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 1.少年時代

 私は五人兄弟の三番目の次男として、終戦の翌年、昭和二十一年一月に北京の鉄道学校の校舎で生れた。 当時二百万人もいた日本人は、敗戦によって母国日本に引き揚げねばならなくなった。中国で一旗揚げようと思っていた 私の父にとっても、敗戦は大きな打撃であった。六年間営々として築き上げてきた事業と生活の基盤の全てを、 一瞬にして失ってしまったのである。

 私が生れたその日、一月三日は雪の降る寒い日だったという。氷点下三十度の酷寒の中で産声を上げた小さな命の誕生を、 私の両親は複雑な思いで迎えたことだろう。新しい日本を築く新しい命、だが、こんな乳飲み子を抱えて、 日本に帰ることが出来るのか。私のほかに、五歳の兄と三歳の姉がいたのだ。

 事実、多くの赤ん坊が寒さのために、母親のお乳が足りないために、そして恐ろしいことには親自身の不安や恐怖の故に、 犠牲になっていったのである。私は幸運だった。面倒見の良かった父に対して、中国人たちは敗戦の後も好意的だった。 私たち家族に食料を恵んでくれ、いろいろと便宜を図ってくれたからである。

 おかげで、私たち家族は、父の故郷である千葉県の稲毛に帰ることが出来た。 だが、父は敗戦のショックから立ち直ることは出来なかった。働く意欲をなくし、 父にはもう、人生の再スタートを切る気力がなかった。

 幸い、稲毛は恵まれた土地柄だった。潮干狩りで有名なこの地には、毎年大勢の人が押しかけてきた。 引き揚げ後に生れた二人の弟を含めて五人の子供を育てて行くために、私の母は慣れない貝の行商を始めた。 当時はまだ古いしきたりの中にあった稲毛は排他的な雰囲気が色濃く、よそ者の母を見る目は冷ややかだった。

 だが、働き者で人一倍思いやりのある母は、次第に同業者から好意を持たれ、 やがては尊敬のまなざしで見られるようになった。しかし、毎日朝から晩まで働いても、 五人の子供を抱えた家の暮しは、一向に楽にはならなかった。

 母の苦労をよそに、私は実に腕白な子供だった。隣家の二千朗少年に悪さをしては家に逃げ帰って来た。 間髪を入れず、二千朗少年の母親が怒鳴り込んで来るのである。 すると、人のいい私の母はいつも決まって、

 「すみません。もう、させませんから」

 と、平謝りに謝るのである。私は反省するどころか、こんな母親同士の会話を聞きながら、

 「へん。子供の喧嘩に、どうして親が出てくるんだ」

 などと、息巻いたものだった。

 こんな暴れん坊の私に天罰が下ったのか、ある日突然、私は歩くことさえ出来なくなってしまった。 押し入れから飛び降りたとたん、

 「いたっ!」

 と叫んだきり、私は座り込んでしまった。踵が、火箸を刺されたように痛い。とても歩ける状態ではない。 母は私を背負い、急いで千葉市内の斎藤外科へ連れて行った。

 斎藤外科の医師は、ちょっと触れただけで火がついたように痛がる私の様子を見て、困惑していた。 私の踵は、切開されることになった。当時麻酔は非常に高価であり、また中々手に入らなかったため、 切開は麻酔なしで行われた。

 母は、泣きわめく私を懸命に押さえつけた。もがき泣き叫びながらチラッと下を見た私の目に映ったのは、 吹き出す血と、血まみれの足だった。私は、足を切断されたと思った。それほどの目に合わされたにもかかわらず、 結局、斎藤外科では原因はわからなかった。

 次に、私は千葉大学の付属病院に連れて行かれた。さすがに医科の名門、原因はすぐにわかった。 骨膜炎であった。それ以前に祖母が結核で亡くなっていたが、おそらく結核菌が足に感染したのだろうというのが、 医師の診断だった。

 それから実に一年半の間、雨の日も風の日も、母は私を背負い、付属病院へ通った。私にとっては、 「決して足を動かさないこと」が私に課せれた治療の全てであった。 私の足には、常に足の太さの倍以上もある重いギプスが巻かれていた。

 ギプスをつけてから一年程たつと、足を引きずりながらも、どうにか歩けるようになった。 そして、さらに半年後には、三輪車に乗れるまでに回復した。にもかかわらず、私は左足を直接地につけるのが恐ろしかった。 あの激しい痛みが襲ってくるのではないかと、恐くて歩けなかった。

 そんなある日、私が三輪車に左足を乗せ、その三輪車を引きずりながら歩いていると、 家で飼っていたオンドリが突然襲い掛かってきた。動物の本能で、私が手向かうことの出来ない弱点をもっていること を見抜いていたのかもしれない。

 恐怖に駆られ、無我夢中で逃げた。私はバランスを失い、三輪車もろともドブの中に落ちてしまった。 だが、とにかく私は、自分の両足で走って逃げたのだった。 ドブの汚水につかったギプスは、もう使えない。はずしてみると、足の腫れはすっかりなくなっている。

 私はようやく、完全に治ったのだということを悟った。そうしてみると、オンドリは恩人である。 その夜、恩人は私の全快祝いの鳥肉鍋になってくれた。

 当時の稲毛地区には、二つの小学校があった。第一小学校と第二小学校である。 私が住んでいる場所は、第一小学校の学区に属していた。

 小学校に入学する頃の私は、暴れん坊から泣き虫に変わっていた 。骨膜炎のために保育園にも行けず、そのまま小学校に入った私は、いつもいじめられ役であった。 私のクラスのボスは、PTAの会長をしている歯医者の息子の、健一という子だった。

 私はいつも、ヨシオという子といっしょに遊んだ。ヨシオの父親は、結核で亡くなった。 当時結核は不治の病であり、ヨシオの家がたまたま通学路に面していたので、 皆結核がうつると騒ぎ立てては大袈裟によけて通った。 おまけに、ヨシオは見るからに結核を病んでいるような、色白でひ弱な子だった。 要するに、ヨシオもいじめられっ子だったのである。

 ところが、ヨシオの背丈はぐんぐん伸び、体つきもがっしりしてきて、 四年生になった頃には、完全に周囲の子を圧倒してしまった。腕力にものを言わせて、 ヨシオは学校中を我が物顔でのし歩いた。そればかりではない。

 顔立ちが良いために女の子の憧れの的にもなったヨシオは、五年生にして既にセックスを体験し、 周囲の女の子を次々と犠牲にしていったのである。 あれほど好色で早熟な子供は、現代においても稀な存在であろう。

 学業について言えば、私の成績は抜群であった。いつもクラスで一番か二番だった。 今年も優等賞は間違いないと考えていたある年のこと、私は努力賞しかもらえなかった。 成績はまあまあという程度だが、すこぶる品行方正なハジメという子が優等賞に選ばれた。

 私は、納得出来なかった。私は泣きながら、 「おれの方が成績がいいのに、どうして優等賞をくれないんだ。先生は、ハジメをひいきしてる」 と食ってかかった。だが、結果は変えられなかった。

 稲毛第一小学校の児童は、全員小中台中学へ進学する。私の家から中学校までは約二キロ、 歩いて三十分ほどの距離である。兄や姉がそうしたように、雨の日も風の日も、雪の寒い日も、 私は田んぼの畦道を歩いて通った。

 二年への進級と同時に、私はテニスクラブに入部した。友達の木本君の誘いを受けてのことだった。 とはいえ、コーチの先生がいないという理由で、テニスクラブは廃部になっていたのである。 それだからこそ、私たちは入部したのだった。

 何をやるのも自由、何をやっても主役。練習ではなく遊びのテニスは、とにかく面白かった。 授業前の早朝と放課後ボールが見えなくなるまで、私たちはコートを独占した。 こんな具合だったので、対外試合の成績は惨憺たるものだった。

 市民大会では、一、二回戦を勝てれば上出来。コーチもなく自己流の、しかも遊びのテニスでは勝てるはずもなかった。 ところが、敗戦につぐ敗戦は、私の生来の負けず嫌いな性格に火をつけた。

 私たち二人の練習は、時間と真剣さを急激に増していった。通学には上だけ制服を着て、下は体操用の白ズボンで通い、 休み時間のベルと同時に上着を脱ぎ捨てて練習した。 あの時代、どの学校でも運動部と言えば野球部が幅を利かせていた。 その野球部に、私と同学年の林という男がいた。

 林は背が高く腕力もありマスクも良かったので、野球部のスター的存在であり、いわゆる番長でもあった。 当然女の子達の人気は抜群だったが、如何せん学力は低迷していた。その点、私は常に学年で四、五番の成績を維持しており、 おまけにテニス部で勝手気ままをしていたわけである。

 全ての生徒を掌握していた林にとっては、私は目障りな存在だったに違いない。 ある日、私は林に、稲毛地区の小さな山林へ呼び出された。林は子分に命じて私を羽交い締めにし、 古椅子に座らせ、両手を縛り上げた。

 「川島、お前もたばこを吸え」

 林は嫌がる私の顔を押さえ、私の口に火のついたたばこを無理矢理押し込んだ。

 「吸え。吸ってみろ。それで、俺達の仲間になれ」

 だが、私はついに吸わなかった。そのせいなのかどうか、私は今だにたばこを吸ったことがない。

 中学校の先生達にとっての最大の関心事は、県下随一の進学校である一高(現在の千葉高校) に何人入学出来るかということだった。私のクラス担任の加瀬先生もその点では同じだったと思うが、 早大理工学部卒の加瀬先生は野心家で、いずれ政界に打って出ようという腹があった。教え子である私たちの前でも、

 「俺は、こんな先生などでは終らない。きっと偉くなってみせる」

 などと言って憚らなかった。そして事実、私たちの卒業後、彼は県会議員になったのだった。

 私の成績なら、まず一高は大丈夫だと思われた。たとえ成績が良くても、他の生徒は滑り止めに私立高校を受験するのだが、 貧しい私の家では、私を私立校に通わせる余裕はなかった。

 「もしも一高を滑ったら、かわいそうだけど働くんだよ」

 これが、両親の意見だった。私は、是が非でも合格しなければならなかった。

 こんな家計の状況をよそに、働く気力を無くしていた父は、新興宗教にのめり込んでいった。 信仰すれば生活が良くなる。御題目を唱えれば病気が治る。母はそんな宗教に、そして父に、 とてもついていけないようであった。しかし、父はますます狂信的になっていくばかりだった。

 「子供が俺になつかないのは、お前のせいだ。お前が信者にならないから、いつも貧乏なんだ」

 毎日毎日、こうした言い争いが繰り返された。母は、何度も家を出て行こうと思っただろう。 だが、私たち子供が目にするのは、夜も明けきらぬうちから一人起き出して、貝の商いに精を出す母の姿であった。

 私はこんな母の背中を見ながら、そして父を憎みながら育った。私には、 強烈な貧乏コンプレックスがあったようだ。しかし、私は決して不良になることは出来なかった。 母を裏切ることは出来なかった。

 一高受験の結果は、合格であった。私はこの喜びをまず一番に加瀬先生に伝えたいと思い、中学校へ飛んだ。

 私が学校に着いた時、先生はちょうど授業のない時間帯であり、宿直室にいるとのことだった。 踵を返して宿直室に走り戸を開けると、同じく授業のない三人の先生とマージャン卓を囲んでいた。

 「おう、正仁か。うかったのか。そりゃあ、よかったなあ。まあ、上がれや。これは、 マージャンというゲームだ。おもしろいぞ」

 悪びれることなく、加瀬先生は快活に笑った。

 こうして、私はマージャンを覚えることになった。覚えると早速、友人の山本、山中、山田等を誘った。 驚いたことに、山本は既にマージャンを知っていた。母親が東大の学生寮の寮母をしている関係で、 東大生から教わったとのことだった。

 私たちは小遣いを出し合って、質屋から中古のマージャンパイを買い、賭けマージャンを始めた。 幼い頃から何事につけても勘の良かった私は、マージャンの腕を上げるのも人一倍早かった。 賭けのレートも、千点一円、二円と次第にエスカレートしていった。 小遣いに不自由していた私にとって、マージャンはプレイを楽しむ事以上に、金銭を得る手だてとして魅力があった。

 私に小遣いをくれるのは、いつも山中兄弟だった。山中の家は祖父も父も東大卒というエリート一家だったが、 彼等兄弟は勉強に対して異常な反発心を持っていた。長男の修も次男の武も、今言うところの登校拒否によって 授業日数が足りなくなり退学させられ、母親が懸命に別の学校を捜していた。

 賭けマージャンはますますエスカレートし、徹夜もしばしばとなった。 セミプロと言えるような連中とやっても負けない程度に上達した私は、小遣いに不自由しなくなった。

 私が高校のテニスクラブに入ったのは、一学年の夏休み前のことだった。 マージャンに熱中してしばらく遠のいていたが、やはりテニスは私にとって最も魅力あるスポーツだった。

 十数年前までは、ほとんど全てのスポーツにおいて勇名を馳せていたという千葉高 (私が入学した年から、一高は千葉高と改称された)も、今ではすっかり進学予備校と化して、 一にも東大二にも東大、とにかく東大受験に何人合格したかで学校の評価が決まるという有様だった。

 従って、スポーツクラブに入るのは、いわゆる落ちこぼれの連中が多かったのである。 それでも、テニスは面白かった。先輩達も、よく指導に来てくれた。 特に法政大の伊藤先輩と青山学院大の阿部先輩は、毎日のように来てくれた。

 阿部先輩は二部の現役選手で、ボレーさばきが実にうまかった。 私と同学年には、中学時代に市大会で活躍した留守及び武藤という選手がいた。 遅れて入部した私は、最初はあまり目立つ存在ではなかったが、夏の合宿が終る頃には急激に腕を上げていた。

 特に私は練習よりも試合に強かった。逆に、留守は試合になると実力を発揮出来ないタイプだった。 このため、すでに出来上がっていた留守・武藤組というダブルスのペアから留守をはずして、 私を武藤と組ませようという案が出た。留守には気の毒だったが、このペアリングは成功した。

 私と武藤のペアは、めきめきと腕を上げた。当然のことながら、それに連れて、私たちの気持ちも高揚していった。 私と武藤は、毎朝授業前に打ち合った。雪が降れば、授業前に二人で汗だくになって雪かきを終わらせておき、 終業と同時に練習した。

 努力の甲斐あって、二年生になった時には、市内にはもう敵がいなかった。 だが、県内では安房、長生そしてに強豪がひしめいていた。私たちはさらに練習に精を出し、 夏の合宿では、安部先輩の組と試合しても三回に一回は勝てる程になった。

 こうなると噂が広まり、昔の先輩達もぞくぞくと顔を出すようになった。 それがまた、私たちの腕に磨きをかけることにつながった。 ところが、夏休みの合宿が終ってしばらくすると、私の身に大事件が起こった。

 一年生の時から上級生を手玉にとっていた私は、二年生になると当然のことのように番長になり、 ワル達の頭になった。一年生の時に空手道場へ通っていたことのある私は、落ちこぼれ連中を集めて空手同好会を結成し、 勝手に練習など始めた。

 ある日のこと、帯がないので、たまたま柔道部の部室から拝借して使っていると、 それを聞きつけて柔道部の主将がやってきた。彼は二年間千葉工業高校に通学していたが、 進路を大学進学に切り替え、千葉高に再入学してきたために、三年生と言っても私より三歳上であった。 おまけに、彼は県の相撲大会や柔道大会で優勝している猛者でもあった。

 体操器具をおいてある倉庫で、喧嘩が始まった。子分どもの面前ということもあり、

 「何だ、帯なんか返せばいいんじゃないか」

 私はこの校内一の猛者を相手に、精一杯虚勢を張った。彼は逆上した。そして、取っ組み合いになった。

 場所がいけなかった。床が、コンクリートだったのである。 我を忘れた彼は、私の頭を何度もコンクリートの床に打ちつけた。 初めのうちはそれでもなお悪態をついていたが、ついに私はグッタリしてしまった。

 「ここは、どこだ」

 なぜか、すがすがしい気分だった。母の心配げな顔が、目の前にある。

 「母さん、俺はどうしてここにいるの?」

 そこは、千葉高の校医である斎藤医院の一室だった。私は、丸三日間、昏睡状態にあったのだった。

 下級生が上級生に手を出したとはいえ、重傷を負い一時は命まで危ぶまれたことの故であろうか、 喧嘩両成敗ということになり、私も主将も一ヶ月の自宅謹慎処分受けた。 しかも、私の場合は療養期間を考慮してくれた上での処分であるように思われた。

  斎藤医院から帰宅して二日目のこと。

 「母さん、気持ちが悪い。頭が痛いよ」

 私は、母に訴えた。母は、私をすぐに社会保険病院へ連れて行った。そこで、検査のために背骨から液を抜かれた。

 「脳内出血です」

それが、医師の診断だった。即刻入院、私は絶対安静の身となった。

 一ヶ月ぶりに登校してみると、学校の様子は大分変わっていた。 ワル達は、もう私に干渉しなくなっていた。おかげで、私は以前のようにテニスに戻ることができた。

 それにしても、私は喧嘩の原因をどうしても思い出すことが出来なかった。 その前後の記憶がないのである。私の取り巻きであったワル達に聞いても、はっきりした答えが返ってこない。 私がやられるのを黙って見ていたわけだから、言いにくかったのだろう。

 そこで、私は保健室のおばさんに訊ねてみた。

 「俺、何かうわごとでも言わなかった?」

 「今だから言うけどね、あんた、うわごとで『ケイコちゃん、ケイコちゃん』て繰り返してたんだよ」

 「ケイコちゃん」とは、一年下の高井ケイコ嬢のことである。千葉高の場合、女生徒の数が少ない。 だから、全てのクラブが希少な乙女を入部させようと必死になる。 テニスクラブの場合は、その年豊作であった。六人もの女生徒が入った。

 だが、如何せん同性の先輩がいないため、どうしても面倒見が悪くなる。 それでなくとも、進学の準備のために退部するものが多いのである。 折角獲得した女性部員、私はけなげに努力した。皆、初めてラケットを手にする子ばかりだった。

 やる気をなくさせないように、私は目一杯コートを走り回り、出来るだけ打ちやすいやさしいボールを返してやった。 努力の甲斐あって、夏の合宿が終る頃には、市大会へ出場できるほどの部員も出てきた。 その中の一人が、ケイコちゃんだった。

 しかし、私は決して、彼女だけを特別扱いすることはなかった。 いや、出来なかったのである。私の性格からして、恋と練習は別物だった。

 「川島さん、私、今日は練習出来ないんですが?」

 「どうしてだ? たるんでるぞ」

 ケイコちゃんは、泣きながら帰って行った。パートナーの武藤に話して、ようやく理由がわかった。

 「お前、馬鹿だなあ。あいつは、生理でできないんだぞ」

 実際、私はそういうことに関して全く無知であった。

 秋の県の新人大会で、川島・武藤組は順調に勝ち進み、準決勝までいった。 決勝には進めなかったものの、三位に入賞した。千葉高にとっては、十数年ぶりの快挙ということだった。

 伊藤、阿倍の両先輩も、自分のこと以上に喜んでくれた。 三学年に進級しても、私達は相変わらず練習に励んでいた。

 「馬鹿な奴等だなあ。あんなにテニスばかりしていて、進学しないつもりか」

 などという同期生の陰口は、十分承知していた。だが、私たちの目標は、目前にあった。 それは、春の県大会である。これに勝って十六位以内なら関東大会、八位以内なら全国大会、 そして三位以内に入れば国体に出られる。

 新人戦で三位入賞したにも関わらず、川島・武藤組はノーシードだった。 曰く、千葉高だからあれはまぐれにちがいない。というのがその理由なのだった。

 だが、この見方は間違っていた。私達は勝ち進み、十六位以内をかけて安房の強豪古和瀬・白井組を、 準々決勝で長生の輪白・島抜組を破った。だが、準決勝で優勝候補の匝瑳の渡辺・若梅組と対戦し、 接戦の末惜しくも破れてしまった。

 結果は、その渡辺・若梅組が優勝した。優勝こそ出来なかったが、私も武藤も、この結果に満足した。 それまでの二人の努力は、十分報われたと思った。

 そして、夏の国体選手選考会。選考は、全国大会出場の八チームと推薦の二チームの計十チームの 総当たりで行われた。私達は、七勝二敗のジャスト三位の成績で国体選手に選ばれてしまったのである。 ほんとうに、選ばれてしまったというのが実感だった。

 スポーツの試合における伝統の重みは、大きな力だ。私たち二人には、失われてしまっていた この伝統の力を再び取り戻したのだという深い感慨があった。

 それにしても、今にして思えば、パートナーの武藤はよくぞ私のような男に付き合ってくれたものだ。 武藤はテニス好きの父親の影響でテニスを始めたのだったが、武藤の父は大きな試合には必ず応援に来ていた。

 「おい、武藤、何をしている。もっと早く動け。ほら、そっちだ」

 その父親の目の前で、こんな風に私はよくわめいたものだ。

 「かわいそうに、あの前衛はあんなにうまいのに、あんなに文句言われて」

 そんな囁きも、私のマナーの悪さについての評判も知ってはいたが、私は気にしなかった。 いや、ことさら気にすまいとしていたのかもしれない。

 県下随一の進学校でもある千葉高で、三学年の二学期になってまで部活に熱中しているのは、 私と武藤くらいのものだった。先生方はもちろんのこと、同級生の目にも、私たちはさぞかし奇異に映ったことだろう。

 武藤の父親は、社会保険病院の内科医長だった。さしあたって勉強はお留守になっていたものの、 彼の場合、将来についての迷いはなかったと思う。事実、後に武藤は父親と同じ内科医になった。

 私は、進学に悩んでいた。テニスクラブの先輩で、テニスの腕をかわれて早稲田大学へ入った人がいる。

「貴方のことは聞いています。もし、うちの部に来てくれるなら、力になりましょう」

 私にも、そんな誘いがかかった。だが、私の家の経済状態では、とても私立大学へは通えない。 そんな折り、私は千葉県庁移住課の中西弥太郎氏に会った。

 同期生の横山、望月、木島、後藤などのブラジル移住研究会の連中に誘われてのことだった。 中西氏はかつてメキシコで三十年間暮し、かなりの成功を収めたのだが、日本に里帰りしている間に戦争が勃発して しまったのだった。そのため、そのまま日本に残らざるを得なくなったのである。

 その豊富な経験を生かして、日本人の海外移住のために働いている立派な人物だった。

 「これが、ブラジルです。国土は日本の実に二十三倍もあります。日系人が八十万人もいて、 大いに活躍しています。日本の青年は、もっともっと海外に目を向けなければなりません」

 「そうだ、ブラジルへ行こう。億万長者になって、皆を見返してやろう」

私の進路は、決まった。

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 ・ 7. 弟の来亜
 ・ 8. 花の都
 ・ 9. 五年ぶりの帰国
 ・ 10. アメリカ
 ・ 11. メキシコ
 ・ 12. 再びアルゼンチンへ
 ・ 13. 私の大使館勤務体験
 ・ 14. 在メキシコ日本大使館に勤務
 ・ 15. ミチルとの新しい生活