで、いくらですか?)

と、駅員に尋ねると、

「トレシィェントスペソス」(三百ペソです)

という答が返ってきた。ちょっと高いと思ったが、確かめるのも失礼だと思い直し、そのまま支払った。

私の給料は八千ペソ、日本円にして約一万二千円であった。 三百ペソなら、約四百五十円。日本で買ったガイドブックには、アルゼンチンの鉄道料金は 日本よりはるかに安いと書いてあったのを覚えてはいたが、距離三十キロの運賃で十倍もふっかけられて いたことはあとで分かった。

途中何度も停りながら、ブルサコからおよそ四十五分でブエノスに着いた。

「フロレンシャ四十五」(フローレンス街四十五番地)

駅前に停車しているタクシーに、声をかける。こうして、私は三か月ぶりに須藤さんと会った。

「須藤さん、すみませんが、私はもう渡嘉敷さんの所で働くことが出来ません。 誰か、ほかのパトロンを紹介してください」

「えっ、たったの三か月で?!どうして?もっと我慢しなきゃ。ほかにパトロンなんかいやしないよ。 すぐ帰りたまえ。帰って、渡嘉敷さんにお詫びするんだ」

全く話にならなかった。考えてみれば、亜拓は花卉栽培を営んでいるパトロン連中が資金を出し合って作っている組合である。 パトロン側につくのは、当然のことだ。

仕方なく、私は再び渡嘉敷園に戻った。だか、意地でも「もう一度使ってくれ」とは言えなかった。 私は、大工の田代さんに相談してみた。

「そうだ。山梨さんを紹介しよう。あの人は日本食を作って、いろんな所へ売りに行ってるから、 あの人だったら、誰かいい人を紹介してくれるだろう」

その晩早速、田代さんは、私を山梨氏の家へ連れて行ってくれた。渡嘉敷園から土道を三キロ程行った所にある バラック建ての平小屋が、山梨氏の家だった。彼の一家はパラグアイへ移民として渡ったのだが、 どうしても仕事がうまくいかず、このブエノスアイレスに移って来たのだという。

元々山梨氏は調理学を学んでおり、その知識をもとに日本食を作り始めたのだそうだ。まだ一年程だというのに、 カミオネッタ(軽トラック)を三台も持って息子に運転させ、各地を売り歩いている。

「私が、川島です。事情があって、もう渡嘉敷さんの所にいられなくなりました。 どなたかいいパトロンを紹介してくれませんか?」

私は、いられなくなった事情を率直に話した。

「そうか、そんな事情なら仕方ないだろう。そうだ。そういえば、エスコバルの谷村さんはどうだろう。 あの人だったら、きっと引き受けてくれる」

山梨氏は、非常な弁舌家であった。自分の実の息子のほかに、養子が何人もいる。 仕事が終ると、毎晩その子供達を黒板の前に集め、日本食の作り方やマーケッティングの方法等を講義しているという。

また、噂では、パラグアイとブラジルに一人ずつ奥さんがいて、このブエノスアイレスの奥さんは三人目ということだった。 既に五十歳代の半ばを過ぎ、どこにそんな精力があるのかと思いたくなるような、痩せこけた人である。

だが、眼光は鋭く、一言一言ゆっくりと話すその話し方には、実に説得力があった。 彼の息子が明後日エスコバルに行くので、谷村園まで乗せて行ってくれるという。 それを聞いて、私は何やら遠くに希望の灯りが見えるような気がした。

日本で両親のもとにいた時は、貧乏ではあったが、自由で平和で正に天下太平だった。 朝から晩まで好きなテニスをやっていても、他人から文句を言われることもない。 どこヘ行っても言葉が通じ、困った時は誰かが助けてくれた。 特に力行会での最後の研修旅行のことが、懐かしく思い出される。

力行会生は三か月の研修を終えると、中南米に旅立って行く。何もわからない他国で生き抜いていくために、 永田会長が考案した最後の関門とも言うべき研修が、その研修旅行なのであった。

五日間の研修旅行は、個人プレイを鉄則とした。最初の出発日にのみ、おにぎりが三個ずつ配られる。 金銭は、一切所持してはならない。要するに、体一つたった一人で、五日間を生き抜かねばならないのである。

今風に言えば、サバイバルゲームとでもいうことになるのだろうか。だが、私達にとっては、 それは生きるための真剣勝負の試練だった。

十一月も半ばのある日、九月生八人はそれぞれ方向を決め、歩き始めた。 私は、箱根ヘ向かった。農業実習で使った地下足袋を履いて、歩いた。 スポーツで鍛えた体、マラソンも強かったし、休力には自信があった。 何と言っても、まだ十八歳の若さである。私は、ひたすら歩いた。具体的な目的地があるわけではない。 とにかく会長から言われた通り五日間を生き抜く、それが全てだった。

腕時計の携帯は、許されていた。国道の距離表示で計れば、歩く速度がわかる。 私は、およそ時速七キロで歩いていた。三時間、歩いただろうか、腹が減ってしまったので、 配られたおにぎりを三個とも食べてしまった。これでもう、何もない。

その後トラックに便乗させてもらい、そのまま荷台で寝入ってしまった。

翌早朝、私は寒さで目を覚ました。私はまだ、動かないトラックの荷台にいた。 お礼を言いたくても、運転手の姿はない。

仕方なく、私は歩き始めた。既に箱根は越えており道は比較的平坦だったが、 水腹を抱えての足取りは重い。清水港まで来た時、足がとうとう言うことをきかなくなり、 私は野宿する場所を探した。「清水メソジスト教会」という看板が目に入った。

「ごめんください。失礼します」

中から、神父らしい人が出て来た。

「もし出来ましたら、今夜一晩だけ、この教会のテーブルを貸してほしいんですが?」

私は、研修旅行のことを手短に説明した。

「若いのに、大変素晴らしい心がけだ。それでは、今夜はここで寝なさい。その前に、一緒に食事をしよう」

そう言う彼、吉村さんもまだ若い神父であった。結婚したばかりで、これから夫婦二人で教会を盛り立てて いこうというエネルギーに満ちていた。

質素な夕食ではあったが、私はこんなにおいしい暖かい料理を、かつて食べたことはなかった。 吉村神父の夫人は、教会の床にマットを敷き、その上に布団を用意してくれた。 おかげで、二日目の夜を、私はゆっくり眠ることが出来た。

翌朝、早く起きてそのまま出発する積もりだったが、既に食事が用意されており、 私はまた吉村夫妻と暖かい朝食を食べることが出来た。

「本当にありがとうございました。何とお礼を言ったらいいのか?」

「南米では何があるかわからないけれど、とにかく頑張ってください。きっと神様の御加護があります」

復路を三日間かけて歩くことに決め、私は東京を目指した。歩いて歩いて、とにかく歩いた。 道は登りになり、どこまでも続く。今度は、徒歩での箱根越えである。

折しも、富士山が素晴らしい姿を見せ、まるで私の前途を祝福しているかのようであった。 陽は、落ちかかっていた。次第に、寒さが感じられてくる。やがて日はとっぷりと暮れ、 車のライトが行き来する。それほど広くもない道は曲がりくねって、夜はさらに危険である。

ライトが近づくたびに、私は道の端に身を寄せた。だんだん登りが急になる。 それに連れて、寒さも厳しくなってくるようだ。空腹で、目が回る。足の動きが鈍くなり、スピードは極端に落ちる。

私はほとんど無意識に辺りを見回し、寝場所を探していた。すると、道端に半分壊れかけた小屋かあるのが、 目に入った。中を覗くと、藁や枯れ草が山のように積まれている。 迷わず、私は枯れ草の中に身を投げ出した。

目が覚めると、寒かった。だが、睡眠は私の体に、また新たなエネルギーを取り戻してくれたようだ。 空は、快晴である。

「よおし、今日こそ箱根を越えてしまおう」

今日もまた、富士山は美しい姿を見せてくれている。

「南米へ行ったら、俺もこの富士山のようにでかくなろう」

そう思うと、空腹も忘れる。富士山が少しずつ遠ざかり、とうとう箱根を越えた。 そして、小田原。早くも日は暮れ、また寝場所を探さねばならない。

枯れ草の山があり、向こうに農家が見える。私にとってはもう、野宿は特別なことではなくなっていた。 私はスルスルッと、枯れ草の中へ滑り込んだ。 三十分も経っただろうか、うとうとしている私の耳元で、けたたましい犬の吠え声がした。

「こらっ、誰だ?出て来い。取っ捕まえてやる」

農家の住人が、出て来たらしい。その怒鳴り声で、私はようやく自分が不法侵入者であることに思い当たった。 そこで、顔を出す前に、

「ちょっと、ちょっと待ってください。私は?」

自分がここにいる訳を、必死で説明した。

「話は、わかった。まあ、いいから出て来い。そんなとこにいたんじゃ、話にならん。こっちさ、来い!」

私は、その農家、山中家の客となった。暖かいお湯につかり、熱い味噌汁と炊き立ての御飯を腹一杯食べた。 そして、布団の中で、ゆっくり眠ることが出来た。それほど大きな農家ではなかったと思うが、 私はほんとうに最高のもてなしを受けた。

翌朝、朝食を食べ終えると、おにぎりと小さな封筒を渡された。

「こんな物、いただけません。ましてや、お金など?」

「いや、これはあげるんじゃない。貸すだけだ。まだ、東京までは遠い。それも歩いて行くんじゃ、 何があるかわからん。とにかく、持っていきなさい」

暖かい好意を受けて、私はまた旅に出た。体も心も、なぜか生き生きとして活力に満ち満ちている。

「もう、今日中に着くぞ。とにかく歩くんだ」

足取りは軽く、気がつくと、初日の時速七キロで歩いていた。もらったおにぎりをほおばりながら、 東京はすぐそこだ。

こうして、私は無事、五日間の研修旅行を終えることが出来たのだった。 地下足袋を脱いでみると、足の裏はまめだらけ血だらけになっていた。

渡嘉敷氏には、エスコバルに行ってくるとだけ言って、山梨さんのことは言わなかった。 言えば、山梨さんに迷惑がかかると思ったからである。

翌朝早く山梨さんの家へ行くと、もう息子さん達は車の準備を整えていた。 自分達で作った日本食を積んで、エスコバルの日本人の家庭を訪れるのである。

長男の一郎君はまだ十七歳だが、実に立派な体格をしている。幼い時からパラグアイそしてアルゼンチンで育ったせいか、 スペイン語も堪能で、こちらの習慣にもすっかり憤れていた。

ブルサコからエスコバルへ行くのは、とても不便である。直通の道がないのだ。 直線距離は三十キロ程しかないのに、一度ブエノスアイレスまで戻って、そこからエスコバルへ向かわねばならない。 何と、七十キロもの道のりになってしまう。

ブエノスアイレスからルータシエンで南西に四十キロ程行った所に、花の町エスコバルはあった。 人口約三万人、うち日系人は約千六百人、四百家族である。そのほとんどが花作り、 特にクラベル(カーネーション)栽培を営んでおり、私のような実習生が約三百人いるという。

皆、二年間の実習を終えて、その後の独立を夢見る青年達である。谷村さんは娘さんと二人暮しで、 娘さんはとてもきれいな人だという。私の胸は、ちょっぴり期待にふくらんでいた。

道沿いに、「エスコバル」と書かれた標札が見えた。それを過ぎて、 すぐに左の脇道へ入る。乾き切った土道から、もうもうと砂埃が舞い上がる。 五百メートル程走って今度は右に曲がり、百メートル程行った所で車は止まった。

一郎君が車の警笛を鳴らすと、家の中から谷村さんと娘さんらしい人が出て来た。

「谷村さん、川島さんです」

「君のことは、山梨さんから聞いているよ。よく来てくれました。むさ苦しい所だが、ゆっくりしてください」

「谷村さん、私はほかに用事があるので失礼します」

そう言って、一郎君は私を残して、さっさと他のお客の家へ行ってしまった。 谷村さんの横にいる女性は、実は谷村夫人なのであった。十歳も年下だという。私は、かなりがっかりした。

谷村夫妻はとてもおおらかで、話上手だった。私は、彼等の話に引き込まれてしまった。 そして、この人のためなら頑張れる、と思った。

「今日は着いたばかりだから、よく休んでくれたまえ。急な話だったので、まだ君のための部屋がないから、 すまないが出来るまでここを使ってくれ」

それほど大きな家ではない。谷村夫妻の寝室の脇にある夫人の化粧部屋の横に、私の簡易ベッドが置かれた。

その夜は夫人の手料理をごちそうになりながら、今までのいきさつを話した。 谷村さんは、実に熱心に私の話を聞いてくれた。私は、感動した。

夫人の手料理も決して豪華なものとは言えなかったが、私は大いに満足した。 谷村さんの家は、古い家を手直ししただけの、お粗末なものだった。 二町歩の土地も借地だという。風呂場も、近在の後輩達に手伝ってもらって レンガを積み上げただけの簡単なものだった。

だが、久しぶりにどっぷりと湯につかり、 私は日本を離れて以来初めて、 しみじみ幸せというものを感じた。

翌朝、目を覚ますと、夫人はすでに起きていて、テーブルには朝食が用意されていた。 白い米の飯と味噌汁という純和風の朝食である。米の味は、日本のものと全く変わらない。 味噌汁の味噌は、山梨さんが作っているという。

朝食が済むと、夫人は私を温室へ連れて行った。十棟全ての温室に、カーネーションが咲乱れている。 一棟二百四十平方メートルの温室に、管理上の便宜のために一種類だけのカーネーションが、 約四千〜四千五百本植えられているのである。

一番多いのは、ホワイト系だった。 朝は、花切りから始まる。アランブレ(針金)とイーロ(糸)が縦横に交差しているので、 まず左手で下方から茎をつかみ、右手のティへーラ(はさみ)で丁度いい長さに狙いを定めてカットする。

アルゼンチンでは大輸種が好まれているので、ガク割れが非常に多い。だから、パッケージする前の輪ゴムかけも、 大変神経を使う作業となる。

夫人は、本当に働き者だった。花切り、糸張り、針金かけ、全てに丁寧で、且つ迅速だった。 糸張りと針金かけは、二人共同でやると効率が良い。互いに反対側の畦道から向かい合い、交互にかけていくのである。

ここでペオンとして働くミゲルとペドロという二人の青年を紹介された。 二人とも、私より一歳年下の十八歳だという。ミゲルはハンサムで心の優しい素直な青年で、仕事も実に要領良く、 私にとっては良き先輩であるとともに、言葉の先生にもなってくれた。

一方、ペドロは無愛想で陰気な影のある青年だった。近くに住んでいて、毎朝牛の乳搾りを済ませてから来るという。 いろいろな作業の中で最も重労働で且つ重要な作業は、温室の プンテアル(シャベルでの土起こし)である。このプンテアルによってしっかりとした苗床を作ることが、 花作りの成否を決める。

当時、ほとんどの日系業者は耕転機を使って土起こしをしていたが、 谷村氏はプンテアルが一番いいと言って譲らなかった。機械では土が粉々に砕けてしまうので、 一回の水かけで土が固まってしまい、水はけが悪くなる。 プンテアルでやれば土は適度な大きさに砕けて水はけが良くなり、花の成育を促すというのがその理由だった。

しかし、プンテアルをやる人間にとっては、大変な苦労である。ひ弱なミゲルは専ら糸張り、 針金かけ、水かけをやり、力仕事はペドロと私でやった。

歳もほぼ同じで、ともに腕力に自信のある私達は、プンテアルの速さを競った。 馬鹿正直な私はパラ(シャベル)を真直に差し込んで土を起こすので、その分深く作れるのだが、 浅く長くパラを入れるペドロと勝負するのは大変だった。

でも、谷村さんから詳しく説明を受けているので、良い花を作るためにという思いが、 どうしても私にパラを深く差し込ませる。

ペドロはクリオージュ(白人とインディオの混血)だが、十五歳の時に実の父親をエスコペタ (ライフル銃)で撃ち殺したのだった。二年間少年院で過ごした後、つい最近、谷村氏が身元引受人となって 引き取ったのだという。

だから、彼はパトロンの信頼を得るために、死に物狂いで働いていたのである。 新参の私としても、谷村氏の信頼を独り占めされてしまうようで、内心穏やかでなく、 勢いプンテアルの競争に熱が入ってしまう。

ガラスを半分開け放っていても、日中の温室は四十度を越す熱さになる。 ペドロと競争しているとつい夢中になって、時々頭の中が白くなってくる。 そんな時は、急いで水道のジャーベ(蛇口)を開いて、ホースで頭に水をかける。

とにかく、私達二人は休むことを知らなかった。とはいえ、ペドロもミゲルも住み込みではないので、 時間がくれば帰れる。私は彼等が帰ったあとも、道具を片付けたり、やり残した作業を終えたりする まで働かなければならない。タ食を済ませると、もう九時、十時、テレビもない。

ところで、私はエスコバルで働く誰よりも、言葉にコンプレックスを持っていたにちがいない 。高校時代も、英語は苦手だった。先生は出来る生徒に合せて授業を進めるので、 最初に出遅れるとどんどん取り残されて、もうどうあがいても追いつけなくなる。そして、諦めてしまう。

だが、そんなコンプレックスが、私の中に、語学に対する人一倍の情熱を掻き立てたのだった。 テレビがないので、日本から持ってきた小さなラジオだけが頼みの綱だった。

夕食を済ませ終い湯に入ると、もう昼間の疲れがどっと出て一刻も早く寝たいのだが、 とにかくラジオのスイッチをオンにして、わからないなりにヒアリングに挑戦する。 耳元のラジオを聞きながら寝込んでしまうのが、私の日課の最終プログラムとなった。

私の一番好きな作業は、夫人と一緒にやる糸張りだった。腰をかがめて中腰のままやらな ければならない糸張りは、中々に骨の折れる作業だったが、美しい夫人と話しながら出来るのがうれしかった。

夫人は静岡県出身で、高校時代には卓球の県大会個人戦で準々決勝までいったというスポーツウーマンである。 十歳も年上の谷村氏と見合いし、十九歳の若さでアルゼンチンヘ嫁いで来たわけだが、 その当時はとにかく外国に行きたかったのだという。

初めて温室の中を見た時には何て奇麗だろうと驚いたが、見慣れた今ではもうそれほどの感動はないという。 こんなに美しい人がどうしてこんな所まで来たのだろう、案外自分と似ているところがあるのかもしれない。 ふと、私はそんな風に思った。

二番目に好きな作業は水かけだ。水が全ての苗に万遍なくたっぷり行き渡るようにかけるのがコツだが、 大声で歌いながら出来るのが楽しかった。ようやく覚えたスペイン語の歌、特にラファエルの歌が好きだった。

「ディーガン ロケ ディーガン オイ パラ ミイ」

温室の中で声を張り上げて歌っていると、いつのまにか自分が歌の主人公になっていた。

谷村農園に来てから丁度二か月後、亜拓組合の須藤さんから、ビザがおりるので手続きするようにとの連絡が入った。 エスコバルでは有名な谷村さんのもとでしっかり働いているというだけで、もう何も調査する必要などなかったらしい。

翌日、私はビザを取得するために、四か月ぶりにブエノスアイレスヘ行った。 運賃はエスコバルから四十五ペソ、全く上がっていない。今度はもう、編されなかった。 ゴベルナシィオン(内務省)に行き、パスポート等の必要書類を見せ、ナンバーをもらってしばらく待っていると、

「セニョール カワシマ ポル ファボル」(川島さん、どうぞ)

窓口から呼ばれた。行ってみると、生れた場所を聞かれた。

「ジョ ナシィ エン チーナ」(中国で生れた)

と答えると、それなら中国人であって日本人ではないからビザはおりないという。

「そんなことはない。日本では両親の血で、国籍を決定するのだ。アルゼンチンのように生れた場所で決めるのではない」

私は知っている限りのスペイン語を駆使して、何とか説得しようとしたが、言葉自体が通じたのかどうかさえわからず、 相手はただ、

「ノ ノ ノ プエド ダル」(いいえ、だめです)

と繰り返すばかりだ。

途方にくれている私を見かねたのか、幸いにもそこに居合わせた河西という日本の女性が、 助け船を出してくれた。彼女は私の説明を聞くと、

「貴方は、黙っていなさい。私が、うまく説明するから」

そう言って、入管吏に何やらベラベラ話し始めた。 すると、驚くなかれ、たちまちビザの発給となったのである。

ただし、私の本籍は「日本国北京市」になっていた。彼等にとっては、日本も中国も、千葉も北京も、 大差ないのである。

私は、うるさいアルゼンチン人を見事にやりこめた河西夫人に、すっかり感服してしまった。 河西夫人はブエノスアイレスに住んでおり、日本人会主催の卓球大会で谷村夫人とも何度か 顔を合せているというではないか。

日本で書類を作り直すなど、考えただけでゾッとする。改めて、河西夫人に頭の下がる思いであった。

「これからは、パスポートの本籍は千葉県にしよう」

それと同時に、私は言葉のハンデを痛感した。スペイン語を、一日も早くマスターしなければならない。 しかし、今の仕事をしていては、現実に勉強することは困難だ。

日の出とともに起き、顔を洗い、温室に入る。そして、一日中花切り、糸張り、水かけである。 花は、何も語ってくれない。タ食を終えて寝る前に、日本から持ってきたラジオでただやみ くもにわからないスペイン語を聞きながら寝入ってしまう。それが、私にとって可能なスペイン語の勉強の唯一の日課である。

フリーになれる日曜日の午後だけは、少し違っていた。自転車でエスコバルの広場へ行き、誰でも いいからそこにいる人に話しかけるのだ。特に老人は、我慢強く私の途切れ途切れのスペイン語 に耳を傾けてくれた。そして、理解しやすいように、ゆっくりはっきり話してくれた。

ところが、意地悪く、その大切な日曜日に限ってよく雨が降った。私が特にそう感じたのかもしれないが。 そうなると、マカダン(国道)に出るまでの土道はドロドロで、とても通行できる状態ではなくなる。 自分のガルポンで本を読むか、またラジオを聞くしかないのである。

私にとって最も気になる存在であった谷村夫人については、再度触れておかねばならない。

彼女が十九歳という若さで、写真結婚によって嫁いできたということは前にも記したが、 その理由は単純ではなさそうだった。彼女の家庭はとても複雑で、写真結婚の話はそもそも彼女の姉 にきたものだったが、彼女が無理矢理志願したのだという。

とはいえ、十九歳という若さでいざ結婚という現実に直面した時の抵抗の大きさは、 予想外のものであったらしい。仲介してくれた亜拓組合の強い勧めと、谷村氏が身銭を切って渡航費を 負担したということを知るに及んで、彼女はしぶしぶ結婚を承諾したのだった。

そのために、しばらく子供ができなかったのだが、ようやく覚悟を決めて出産し、 今では三歳になるクラウディオという子がいる。

とにかく実にチャーミングな女性で、エスコバルの日系人社会の青年達にとって憧れの的となっていた。 外見だけでなく、高校時代にスポーツで鍛えた夫人は、花切りやパッケージングの仕事もてきぱきとこなした。

私とて国体出場経験のあるスポーツマンである。 一番きついプンテアルを始め、どんな仕事でも数か月の内には一人前にこなした積もりだが、 それも夫人に認められたいという気持ちが大きかったためかもしれない。同僚のミゲルも、その気持ちは私以上であったようだ。

私は、まだ童貞であった。振り返ってみれば我ながら奇妙な感じさえするのだが、 その頃の私はまだ「せんずり」とか「マスターベィション」の意味さえわからない全く初な青年だった。

高校時代の修学旅行で京都に行った時、旅館で仲間が「せんずり、せんずり」と叫んでいた時、 私にはさっぱり意味がわからなかった。番長格であった私がまさかそんなことを知らないとは、 誰も思わなかったにちがいない。わからないながら、私も聞くことが出来なかった。そして、知り得ぬまま、今日に 至ったのである。

しかし、セックスに対する関心は、もちろんあった。いや、人一倍の体力を自負していた私の関心は、 人一倍強かったと言ってもいいかもしれない。いかがわしい週刊誌の写真やエロチックな映画を見たあとは、 必ずと言っていいほど夢の中でセックスを体験し、夢精してしまった。

ブルサコから谷村農園への引っ越しはあまりにも急な話だったので、当初私のガルポンはなく、 谷村夫婦の寝室のそばのパシージョ(廊下)に私のベッドが置かれたということも前に記したが、 薄い一枚のカーテンの向こうには夫人の化粧台があった。

夫人は毎晩、寝る前に髪を梳かしに来るのだった。私はベッドに身を横たえ、薄自を開けてネグリジェ 姿の夫人を見つめていた。薄いカーテンを払いのけて手を伸ばせば?。 どれほど強くそんな衝動にかられたことか。だが、童貞の私には、そうする勇気はなかった。

谷村氏は実に弁が立ち、花栽培の技術者としても優秀な人物だったが、如何せん酒に飲まれてしまう質であった。 酒を飲んで仲間と自慢話をしているのが最も性に合っているようで、午前中切り取ったカーネーションを パッケージングし組合の発送場に持っていけば、あとは仕事そっちのけで友人の家へ出かけ、 終日おしやべりしてくるというのが日課となっていた。

帰りは遅く、しかもベロンベロンに酔っ払っていて、夫人との口論は絶えなかった。 そんな谷村氏の夢は、日系人協会の会長になることだった。日系人社会では温室十棟 の所有が第一段階のステイタスであり、温室の数を増すことによって発言力が増していく。 口だけ達者でも、認めてはもらえないのである。

私は夫人が気の毒でならなかったが、どうすることもできなかった。 ただ一生懸命働いて、引き取ってくれた恩に報いるしかなかった。

そうこうしているうちに、母屋の脇にガルポンが完成し、私のベッドはその中へ運び込まれた。 私の粗末なガルポンは、同じく母屋の脇に作られてあった風呂場と向き合う形になった。

「川島君、先にお風呂に入らない」

夫人は、そう言ってくれた。風呂はドラム缶の回りをセメントで固めただけの簡単なものだったが、 古い温室の柱や柵の切れ端等、くべる薪には不自由しなかった。きついプンテアルの疲れを癒すには、 日本風の風呂は正に天国だった。

「お先にすみません」

風呂から上がると、そう言いながら私は自分の部屋へ戻る。谷村氏は飲んだくれて、 ガアガアいびきをかいている。

夫人が母屋を出て、風呂場に入る。ガルボンにいる私には、夫人の脱衣の感じが伝わってくる。 ドアを蹴って飛んで行きたい衝動にかられるが、理性がそれを押し止める。

ドアを開けることの出来ない私は、鍵穴から風呂場を覗く。風呂桶から出て体を洗う夫人の腕が見える。 ほっそりとして均整のとれた美しい腕。肩、首、そして胸、彼女の体の全てが目に浮かぶ。

その時、外でかすかに音がした。横の窓から窺うと、何と隣家に住む日系二世のホセが、 私と同じように風呂場を覗き見ているではないか。私の気配を感じ取ったのか、ホセは一目散に逃げて行った。

隣の平山園には、私と同年配の前田青年がいた。鹿児島県出身で農業高校を卒業した彼の夢は、 亜国で花卉園を持つことだった。身長は百六十センチと小柄だが、空手二段の猛者である。 その彼の姿が、ここ何日か見えない。私は次第に気になり、夫人に尋ねてみた。

「かわいそうに、胃潰瘍になって、毎日牛乳しか飲んでいないみたいよ」

平山ファミリーは十年程前に移住してきたのだが、男の跡取りがいない。長女は既に適齢期を過ぎており、 婿取りにも問題があった。折角呼び寄せた前田青年は五歳年下で、性格も合わなかったようだ。

そこで、平山家では、三十路に近い山本という青年を婿に迎えるために呼び寄せた。 そうなると、前田青年が邪魔になる。彼は独立を夢見て二年の間一生懸命働いてきたのだが、 事情は一変してしまった。

彼は複雑な環境の中で一人悩み続け、ついに神経性胃潰瘍になってしまったのである。 医者からは牛乳を飲むように勧められ、それだけがここで可能な治療の全てであった。 当然、彼はみるみるうちに痩せていった。力が出ない、仕事が出来ない、ついには厄介者になってしまったのである。

日本に返すにしても、いったい誰が旅費を負担するのか。 ブエノスアイレスから日本は最も遠い所、地球の裏側である。そのための旅貸は温室一棟分でも足りない大変な額となる。

ブエノス近郊の花卉業は、峠を過ぎていた。インフレは続き、国民の生活は益々厳しさを増し、 花の需要は低下していくばかりだった。しかも包装紙、針金、糸等の材料費は年々かさみ、 以前のようなうまみは全くなくなっていた。

日本から呼び寄せた青年達を独立させることは、需給のアンバランスをさらに悪化させ、 価格の低下に拍車をかけるだけだった。 こんな状況の中で、私も独立の目安である二年間の奉公を終えようとしていた。 俺は、独立出来るのだろうか??。私の頭の中は、そのことで一杯だった。

そんな折、ブエノスアイレスから約四百キロ南下したマルデルプラタでカーネーションを栽培している 山田老人が訪ねてきた。

マルデルプラタは、アルゼンチンで最も有名な避暑地である。 山田老人も五年前までこのエスコバルで花作りをしていたのだがうまくいかず、 たまたまマルデルプラタ近郊の土地が安く手に入ったので、そちらに移住したのだという。

既に子供達が働き手になっていたこともあり、家族で力を合せて、わずか五年足らずで温室を二十棟にまで増やしたという。 今回は、毎年開催される花の品評会に出席するためにブエノスアイレスヘ向かう途中、立ち寄ったのだった。

私はたちまち、マルデルプラタに強い関心を持った。マーケットは近いし、栽培者も少ない。 将来性のないブエノス近郊よりはるかにチャンスがあるのでは、と思えた。

だが、谷村氏の親しい友人である山田老人に、おおっぴらに頼むわけにはいかない。 そこで、マルデルプラタへ遊びに行くということにしたのだが、私の本心を察してか、それでも谷村氏は反対した。

しかし、私を独立させることなど出来ない谷村氏の内心は、複雑であったにちがいない。 結局、私はマルデルプラタに山田老人を訪ねた。ブエノスから直行バスで七時間、 夜の十時にたって朝の五時に到着。

山田老人の農園は、バスターミナルからさらに十五キロ程南下した所にある。 乗り換えたバスを下りて歩くこと三十分、やっとのことで山田園に着いた。

山田老人としては谷村氏への遠慮もあるので、私に対する接待は中々に微妙なものとなった。 マルデルプラタの日系人は、山田ファミリーのほかには二、三家族しかいないという。

山田老人は、アルゼンチン人が経営する温室百棟の大農園にカパタス(監督)として働いている 佐々木夫妻のことを話してくれた。谷村氏とも親しいとのことだったが、山田老人に頼み込んで、 私は早速佐々木夫妻に会いに行った。

佐々木夫妻の家は農園の敷地内にあり、かなり立派な構えだった。佐々木氏はざっくばらんな性格らしく、

「谷村の家にいるのか?なに、二年もいて独立出来ない?それなら、俺のところへ来い。ここで、面倒みてやる」

開口一番、こう切り出してきた。ブエノスにいたのでは、あのかわいそうな前田青年の二の舞になるだけだ。

「わかりました。それでは、お願いします」

私も、そう返事していた。ブエノスに帰って、谷村氏に報告すると、

「まあ、残念だがしょうがない。独立する時は、ガホ(苗)でも何でもあげるから、言ってくれ」

彼は、こうなることをとっくに予想していたのだった。夫人と別れることだけが、辛かった。 だが、とにかくここを出なければ、自分に将来はない。荷物をまとめて、その夜、私は前田に別れを告げに行った。

「残念だが、俺はマルデルプラタヘ行く。お前もこんな状態で大変だろうが、頑張ってくれ。また、いつか会おう」

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 ・ 8. 花の都
 ・ 9. 五年ぶりの帰国
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
 ・ 15. ミチルとの新しい生活