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 12.再びアルゼンチンヘ

セニョール マルティンが、ホテルから飛行場まで車で送ってくれた。 おまけに、別れ際に金を包んでくれた。日本では大したこともしてあげられなかったのに、 それがメキシコのマチスモ(男の道)だという。

リーネアアルヘンティーナ社の飛行機に搭乗する。メキシコからボコタ(コロンビア)、 リマ(ペルー)、そしてブエノスアイレスだ。以前取得した永住ビザのおかげで、入管は全く問題なかった。 国土は広く、人間は少ない。いちいち細かいことにはこだわらない。

ここで生れれば、誰でもここの国民だ。 土地が広いということは素晴らしい、人間を一回りも二回りも大きくしてしまう。 まず一番に、沖縄日系人クラブのリーダー、あのマルガリータに電話する。

「ケ ソルプレッサ」(本当に、驚いたわ)

彼女は、兄と一緒にすぐさま飛んで来た。三十数年前に着の身着のまま渡亜して来た彼等の両親は、 一度たりとも帰国したことなどない。それなのに、こんな若いムチャーチョがいとも簡単に行ったり来 たりしているのだ。彼等にしてみれば、夢のようなことに違いない。

しばらく彼女の家に厄介になることになった。両親も兄弟も、本当に親切で心優しい家族だ。 マルガリータの性格の良さも、納得がいく。

だが、あまり長居は出来ない。折角苦労して覚えてきた指圧の技術を役立てなければ。 しかし、この国の免許がなければオープンには働けない。

私は、市内のマッサージ学校に当たってみた。秘書の話では、マッサージのクラスは三か月だという。 技術は、大したことはなさそうだ。私は、直接オーナーに会った。 結局、三か月分の授業料を全額支払うことで話がついた。

ライセンスさえあれば、こっちのものである。 とはいえ、まずはアルゼンチン人に指圧そのものを理解してもらうのが先決だ。 そこで、私は日系新聞ラプラタ報知を訪れ、浪越徳次郎の文章の一部を拝借して、宣伝記事を載せてもらうことにした。

ついでに、ラプラタ報知の社員の紹介で、適当な部屋をレンタルすることが出来た。 私の新しい家主は、戦後に渡亜した山田さんという人だった。仕事が思ったようにいかず、 おまけに負傷した右腕を放っておいたために、今ではねじれたまま皮膚も黒ずんでしまい、 どんな医者にみせてもアテンドしてくれないという。

そんなわけで、奥さんが縫い物をして、細々と家計を支えている。 十七歳になる一人娘はようやく今年高校を卒業するが、いくらかでも部屋代が入れば助かるという。

新聞の宣伝記事が効いたのか、早速客から問い合わせがきた。 アルゼンチンには日系人が三万人以上いるから、その一パーセントでも大変な人数である。

卒業こそ出来なかったが、一人前に客をとっていた私だ。 それに、大切なのはどんな客に対しても真心を持って一生懸命指圧することだ。 そうすれば、必ず成功する。私には、自信と確信があった。

そして実際、客の数は日増しに増えていった。口コミでアルゼンチン人も来るようになったが、 これはこたえた。日本人の倍もあるような体格のアルゼンチン人に、効き目のある指圧を施すのは容易なことではない。

だからといって、料金を倍にできるわけではないのだ。彼等は、日本人の魔法の指にかかれば、 肥満の身体もたちどころに痩せると信じているらしい。

医者に見放されたというバセドーシ病の患者も来た。飛び出した目玉を見て、 これは指圧の治療対象ではないと思ったが、とにかく一生懸命やった。 三日と空けずに来たが、近頃良く眠れるようになったという。多分、精神的なものだろう。だが、悪い気はしない。

調子に乗って風呂場での軽い体操を指導したとたん、ぱったり来なくなった。 一か月後に来院して曰く、言われた通りにやったら目が回って倒れてしまったとのこと。

山田さんのねじれた腕を少しでも元に戻そうと、私は毎日指圧した。本人の気力もあろうが、 皮膚の色が徐々に戻ってきた。とにかく、医術は自然の摂理に順ずるのが良い。 本人のやる気が出てきて、夫人も大喜び、毎日御馳走責めである。

考え過ぎか、一人娘まで私に媚びて来るような気がするのだが、残念ながら好みではない。 ところが、マルガリータがすっかり気をもんで、頻繁にやって来るようになった。

もう、私のノービア気取りである。私も、確かに最初は彼女との結婚を考えたこともあったが、 今では顔を会わすのさえ辛くなってきた。アルゼンチンでは、女性の二十五歳は立派なオールドミスである。 大低二十歳前後で決まってしまう。女性なら十五歳、男性なら十八歳がラテン社会の成人なのである。

かわいそうなマルガリータ。しかし、自分を騙すことは出来ない。一度心が離れると、 もうあとはいけない。相手が積極的になればなるほど、こちらは退く。

指圧師を続けていれば、確かに金にはなる。だが、この空しさ、この焦りは一体何なのか。 俺は、こんな所でこんなことをやっていていいのか?。

人間とは、全く身勝手な生き物だ。窮すれば血相変えてどんなことでもやってのけるくせに、 小金を貯めてちょっと余裕が出てくれば、もうこれである。 M商社マンの石橋さんは、ストレスを取り除くために指圧を受けに来ていたが、いろいろ話をしているうちに、

「川島さん、うちで働いてみない?貴方ほどの語学力がある人を、ちょうどほしいと思っていたんだ」

と、もちかけてきた。

M商社はアルゼンチン国鉄と今後十年に渡る鉄道建設の契約を取り付けたところで、

スペイン語に堪能な人材を探していたのだった。 以前から憧れていた商社マン、何と言ってもかっこいい。

M商社での仕事は主に通訳で、私のほかにもう一人語学力をかわれて雇われた山下君がいた。 幼い時に家族とともに移住し、苦労してパラグアイの大学を卒業したというとても負けず嫌いな青年だ。

毎日相当量の翻訳をこなすのは、神経が疲れる。大半は西語を日本語に訳すのだが、その逆もある。 我々日本人にとっては、日本語を西語に訳すのは非常に難しく、東京外語大卒の石橋さんにとっても、 きつい仕事のようだ。

マルガリータはこのオフィスにも頻繁に顔を出すようになり、石橋さんともかなり親しくなった。

「川島君、彼女が来ているぞ」

にやにやしながら、石橋さんが私に知らせる。

商社マンといっても、現地雇いに対する条件は厳しく、特に給料は安かった。 収入の点では、指圧の方がずっといい。山下君も同じような不満を持っていたらしいが、 パラグアイでの苦しい生活体験があるからか、誠に辛抱強い。 ブエノスで頑張って、一日も早く両親や幼い弟達を呼び寄せたいという。

その点、私はフリーだ。マルガリータのことも、今ではもうただ目障りなだけである。 納得がいかないのだ、かわいそうだが仕方ない。彼女のために犠牲になるわけにはいかない。

俺は、このままここに居なければならないのか。こんなことなら、もう一度日本に帰ってみるか? 考えあぐねて、私は石橋さんに相談した。

「川島君、すまないが、あと三か月働いてくれ。今T社のニンジニアが来ているのだが、 私と一緒に通訳をやってほしいんだ」

なかなか、適当な人材がいないらしい。片言の西語を話す人は大勢いるが、正確に翻訳や通訳を こなせる人は少ないのだ。移民達は生活を維持することに精一杯で、語学を学ぶために学校へ 行く余裕などないのである。

行きがかり上、むげに断わるわけにもいかない。結局、私はT社の二人のエンジニアとともに、 アルゼンチン北部へ旅することになってしまった。仕事は、電話の配線工事である。 報酬は翻訳よりいくらかましだし、この際北部を見て回るのも面白いだろう。

エンジニアは二人とも大ベテランで、アルゼンチンの下請会社を使って仕事を遂行していく。 一口に北部といってもコリエンテス州、チャコ州そしてミショネス州の三州にまたがり、日本の国土より広い。

仕事はケーブルを一線一線間違いなく配線するという単調なものだったが、線の数が非常に多いので、 ちょっと油断するとミスってしまう。このミスを修正するには、大変な労力を要するのである。

下請会社の技師といっても、皆、素人に毛の生えたような連中ばかりだ。私の仕事は通訳だが、 しばらくすると、配線工事も彼等に任せておくより私が手伝った方がはるかにはかどるようになった。

もともと私は、口だけ動かすより、手を動かした方がいいというタイプなのだし。 逆に、ラテン人は、実に口が達者だ。もっと素直にこちらの言うことを聞いてやれば、 どんなにかはかどるのにと思う。

敗戦国日本が信じられないほどの経済発展を遂げたのは、先輩や上司を敬い素直に従うという国 民性の賜物ではないかと、身をもって感じさせられる。ここの連中は、ちょっと覚えるともう一人 前の技術者気取りで、他所へ行くと一流のエンジニアだというような顔をする。 とにかくハッタリをきかせて自分を売り込まなければ認めてもらえない、自分の発展が望めない国柄なのである。

私の助力ではかどった仕事の出来高は、全て下請会社のものになってしまう。 これでは、私も面白くない。下請会社のチーフと日本側の横田チーフの両者に掛け合って、 助手としての報酬ももらえるように話をつけた。だが、横田さんが難色を示したこともあって、 結局ちゃんともらえたのは最後の一か月分だけだった。

最北部に位置しているミショネス州はブラジル、パラグアイと国境を接している。 日本からの移民も多く、農業だけでなく植林等の林業でも頑張っているが、 マーケットがあまりにも遠くてなかなか厳しいようだ。

折角こんなに遠い所まで来たのだからということで、下請会社の社員に案内してもらって、 私達は世界的に有名なイグアスの滝を見に行った。ジャングルの中をジープで突き進む。

ジャングルとはいってもアフリカの密林とは違い、なんとか車が通れる。この辺にはジャガーやシカなどがいて、 夜中に猟をするといいという。懐中電灯や車のライトに誘われて出てきたところを狙い撃ちするわけである。

そうこうしているうちに、滝の音が聞こえてきた。まだ数キロも先だというのに、 すぐ近くにあるような追力だ。ついに、滝のそばに着いた。何という荘厳さ、 鳥肌が立つような恐怖感、吸い込まれてしまいそうだ。

滝は数キロにもまたがっているが、中でも「ガルガンタ デ ディアブロ」(悪魔の喉ぼとけ) と呼ばれる滝の壮大さは群を抜いている。見ていると、目が眩んでしまう。

水先案内人が、滝の上部を木の葉のようなボートで案内してくれた。滝の切れ目まで近づくのだ。 もう、それ以上近づくな。早く、引き返せ。ボートもろとも、まっさかさまに落ちてしまうぞ。

「これだけで、アルゼンチンに来た甲斐があった」

リーダーの横田さんと浅沼さんが、放心した面持ちで言う。 輿奮覚めやらぬまま、私達は滝をあとにした。短いエキサイティングなバケイションは終りだ。 明日からまた、配線の仕事を続けなければならない。

それにしても、ここの暑さはひどい。四十度を超えるのも、珍しくはない。 だから、ここではほとんどの店が、午後は四時までオープンしない。

夜までは暑さを避けて、家の中にじっと閉じこもっているらしい。 たいていのサラリーマンは昼になると自宅へ戻り、昼飯を食べシィエスタ(昼寝)をしてから、 おもむろに午後の勤務に出かけて来る。

もちろん、レストランだけはオープンしている。地方のこと故価格も格別安く、ブエノスの約半額といった ところだ。スープ、野菜サラダ、メインディッシュの肉料理、デザート、それにワインまで飲んで 百円も払えばOKだ。

ここでも肉が主食だが、本当に安い。脂身は切り取って赤身の部分だけ食べるので、 毎日食べても平気だ。慣れもあるだろうが、いまだに私は日本の霜降肉があまり食べられない。 いわゆる焼き肉も、カルビよりフィレの方が合う。

電話の配線工事は、ようやく終りに近づいた。自分では不器用だと思っていたが、私も結構やる。

「川島君、どうだ、うちへ来ないか?」

横田さんの誘いも、まんざら社交辞令とは思えなくなる。 ついに、工事は完了した。タイムもOK、私もプラスアルファを頂いたし、 日本のスタッフも下請会社も大喜びである。私は、M商社の石橋さんに挨拶に行った。

「工事も何とか無事に完了しましたし、これで私は日本へ帰れます。いろいろありがとうございました」

ブエノスでは唯一の日系人の旅行会社である宮本旅行社に、帰国のための航空券を依頼した。 明日は、日本だ。おそらく、再び戻って来ることはないだろう。本当に豊かな国、アルゼンチン。

日本に、この国の半分でも資源があれば?。いやいや、そんなに恵まれていたら、 日本人もアルゼンチン人のようにのんびりしてしまうかもしれない。

マルガリータには、結局何も言わなかった。言えば悲しませるだけだ。どうすることも、出来ない。

翌日、私は独り、ブエノスのエセイナ空港にいた。搭乗のアナウンスが流れる。 はるかに見渡せば、様々な思い出が一瞬のうちに蘇る。

パンパスの国、ガウチョの国アルゼンチンよ、そして私の青春よ、永遠にアディオス!

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