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 7.弟の来亜

「明日、弟がブエノスに着くので、今夜の夜行バスでブエノスヘ行きます」

海老夫人に伝えて、私はブエノスへ向かった。マルデルプラタから直行便で七時間 、午後十一時に出発して翌朝六時には着く。車中で寝れば、ホテル代が浮く。

バスターミナルからタクシーを拾って、ブエノス港に到着。岸壁は、家族連れのアルゼンチン人でごった返している。 弟と最後に別れたのは、彼が高校生になったばかりの時だった。およそ三年半ぶりの再会、彼も大分変わっていることだろう。

ボウボウと大きな汽笛音を響かせながら、アルゼンチナ丸はやってきた。 私が最後の移民船として乗船したアルゼンチナ丸は改装されて外観も一変し、客船として生まれ変わっていた。

船は、ようやく接岸した。下船する人々、迎える人々、大変な騒ぎである。 泣き叫ぶやら抱きつくやら、特にアルゼンチン人家族の歓迎振りはすごい。カルロスのことを思い出す。

後で聞いてみれば、やっぱりせいぜい一年くらいしか別れていなかったというのだから、 日本人の感覚では大袈裟過ぎるとしか思えない。

私は下船する客の一人一人に、注意深く視線を走らせた。だが、弟らしき客の姿はない。 私はデッキを駆け上がって、大声で呼んだ。

「川島博志、川島博志君はいませんか?」

「兄貴、兄貴じゃないか!?」

すぐそばにいた青年が、叫んだ。それは、正しく弟の博志だった。 別れた時のきゃしゃなイメージとはほど遠いがっしりした体格。高校三年間の柔道が、彼をこんなにもたくましく 変身させたのか。

弟のことばかりは、言えない。彼にも、そばにいる私がわからなかったのである。 あのキューバのカストロ首相も負かすほど顔中に髭を生やした私の顔は、まったく別人だったのだろう。

「よく着いたなあ」

「川島君は、今回は兄さんがいるから心配ないな」

いっしょに来ていた亜拓組合の須藤さんが、笑いながら言った。 簡単な入国手続きを済ませ、バスターミナルに向かう。弟は、同僚と別れを惜しんでいる。 彼等は電気技師や花卉実習生として、ブエノス市内の会社や近郊の農家に行くのである。

海老農園に到着すると、昼食は歓迎のアサードとなった。ロベルトが、朝から火を起こして待っていてくれたという。

私がそうであったように、弟も初めてのアサードに感動しているようだ。こんなにたくさんの肉を一度に食べるのは 、弟にもまだ経験がないはずである。

特においしいのはあばら骨の付いた肉、それにチョリーソ(腸詰め)。ガウチョ(アルゼンチンカウボーイ) のカルロスの味付けが、また格別だ。弟は油分の多いチョリーソを食べ過ぎて、翌日は終日下痢気味だった。

私は相変わらず早く起きて、弟が起きる頃には、もう花切りを終えていた。 私が一生懸命花作りの要領を教えてやっても、弟の反応は鈍い。

「兄貴、この仕事は、俺には向かないよ」

弟の来亜は、私にとっても、その後の生き方を決める上で大きな意味を持つことになった。 日本が東京オリンピックを境に異常なスピードで経済成長を遂げていること、 特にサラリーの上昇がすさまじいこと等を、弟は熱っぽく語った。

それに引き替え、ここアルゼンチンはどうだろう。インフレで、日毎に物価は上昇する。 サラリーの上昇は、到底追いつかない。私が来亜した当時は、円に比べてアルゼンチン・ ペソの方がドルに対して強かったが、今ではまったく逆転している。

このままこんな所で花作りをしていていいのだろうか?。私の心は、動揺した。

一か月もたつと、弟はアルゼンチンでの生活に大分慣れてきたようだったが、 相変わらず花作りの仕事には無関心だった。

一方、私は毎日、真面目に中学校へ通っていた。その甲斐あって、スペイン語の 上達振りは素晴らしかった。先生とは友人としての関係は続いていたが、それ以上の進展はなかった。

「博志、次の日曜日はプラジャ(浜辺)に行こう。たまには、セニョリータでもおがまなきゃな」

水着姿の弟を見て、中学時代のきゃしゃな体と思い比ベ、感慨深いものがあった。 彼も中学時代には私と同じ軟式テニスをやっていたのだが、高校入学と同時に柔道を始め、 卒業時には二段をとったという。

「お前も随分がっしりした体格になったなあ」

「兄貴、少しやろうか」

砂浜で柔道の組手を始めると、あっという間に見物人が集まった。人数が増えるに連れ、 当然私達も熱が入る。背負い投げ、つりこみ腰、巴投げと、弟は知っている限りの技を連発した。 自分で言うのも何だが、さすがテニスで鍛えただけのことはあり、私も立派に相手を勤めた。

「ブラボー! ブラボー! ジュウドウカ」

見物人の中から、大きな拍手が起こった。

「ウステデス デ ドンデ ビエネン?」(あなた方は、どこから来たのですか?)

「ハポネス ムイ ビエン.ソン ジュウドウカ プロフェシオナル?」(日本人、あなたはプロの柔道家ですか?)

「ソイ ヒメネス テンゴ.ヒムナシア ドンデ アーゴ クラセ デ ルーチャ リブレ」 (私は、ヒメネスと言います。ここで、レスリングジムを持っています)

「ウステ ノ プエデ アセル クラセ デ ジュウドウ?」(柔道のクラスを持つことが出来ますか?)

弟は、びっくりしていた。それもそのはず、確かに二段をとってはいるが、日本では別に珍しくもないただの ヒヨッコである。おいそれと人様に教えられるような身分ではない。だが、私は間髪を入れず言った。

「博志、ここはアルゼンチンだ。しかも、マルデルプラタ、一地方都市に過ぎない。日本じゃ大したことはなくても、 ここならお前の力で十分通用する。自信を持ってやってみろ」

ビジネスは、成立した。弟も、乗りやすいタイプではある。

柔道のクラスは、早速来週から開設されることになった。弟のサラリーは三万ペソ、 それに生徒数に応じてコミッションが加算される。田舎で花作りの手伝いをしているよ りいろいろなことが勉強出来るだろうし、弟にとっては願ってもないチャンスである。

ヒメネス氏がマルデルプラタのあらゆるマス・メディアを利用して宣伝したこともあって、 柔道のクラスには五十人以上の生徒が押しかけて来た。幸いにも、誰一人柔道の知識を持っ ている者はいない。こうなったら、当たって砕けろだ。

弟は、自分が高校の先生や先輩達から教わった通りのことを、教わった通りの順序で教えた。 それ以外のやり方を知らないし、それで十分だった。

「プロフェソール・イロシ」(博志教授一スペイン語ではHを発音しないので、博志はイロシとなった)

彼等は大きな尊敬の念を込めて、弟をそう呼んだ。ここに、柔道の大先生が誕生したのである。

弟のそんな境遇をまじかに見せつけられて、私の花作りに対する興味は急速に薄れてしまった。 だが、自分にあまりにも期待している海老夫妻に、それを切り出すことは出来ない。 今では、私が作った花の売り上げの半分が、彼等の生活を支えているのである。

海老さんは、何時死んでもおかしくないという状態だった。医者には、とっくに見放されていた。 海老さんは、その並みはずれた気力だけで生き続けていた。私が温室で働いていると、

「オーイ、オーイ」

と、海老さんの声が聞こえてくる。とても苦しそうな声だ。

「川島君、ブエノスアイレスの日系人はどうかね。皆、同じだろう。温室一棟増やしたとこ ろで何の意味もないのだが、要するに目的、人生の目標がないんだね。人の悪口を言うか、 温室の多いことを自慢するか、そんなレベルだから、日本にいる人から卑民などと言われるのさ。仕方ないさ」

いつも、こんな調子だった。しかし、ここ数週間お呼びがかからない。そろそろ心配になり始めた頃、

「マリオ、悪いけどロベルトを探してきてくれる」

真っ青な顔で飛んで来て、海老夫人が私に言った。

海老さんの容態が急に悪化し、今夜が峠だという。ロベルトは町へ医者を呼びに行き、 ブエノスにいる長男のホセ、次男のラウルに連絡をとった。私も学校へ行くのを止め、一日中そばにいることにした。 ロベルトか連れてきた医者が、寝室から出て来た。海老夫人の泣き声が聞こえる。私は、海老さんの死を悟った。

「マリオ、別れの挨拶をしてきて」

しばらくしてから出て来たロベルトが、私に言った。

私は、寝室に入った。安らかな顔だった。医者から見放され、一年と言われた命を五年も生き永らえ てきたその精神力、生命力。本人だけではない、家族の犠牲も大変なものだった。

二回の大手術のために営々として築き上げて来た財産の全てを使い果たし、今こうして身 一つとなって横たわっている。私は人生の不可解さに驚愕し、半面ほっとしていた。 これで、私は海老さんから解放されたのだ。

海老ファミリーは日系人とはほとんど付き合いがなかったため、ブエノスからの弔問客はわずかにホセ、 ラウルそして海老さんの妹とその夫の渡辺夫妻だけだった。

海老さんの死後一週間、夫人は部屋にこもっていた。ホセとラウルは葬式が済むとすぐブエ ノスへ帰ってしまったが、ホセは仕事を終えたらノルマと一緒に戻って来るという。

この夏休みもまた、勉強出来るぞ…尋常でない看病を続けてきた夫人の心底は察するに あまりあるが、私の関心は既にそこにあった。

夏休みは、すぐにやってきた。日本から見れば地球の反対側にあるアルゼンチンでは、 十二月末のクリスマス前から翌年二月一杯までが、夏休みとなる。

もうすっかり花作りのベテランになった私にとっては、現状維持は容易いことだった。 内心密かに進路を決めている私には、温室を増やす意欲も必要もない。

だが、私の意図を知らないロベルトにとっては、まだ私は必要な人間だった。

「マリオ、もっと温室を増やさないか。出来たらぼくの分もやってくれないか。 そうすれば、ぼくはタジェル(自動車修理工場)の方をやるから」

それが、ロベルトの本心だった。あまりぐずぐずしていると、本当に抜けられなくなってしまう?。 私は、そんな不安にかられた。

そんな折、無理がたたったのであろうか、元々悪かった痔が再発してしまった。 今度のは、特別ひどい。大便でいきばるたびに、ドッと鮮血がほとばしる。 ここでの食べ物も、原因のひとつになっているのかもしれない。

私はロベルトに頼んで、町の専門医のところへ連れて行ってもらった。

「オスピタルもあるけど、あそこは患者が多くて待遇が悪いから、クリニカ・プリバーダ (個人専門病院)の方がいい。料金は高いけど、ずっとアテンドがいいよ」

ロベルトの言葉を信じて、ついて行くしかない。 病院に着くと、まずチェックを受けた。ズボンとパンツを脱ぎ、尻を出す。先生は、 私の尻の上に、丸い穴の開いた布をかけた。恥ずかしさもあるので、私がじっと下を向いたまま尻を突き出していると、 回りがガヤガヤと騒がしくなってきた。

「ミラ エスト エス エモロイデ ハポネス」(御覧なさい。これが日本人の痔です)

先生が私の尻を指さしながら、大勢の看護婦達に説明しているではないか。

皆、二十歳前後のセニョリータだ。 イボ痔だった。その場ですぐさま手術が始められた。イボが切除され、手術はあっけなく終った。 入院も何もあったものではない。私は弟に肩を貸してもらってタクシーに乗り、即日家に帰った。

だが、それからが大変だった。海老夫人には、ほんとうにお世話になってしまった。 毎日お湯を沸かしてもらい、大きな洗面器の中で患部を洗って、消毒する。

二、三日は、食事も全く流動食のみ。力んだりしたら、折角ふさがった傷口が開いてしまうからだ。 亡くなった御主人の代わりに今度は私が面倒をかけてしまったわけだが、 海老夫人のおかげで、私はこの苦難を乗り切ることが出来た。

そればかりではない。御主人を亡くした寂しさもあっただろう、海老夫人は私達兄弟を、 週に三度は食事に招侍してくれるようになった。さらに、ロベルトの提案で、海老夫人が 私達の食事を全て作ってくれることになった。

もちろん、それなりの代金は支払うのだが、私にとっては本当にありがたい提案だった。 とにかく、海老夫人の料理は最高なのだから。

弟は、私以上に喜んだ。私が作るプチェロばかり食べさせられて飽き飽きしていた彼は、 生き返ったように元気になった。

弟の柔道のクラスも、うまくいっているようだった。ヒメネス氏は調子に乗って、 二番目の学校をつくるなどと言っているらしい。若い女の子がたくさん入校してきて 勢い言葉の上達も早くなり、弟は毎日学校へ行くのが楽しみだと言う。

ただ、いくら生徒の数が増えても、ヒメネス氏はコミッションの話を忘れてしまったかのようだったが。

「兄貴、今度の火曜日の夜、俺と一緒にテレビに出ないか?」

柔道のエキシビションをやるという。柔道と空手の模範演技を、ローカルテレビで放送するというのである。 出るも出ないもない、私達はすぐさま演武の練習に入った。ホセもノルマも大乗り気で、 もうすっかりマネージャー気取りである。

私には空手の経験があるので、二、三度練習すると、自然に体が思い出してくれた。

「イロシ、マリオ、クチージョ(ナイフ)を使ったら、もっと面白いぞ」

若さと無知ほど怖いものはない。私達兄弟は、ホセの提案に大賛成した。 しかし、投げられ役は大変である。下手な倒れ方をすると、ナイフが突き刺さってしまうのだ。

ついにエキシビションの日がやってきた。今日のスターは、川島兄弟である。 ヒメネス氏が私達を紹介し、盛んにほめたたえる。

アルゼンチン人は、皆、実に話がうまい。しゃべるだけなら、誰でも大統領になれるだろう。 テレビの生放送ということで、ヒメネス学校の全生徒とその家族、そして友人達までが集まって、 会場は度胆を抜かれる程の観客で埋まっている。

こうなったら、腹を決めてやるしかない。一発勝負だ。

「ブラボー、マリオ!イロシ、うまくいったよ。素晴らしかったよ」

ホセが、興番して騒ぐ。抱きついて、肩をやたらボンボンたたく。どうやら、 うまくいったようだ。これでますます生徒が増える、とヒメネス氏もほくほくである。

ホセの仕事は、順調のようだった。インフレで日毎に貨幣価値が下落してしまうので、 少しでも余裕のある人は物に変えて蓄えようとするからである。

要はどのようにうまく説明しセールスするかだが、その点ホセは天才的だった。 日本語もペラペラで、字が書けないのが不思議なくらいである。 兄弟ではありながら、話し下手で機械をいじっていればコンテントなロベルトとは対照的だ。

ノルマとも、結構うまくいっているらしい。同じ女性とこれほど長続きするのは珍しい、と回りの人が噂する。 ホセは早く土地を売って、その取り分で独立したいらしい。しかし、政府から特別安い価格で購入した土地は、 いろいろ制約があってそう簡単には売れないようだ。

いずれにしろ、そんな話を聞いて、私は安心した。もう義理立てする必要はない、 こちらの都合で出ていけばいいのだ?。そう決心することが出来た。

弟も仕事にはすっかり慣れたが、いつまでたってもヒメネス氏がコミッションのこと を切り出さないので苛立ち始め、愚痴をこぼすことが多くなった。

「これじゃあ、いくら一生懸命やっても意味がない。兄貴、ブエノスへ行ってみないか。 あっちには、一緒に来た友達が何人もいるから」

「それなら、金曜の夜に出よう。そうすれば、土曜の朝には着く。その方が、ゆっくりできるぞ」

弟の友達は、A電気の技術員として来た小林、私と同様花卉実習生としてホセ・セパスの日系花卉業者のも とにいる山田等、アルゼンチン丸でやって来た青年達である。半年ぶりの再会だ。 最初の頃の私同様、やはり山田は、土曜日は仕事を抜けられないようだった。私達はまず、小林と会うことになった。

バスの中で一夜を過ごし、バスターミナルのカフェテリア(コーヒーショップ)で軽い朝食をとる。 カフェ・コンレッチェ(カフェ・オーレ)と、メディアルーナ(クロワッサン)に砂糖をたっぷりかけて 食べるのが、ここのやり方だ。

それにしても、ラテン人は何と砂糖の好きな人種だろう。女性は皆、若いうちは出るべきところは出て、 締まるべきところはきゅっと締まり、足もすらりとして本当に素敵なスタイルだが、三十歳を過ぎると たちまちオバサンになってしまう。

コレステロールの取り過ぎで、女性にはバリセスという足に血管が浮き出てくる病気がある。 とても痛いそうで、マッサージをしたり、時には血管から血を抜いたりまでするという。

おそらく、小林はまだ寝ているだろう。私達はカフェテリアでゆっくり時間をとってから、タクシーに乗った。

「ここへ、やってくれ」

住所を書いたメモ帳を見せる。ブエノスアイレスの街路は実に整然と碁盤の目のように整備されており、 その全ての街路に名前がついているので、目的地を探すのは容易い。

小林の住居は中心街にあり、しかも2LDKの比較的ゆったりしたアパートだった。 とにかく、場所がいい。ここからなら、オフィスまで歩いていける。 それに、A電気の仕事は実に簡単なのに、サラリーはいいという。 ブエノスでは唯一の電気技術者なので、それはそれは大切にされているというのだ。

何という差か…私は自分の境遇とあまりにもかけ離れているので、うらめしくさえ思えた。 半面、それが故に身をもって多くのことを学び得たという確国たる自信が、私にはあったが。

ところが、その確固たる自信が、わずか数十分後に木端微塵に打ち砕かれてしまったのである。 すなわち、繁華街として有名なフロレンシア通りにある『ガウチョ』というレストランで紹介さ れたラウラという女性の美しさといったらないのである。

あまりのチャーミングさに、私も弟も、唯々驚き見とれてしまった。 聞けば、A電気が主催したイベントで雇ったモデルのうちの一人だというではないか。 小林とラウラは、ただちに意気投合したという。私達だって、ラウラのような女性なら、会った瞬間に意気投合出来る。

「兄貴、俺達もブエノスに出て来なければ、ダメだな」

弟とて柔道のクラスで大勢の若い女の子を相手にしているわけだが、ラウラのように垢抜けた女性には、お目にかかれない。 まだ数か月しかたっていないのに、小林はスペイン語も自信ありげに流暢に話す。 これも、こんなに素敵な女性を手に入れた自信のなせる業か。

文法なんぞ糞食らえ、そんなことをいちいち気にしていたら上達しない。相手に通じれば、それでいいのだ。 夕食には、山田も加わった。こちらの方は、案の定、愚痴が多い。山田は大学卒業後の渡亜なので、 私より歳上である。それでペオンになったのだから、私の場合よりさらに大変だろう。

私には、山田の気持ちが良く分かる。しかも、花の需要は減る一方だ。山田は焦っていた。 一日も早く街に出て来たい様子だ。

それにひきかえ、小林は恵まれ過ぎている。二年間という保証期間付きの契約、 アルゼンチンの一般サラリーマンの五倍以上のサラリー。渡亜の目的や考え方が、 私達とは全く違っているように思えるのも当然かもしれない。 ともあれ、話は尽きなかった。その夜は、皆、小林のアパートでゴロ寝した。

翌日曜日も、いい天気だった。朝食は、小林が作ってくれたカフェ・コンレッチェに 、菓子パンをひたして食べた。 今回のブエノスへの小旅行は、私達兄弟に大きなショックを与えた。 同時に、これから先の生き方に対する指針をも。

私達兄弟の共通の強烈な思い、それは一刻も早くブエノスへ出て来なければならない、全てはそれからだということだった。 こんな私達にとって、帰路の七時間のバスツアーは全く苦にならなかった。

「マリオ、どうだったの、ブエノスは?」

海老夫人が、心配そうに聞く。

「セニョーラ、ブエノスは実にいい所です。友達にも会えたし、食事もおいしかった」

「マリオ、ブスカステ、ノービアエ?」(マリオ、恋人を見つけたか?)

ロベルトが、例の調子で言う。私を男にしてくれたロベルトには、頭が上がらない。

翌日から、私の語学の勉強には、一段と熱が入った。そうなると、花の手入れはおろそかになるばかりである。 海老夫人は、私の心の変化に気づいていた。もう、隠すことは出来ない。

「セニョーラ、私も弟も、この十月にブエノスヘ行きます。それまでの間、よろしくお願いします」

「仕方がないわね。ずっといてほしいけど、貴方は若いのだし、これからよね」

本当に、すばらしい人だ。最初はとっつきにくい人だと思ったが、それはやさしさの裏返しだった。 悩んで相談にいったあの時、私を突き離したのは私が私自身の力で乗り越え成長することが一番大切 だという夫人の深い心配りだったのだと、今つくづく思う。 私が痔の手術を受けた後、何週間も我が子のように看病してくれたことは、生涯忘れないだろう。

しかし、一度決心した以上、突き進むしかない。近々、ブエノスヘ行って、働き口を決めてこよう。 友人達からの情報では、ブエノスに小さな商社を営んでいる千葉県人がいるというのだ。

一か月後、私達兄弟は、再びブエノスに向かった。千葉県人の島津さんには、 アポイントメントをとってある。土曜日なので、島津さんの自宅、住宅地のど真ん中にある高 級マンションの一室で会うことになった。

「良く来てくれたね。君は千葉高卒だって?ほう、一流校じゃないか。どうしてまた、 アルゼンチンなんぞへ来たんだね?」

話は、はずんだ。島津さんは、戦前からH商社の営業マンとして来亜していたのだか、 戦争が始まって帰国の機を逸し、戦後独立して商売を始めたのだった。 戦後直後はまた日本からの大商社の進出もなく、かなりの利益を上げることが出来たが、 大商社がひしめく今はどうにか生きのびている状態だという。

そんな話の後で島津さんが提示した条件は、案の定、決していいものとは言えなかったが、 私には反論する術がなかった。 弟の働き口も決めなければならないが、ねぐらを見つけることが先決だ。

何しろ給料が安い、新聞情報や口コミを頼りに一日中探し回り、 何とかこれならという物件に巡り合った。聞けば、かつてそこに日本人が住んでいたというではないか。 2食付きのペンションで、一部屋にベッドが二台置いてある。洗灌は、毎日やってくれるという。

早速手付け金を払い、簡単な契約書にサインした。

「博志、これでOKだ。あとは引っ越して来るだけだぞ」

私達はマルデルプラタに戻り、中学校のマルハ先生に別れを告げに行った。 彼女にとっては、私ほど不可解な男はいなかったにちがいない。神秘の国、日本の青年よ…だが、好感は持ってくれたはずだ。

弟も、ヒメネス氏に別れを告げに行った。ヒメネス氏は、今では自分流に何とか柔道をものにし、 足りないところは得意の口で生徒達を丸め込んでいた。そんな具合だから、弟に支払う給料も惜しく なってきていたのだろう、引き止めはしなかった。

「本当に残念だ。もっと居てほしいのに」

などと調子良く言い、肩をパンパンとたたいてサヨナラである。餞別も、なかった。

だが、私達には、もう何の未練もない。苦労して作った温室も、もうどうでも良い。 花が切れるうちはいくらかでも金になるから、ロベルトが適当に処分するだろう。

ガウチョのカルロス、妹のオフェリア、皆別れを惜しんでくれた。二年半、よくぞ辛抱した。 一時はここで結婚して暮らそうとまで思ったのだ。本当に辛く、そして楽しかった。 海老夫人のやさしさとおいしい料理だけは、一生忘れないだろう。

さらば、マルデルプラタよ。

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 ・ 1. 少年時代
 ・ 2. 力行会
 ・ 3. アルゼンチナ丸
 ・ 4. 渡嘉敷農園
 ・ 5. 谷村農園
 ・ 6. 海老農園
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 ・ 8. 花の都
 ・ 9. 五年ぶりの帰国
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
 ・ 15. ミチルとの新しい生活