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川島 正仁ホームページ 南米体験歌第5部 弟の来亜、募る思い

 -目次-

 ・ 51. 小学校卒業証明書を目指して

 ・ 52. 1番大変なのは国語(スペイン語)

 ・ 53. 優秀なアマンダ サンチェス婦人の事情

 ・ 54. 迷子と銃口 雨の中の恐怖

 ・ 55. 卒業試験当日と結果発表

 ・ 56. ホルへとストレス

 ・ 57. アイスクリーム屋を助け 命がけの喧嘩

 ・ 58. まず自分を大切に

 ・ 59. 22歳の冬 ついに初体験!?

 ・ 60. 胃がんの大手術を乗り越えた海老さんとの話

 ・ 61. 進学・就職 弟への手紙

 ・ 62. スペイン語のさらなる上達を目指し、今度は中学校へ

 ・ 63. かわいい女の子から得た教訓

 ・ 64. マルッカ先生宅に招待されて

 ・ 65. 頭の中はスペイン語でいっぱい

 ・ 66. アルゼンチンの大富豪 ファン ヒヨ

 ・ 67. 沖縄出身の金城(カナグスク)青年

 ・ 68. ホセとノルマと、自分の土地を見学に

 ・ 69. 海老さんとの世間話

 ・ 70. 夏が終わり、また学校へ

 ・ 71. 海老さんの死

 ・ 72. お葬式が終わり、再び日常へ

 ・ 73. 弟の来亜が決まり、気力充実

 ・ 74. 強まる責任感、でもどうにかなるさ

 ・ 75. トイレでびっくり、突然の手術

 ・ 76. 海老婦人の献身的な看病に、涙

 ・ 77. ようやく全快!ヒッチハイクで学校へ

 ・ 78. 2週間ぶりの学校。皆の反応は?

 ・ 79. 移民の国ならではの複雑な家族事情

 ・ 80. 弟の博志からの手紙

 ・ 81. 弟を迎えに、深夜バスでブエノス港へ

 ・ 82. 弟と4年ぶりの再会

 ・ 83. 弟を連れて市内観光へ

 ・ 84. アサードとワインで歓迎

 ・ 85. 弟から聞いて知った日本の事情

 ・ 86. 深夜バスを降りて、海老農園へ

 ・ 87. 海老ファミリーと弟の対面

 ・ 88. 翌日の朝は・・・

 ・ 89. 船旅話

 ・ 90. 弟と私の意識の違い

 ・ 91. ビーチでの柔道が、思わぬチャンスに

 ・ 92. 今の立場に疑問を抱く

 ・ 93. 新しい商売を探しにブエノスへ

 ・ 94. 好待遇の電気技師

 ・ 95. アルゼンチン美人、パオーラさん

 ・ 96. 島津さんに相談をして

 ・ 97. 再び4人で会話は弾む

 ・ 98. テレビへの出演依頼

 ・ 99. いよいよ試合開始

 ・ 100. ナイフを持った空手家 対 柔道家

 ・ 101. 今度はテレビでのど自慢!?

 ・ 102. のど自慢審査の意外なからくり

 ・ 103. とうとう海老夫人に告白

 ・ 104. 意を決して再びブエノスへ

 ・ 105. 島津商会に就職

 ・ 106. アパート探し

 ・ 107. 海老ファミリーとの最後の別れ

 ・ 108. 引越し完了

 ・ 109. 島津商会へ初出勤

 ・ 110. 営業での厳しい試練

 ・ 111. 日増しに大きくなる不満

 ・ 112. 決断

 ・ 113. エセイサ国際空港へ

 51. 小学校卒業証明書を目指して

  私をヒッチハイクさせてくれた人のいいおじさんは、「ムチャーチョ ジャ ジェガモス(おい、若者よ。もう着いたよ。)」と言って、町のセントロに降ろしてくれた。ここから学校までは、歩いてほんの10分足らずだ。2階のクラスに駆け上がり、「ブエナス タルデス(こんにちは)」と勢いよくあいさつすると、「ブエナス タルデス、マリオ(こんにちは、マリオ)」と皆が迎えてくれた。

  仲間は既に私のことをマリオと呼んでくれている。愛称をマリオと名づけたのは、元々はホセである。彼が言うには、ここではマサヒトよりもマリオの方がはるかに簡単で呼びやすいという。私もこのセカンドネームが気に入って、最近では近くでマリオという声が聞こえると、すぐそちらを振り返ってしまう。アルゼンチンでは、マリオというネームは非常にポピュラーで、どこに行ってもマリオはたくさんいるのである。

  このアダルトスクールの先生はセニョーラ ロッサ(ローズ夫人)で、年は40代の半ばだろうか。非常に落ち着いた品のいい人だった。私のクラスは、10代の後半から60歳を少し過ぎた人まで、およそ25人くらいの生徒で成り立っていた。それぞれ幼少時代に家が貧しくて小学校に通うことができず、今になって新しい仕事に就職したり、また進学するために卒業証明書がどうしても必要だということで、学校に来ているのだった。

  政府はそういう人たちを援助する目的で、授業料はもちろん無料とし、しかも3ヶ月ごとにある試験にパスすれば卒業ということになっていた。しかし、科目は算数、国語、社会、歴史、地理、そして英語とかなり大変で、これらを全てクリアーしなければならない。したがって、いくら程度は低いといっても、今まで勉強したことがない人にとっては、そんな短期間で全ての試験にパスすることは簡単ではなかった。

  私の場合は、算数はおそらく先生よりも優秀だっただろう。もう最初の授業が始まった時から、先生は私にはかなわないと見て、「ツ マテマティカ エス ムーチョ メホール(あなたの算数は私よりずっと優秀ね)」と言った。これで、少なくとも算数はOK。また英語も、私の場合は高校では本当に苦労したが、それでもこの人たちのレベルから見れば、ずっとましだった。そういったわけで、算数と英語はクラスが始まった時から、既に合格だ。残りは国語、社会、歴史、地理である。この4つの科目に集中すれば良かったわけで、少なくとも他の生徒よりは有利だっただろう。しかし、一番大事な国語、すなわちスペイン語だけは大変な苦労・努力が必要であった。

  こうして私は、月曜日から金曜日まで毎日、雨の日も風の日も、一日も欠かさず頑張った。

学校は 英語、算数 オーケーだ

頑張るぞ 早く卒業 次へいく

雨の日も 風の日もまた 頑張るぞ

 
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 52. 1番大変なのは国語(スペイン語)

  たしかに、私にとってスペイン語の授業は大変だったが、一方では一番やりがいのある授業であった。

  特にびっくりしたのは、グラマティカ(文法)である。その中でも動詞の活用だ。一人称、二人称、そして三人称、さらに単数・複数と変化し、これらを全て規則正しく頭の中に叩き込まなければならないのだから、それはそれは大変な作業である。きちんと正しくしゃべろうと思えば思うほど、文法のことがこんがらがってしまう。この間にはっきりした言葉が出ず、相手から「ケ パソッ(どうしたの?)」と言われてしまう。そのうち焦ってしまって、口をパクパクさせてしまうのである。だから、私にとってこの授業は一番大切であり、また難関だった。

  毎日毎日、この動詞の活用を口ずさんでいた。さらに、言葉には男性形・女性形があり、これにははっきりとした基準がなく、そのものずばりを覚えなければならないのである。したがって、とにかく話すこと、何度も話すことが必要だった。しかし、毎日頑張っているおかげで、どんどん上達するのが自分でもわかるようになると、学校に行くのが楽しみになってきた。

  どしゃ降りの日は大変だった。国道に達するまでの道は土道だから、雨が降るとどろどろになってしまい、しかも粘土を含んでいるので厄介である。アルゼンチンの長靴は硬くて重いので、一度ぬかるみに突っ込んでしまうと、泥が長靴にくっついてきて、なかなか引っ張り上げることが出来ない。しかし、学校の時間は迫ってくる。バルカルセから来る遠距離バスも、私のために待っていてはくれない。急ごうとすればするほど、泥はへばりついてきて、歩行はさらに困難になる。このような1キロの道のりは、まさに地獄である。

  やっとのことで国道21号線に到着した。既にバスの定刻は過ぎていた。あと1時間待たないと、別便は来ない。そこで、例のヒッチハイクとなる。たしかに、このバルカルセとマルデルプラタ間の国道21号線の交通量はかなりあるが、こんな雨の日は特別で、誰も止まってくれない。こんな雨の日でも100キロ以上のスピードで走っているのだから、へたに急ブレーキを踏んで事故でも起こしたら大変なのである。しかし、私は1時間もの無駄な時間を過ごすわけにはいかない。そこで、無理とは思いながらも、パラグアス(傘)を広げたまま、遠方から来る車に向って、それをぐるぐる回した。しかも、国道に乗り出して。

  この大変な賭けは、成功した。私はこうして運良くヒッチハイクをして、セントロに降ろしてもらった。この時も私を拾ってくれた親切なおじさんはこう言った。「エレス ハポネス ア シィ ポルエソ テ トライゴ(君は日本人だろ?だから拾ってあげたんだよ)」。私は車に便乗させてくれた現地人、そして日本の先輩たちに感謝しつつ、学校に無事たどり着くことが出来た。

雨が降る 泥がくっつく 通り道

ヒッチハイク 日本人なら オーケーさ

雨が降る 足を交互に 引っ張って

 
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 53. 優秀なアマンダ サンチェス婦人の事情

  早足で2階のクラスに駆け込んだ。「ブエナス タルデス コモ エスタン(こんにちは。みなさん元気ですか?)」。すると、「オーラ マリオ ジェガステ ビエン(やあ、マリオ。よく着いたね)」と返事が返ってくる。もうこのクラスでは、私の名前はマリオに定着した。

  私が座っている一番前の机の隣には、アマンダ サンチェスという、おそらく50歳に近いセニョーラが座っていた。とても上品な、理知的な夫人だった。授業を重ねるにしたがって、彼女は色々な自分の身の上を聞かせてくれた。話によると、14歳の時、親同士が決めた18歳になったばかりの青年と結婚したのだ。当時は、14歳でも決して早すぎることはなかった。それで、16歳になった時には、既に長女をもうけたそうである。それから5人の子供を育ててきたわけだから、とても学校に通う時間はなかった。その5人の子供達も大きくなり、孫も6人になり、やっと自分の時間ができて、こうしてアダルトスクールに通うことを決意したという。

  このクラスには、他にバスのドライバーや警察官もいたが、政権が変わって、これらの職業に携るには少なくとも義務教育小学校6学年の卒業証書が必要になってきたのである。だから、彼らにとっては仕事にかかわる重大事であり、一生懸命勉強しなければならないのだが、今まであまりにものんびり生活してきたためか、思うように成績は伸びなかった。このクラスでは、断然セニョーラ サンチェスがずば抜けており、次に私が続いていた。

  毎日、最後の授業で簡単な試験があり、この結果を見て、私達の成績の流れがわかるのだった。あと2ヵ月後、すなわち3ヶ月のアダルトスクールの最後に昇級試験があり、それに合格すると、小学校卒業免状が取得できるのだった。私もそれを知って、さらに真剣に勉強に取り組んだ。しかし私にとっては相変わらず、国語の授業、すなわち文法は大変厳しいものがあった。

  毎日毎日、基本文型の繰り返しである。「アーモ、アーマス、アーマ、アマモス、アマイス、アーマン、そしてエル動詞コーモ、コーメス、コーメ、コメモス、コメイス、コーメン」。このように動詞の変格を頭の中にたたきこむのだ。このことは、私にとって大変な作業だったが、いったんある程度基本形を覚えてしまうと、あとは意外と簡単にいくものである。しかも私にとって大変ありがたかったことは、スペイン語の発音だった。非常に日本語の発音と似ているので、そのまま耳に飛び込んでくるのである。このことは、本当に助かった。

  したがって、クラスも2ヶ月を過ぎると、先生の話す言葉がかなりはっきりとわかるようになった。それに、アマンダ夫人が私のことを非常に気に入ってくれて、わからない文章、言葉を丁寧に教えてくれた。夫人にとっては、自分の子供とたいして変わらないのだから、しかも地球の反対側の日本という未知の謎の国から来た若者が、自分達と一緒にスペイン語を勉強しているのだから、それはそれは興味深かったのだろう。

川島君 どこから来たの ブエノスに

勉強は 毎日こつと やるだけさ

ウノドスト レス日本では 123

 
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 54. 迷子と銃口 雨の中の恐怖

  こうしてあと1ヶ月で卒業試験が始まるという時、その日は午後からどしゃぶりだった。ロベルトは「マリオ、こんなに雨が降ったんじゃあ、危険だからやめたほうがいいよ」と止めたが、私は試験をどうしてもパスしたかったので、「ロベルト、なんとか行ってみます」と答えた。

  いつものように手を洗い、爪の先の泥を落として、この日はいつもよりいくらか早く出かけた。行きの道は、まだ降り始めたばかりなので、なんとか国道21号までは、無事にたどり着いた。しばらく待っていると、隣町のバルカルセからの高速バスが前方からやってきた。

  けっこう雨は降っていたが、そこはベテランの運転手。慣れたもので、かなり前方からゆっくりブレーキを踏んで、ちょうど私が立っているところに停まった。すると、運転手が「マリオ、こんな雨が降っているのに、よく学校に行くね。頑張っているんだね」と、話しかけてきた。もうすっかり私のことを覚えてくれたのである。

  こうしてこの日も学校に行き、一生懸命勉強した。算数は私にとっては全くお手の物、目をつぶっていてもわかる。数字の言葉さえ、覚えればいいのだから。英語も同様、日本の中学校程度のものである。歴史は元々好きだったので、アルゼンチンの独立を勝ち取った英雄サンマルティンやアメリカ大陸を発見したコロンブスなどの歴史を興味深く学ぶ。なんといっても私にとって最大の科目は、国語である。その中でも一番大変なグラマティカ(文法)の動詞の変格を覚えることが最大の課題である。でも、毎日一生懸命その活用を口ずさみ、頭の中に記憶してきたおかげで、この頃になるとアマンダ夫人は別格としても、私のレベルはその次くらいになった。こうして今日の授業が全て終了し、帰宅する。

  雨はますます強くなっていた。空は真っ暗だ。幸いにも、バスは運行していた。私はバルカルセ方面行き最終便に乗り、いつも通り国道21号線のラグナベルデ(緑の泉)のバス停に降りた。雨の降りしきる中、空を見上げると真っ暗で何一つ見えない。道もどこにあるか、見当もつかない。私は恐怖に襲われた。こんな状態で、もし道を間違えたら大変だ。出口のない迷路に迷い込むのと同じである。前方の道かそれとも後方の道か、迷った。おそらく後方の道だろう。とにかく、道と道との間が500メートルも離れているのだから、一度間違ったら大変なのである。あっちへ行ったり、こっちへ来たり、それこそどうしていいかわからなくなってしまう。

  すると、後方の道に入ってすぐ左側に、最初のコローノ(移住者)の家の灯りが見えた。私はとっさに、その入り口の柵に近づき、大声で叫んだ。「ソイ ハポネス エストイ ブスカンド カッサデ セニョール エビ(私は日本人です。海老さんの家を探しています。)」。このように何度も何度も大声で叫んだ。するとどうだろう、家の中から「キエネス ケ キエレス(だれだ!なんだ?)」と声がして、顔ははっきりとはわからなかったが、年配の人が出てきて、その手にエスコペタ(散弾銃)を持っていた。「キエロ イール アラカッサ デ エビ ポルファボール エンセニェメ(海老さんの家に行きたいのです。どうか、教えてください)」。すると、「アシ エンティエンド ラ カッサ デ エビ エスタ アジー デレッチョ(わかった。海老さんの家は、ここを真っすぐ行った所だ)」と左手で指差してくれた。私は、こうして無事に家へたどりつくことができたのである。

  ここでは、自衛のために、皆銃を持っている。いつ泥棒や強盗のような輩が襲ってくるかわからないのである。その時のために、いつでも対応ができるようにしているのだ。だから、この時もし彼に発砲されても、私は文句を言えなかった。しかし、この時は恐ろしいほどの暗闇に襲われ、全くどこにいるのか見当がつかず、足はぬかるみにもまれ歩行するのがやっとで、それでやむをえず大声で訪ねるしか方法がなかったのである。

暗闇に 雨が降りぬく 恐怖かな

大声で 叫んだあげく たどり着く

勉強も 大事命も 大切だ

 
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 55. 卒業試験当日と結果発表

  色々あったが、瞬く間に3ヶ月が過ぎた。今日は、試験の日だ。

  今まで習った復習だ。算数と英語、この科目は私にとっては、全く問題がなかった。歴史も思っていた通り、サンマルティン将軍についての問題が出た。これも、クリア。地理も、問題なし。残るは国語、特に文法だ。確かに複雑なのだが、一度その規則をマスターしてしまうと、意外と頭の中に入るものだ。毎日、こつこつ繰り返し覚えたのが良かったのだろう、思ったよりできた。あとは、結果を待つばかりだ。

  こうして、今日のクラスは終了した。先生は、「今日は、これで終わりです。来週、この試験の結果を発表します。さて、何人合格するでしょう。楽しみですね」と言ったが、ちっとも楽しみなものか。結果がわかるまで、こちらは心配していなければならない。私はともかくとしても、警察官や消防署員の人達は、生活がかかっているから、なお大変だ。私が隣に座っているアマンダ夫人に、「あなたには、この問題は何でもなかったでしょう?」と聞いたら、「まあまあね。何とかできたわ」と自信ありげな答えが返ってきた。

  一週間が経ち、ついに試験の結果が発表された。「今日は大事な試験の結果を発表する日です。それでは、発表します。合格したのはアマンダさん、そしてマリオです。残念ながら、今回はこの二人だけです。後の方は、もっと頑張ってください」。私は、心の中で「やったー!」と思ったが、声には出せなかった。周りの皆のことを考えたら、とても自分だけ喜んではいられない。すると、「マリオ、フェリシダーデス、グラン トラバーホ(マリオ、おめでとう。良く頑張ったね。)」。全ての仲間から、祝福された。抱き合い、肩をポンポンたたかれた。このように、私とアマンダ夫人は、合格できなかった皆から祝福されたのだった。

  最後に先生から、「これが卒業証明書です」とA4版の紙を渡された。こうして私は、無事小学校を卒業したのだった。

毎日の 努力の結果 卒業証

雨降って 雪が降っても 通います

 
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 56. ホルへとストレス

  話を海老農園に戻そう。私は相変わらずメデイアネロとしての立場で仕事をしていたが、海老家ではそうはいかなかった。花栽培だけならば2−3町歩もあれば充分であったので、残りの土地を他の青年に貸すことになったのである。

  ホルヘと言う土地の青年であった。彼は残りの6町歩の土地を、グラジオラス栽培にあてた。グラジオラスの場合は温室は全く要らず、全て露地栽培でよかった。従って、経費もその球根代だけでよかった。この花の場合は、その出荷時期によっては莫大な利益を上げることもあり、ばくちであった。彼は全くラテンの陽気な若者であったが、言葉の通じない私にとっては不可解な、とても口のうまい人物にしか映らなかった。彼はそういう点を見極める事もうまく、私をからかいの対象にした。彼にとっては軽い冗談のつもりでも、言葉の半分も理解できない私にとってはそうはいかない。どうしてもまともにとってしまい、そのストレスは日増しに大きくなっていった。

  花の栽培も順調にいっている。彼にとっても、私からカーネーション栽培を引き継ぐ事は、そんなに難しい事ではない。そうしたら、私は不必要な人間になってしまう。だんだん私はそのように物事を難しく、悲観的にとらえてしまった。しかしホルヘにとっては、そんな事は全く関係ない。毎日顔を合わせると、すぐに冗談が飛んでくる。彼にとっては、私が真面目に夢中になって半分しか分からないスペイン語で答えるのが、面白くてたまらないのだった。しかし私は、この微妙な点がどうしても分からず、ストレスは益々大きくなるばかりであった。そしてついに、この悩みを海老夫人に打ち明けたのだった。

  「セニョーラ、ホルヘは何を考えているのですか?私を追い詰めて仕事を取ろうとしているのですか?毎日毎日、私をいじめては喜んでいます。私は一体どうしたらいいのですか?」

  すると、「マリオ、それは貴方が悪いのよ。そんなホルヘのいう事はほっとけばいいのよ。無視したらいいのよ。貴方がむきになるから、よけいおもしろくなってかかってくるのよ。貴方が考えるほど、悪い人ではないのよ。ほおっておきなさい、そうすれば向こうも忘れるから」という返事が返ってきた。

  私が悪い?なんてことを言うのだ。私は益々分からなくなってしまった。頼りにしていた夫人からこのような返事がくるとは、思ってもみなかった。私はもう、自分がどうなってもいいと思うようになってしまった。もうこのまま死んでしまえれば一番樂だとさえ考えたが、それもしゃくだし、このまま自分が死んでも誰も悲しんではくれない。そうなったら一番悲しむのは、日本にいる母だ。母さんだけは悲しませてはならない、そういって自分を戒めたのであった。その晩はいろいろな事が頭の中をぐるぐる回って、なかなか寝つかれなかったが、やがて何も分からなくなってしまった。

冗談も   何を言うのか  分からない

苦しめば  思い出すのは  母の顔

気にするな  そうは言っても  気にするぞ

 
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 57. アイスクリーム屋を助け 命がけの喧嘩

  この年の気候は、特に異常であった。6月に入ると、いつもは秋めいて涼しくなってくるのだが、今年は違った。この地方を熱波が襲い、非常に暑い日が何日も続いた。すると、今までつぼみ状態だった花が一気に開花し、市場は花でいっぱいになった。こうなると、マルデルプラタの市場はとても小さいので、花の値段は一気に下落し、出荷するために必要な包装紙代やゴム代などの経費さえカバーすることが出来なくなる。

  そこで私が考えついた事は、この切ったばかりの花を国道21号線まで持っていき、ラグナ べルデ(緑の泉)に遊びにくるお客に直接売ることであった。まず、大きなバケツに水を注ぎ、そこに一ダースずつにまとめた切花をひたして、この数個のバケツをロベルトのトラクターに積み上げ、水がこぼれないように押さえながら国道まで運んだ。そして道の角に「ウナ ドセーナ デ クラベル、ドスシエントス ペソス(カーネーション1ダース 200ペソ)」という看板を立てた。この看板が横に倒れないように、杭と一緒に打ちつけた。

  こうして前方から来るドライバーが、簡単に見えるようにしたのだった。さっそくこの標識に気がついたのか、ブレーキを踏んで車を止め、「ベンダメ ウナ ドセーナ(1ダースくれよ)」と最初のお客が来た。お客が来始めると、どんどんその数は増えていった。10ダース入りのバケツはすぐに終わり、次のバケツにうつった時、私達より50メートルくらい前方にアイスクリームを売っている人がいることに気付いた。

  すると、そのアイスクリーム屋の前に1台のジープと2台のオートバイが急停車した。驚いた事に、降りてきた4人の若者の1人が、アイスクリーム屋の胸ぐらをつかんでパンチをいれた。急なパンチを食らって、アイスクリーム屋は後ろに飛ばされた。

  この光景を目の当たりにした私は、すぐに杭を打った時のシャベルをつかみ、一目散に彼等の前に飛んで行った。「ケ アセン ウステーデス(何するんだ 君達は)」こう叫びながら持っていたパラ(シャベル)を振りあげた。私の心の中には、こうしてシャベルで威嚇すれば彼らは容易に退くだろうという安易な考えがあった。だが、この期待はすぐに打ち砕かれた。この脅しが利かないと感じた私は、シャベルを後方に投げ捨てた。そして高校時代に町道場で習った空手の身構えをした。すると、仲間の1人がするするっと後方に回り、たった今投げ捨てたシャベルをつかんで後方から打ちかかってきた。背中のシャツがバシッと裂けた。

  彼らとの小競り合いは、しばらく続いた。するとジープに乗っていたムチャーチャ(若い女の子)が「マタロ エッセ ハポネス(殺しちゃえ その日本人)」と叫んだ。この声を聞いた若者たちは勢いづいた。しかし、私もただ殴られているだけではなかった。覚えた空手で応戦した。この時、後方からロベルトたちの声が聞こえた。「マリオ エスタス ビエン(マリオ 大丈夫か)」 この応援部隊を見た相手は花の入ったバケツを足蹴りし、すぐさまそれぞれの車に飛び乗った。私はそれを見て、運転席に乗った若者に「ポルケ イシステ エスト エスタス フローレス(どうしてくれるんだ 花をこんなにしちゃって)」と叫んだ。するとその若者がグローブボックスからピストルを取り出して、銃口を私のほうに突きつけ、「カジャテ ラ ボカ シノ テ マート(黙れ さもないと 殺すぞ)」とどなった。

  それを聞いて、私は黙ってしまった。彼らは去って行った。もうあのアイスクリーム屋は逃げてしまっていなかった。ロベルトは言った「マリオ 命は大事にしないといけないよ。もしこれで殺されたらどうするんだ。あんな奴のために死ぬなんてつまらないよ。」 私はこの時、確かにこのロベルトの言うとおりだと思った。

正義感 つかう所を 考えろ

暑い日が 続けば花は どっと咲く

失敗を 重ねて磨く 人間性

 
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 58. まず自分を大切に

  私達は何とか、無事に海老農園に戻ることができた。私のシャツは、後ろが破れて背中から血が流れていた。「マリオ、無理をしてはだめよ。あなたがいくら正義感が強くても、相手を見なければ。ロベルトの言うことは、正しいわ」。そう言いながら、海老夫人は私の背中の傷口を消毒してくれた。せっかく1ダースずつに作った花も、わずか12ダースしか売れず、残りはあのチンピラがばらまいてしまったおかげで、もう売り物にはならなかった。

  噂は速い。翌日、早速ホルヘが私に言った。「マリオ、昨日けんかしたんだって?それで大怪我をしたんだって?ばかだなあ。そんなことはほっとけばいいんだ」。そうは言ったが、何か今までとは様子が違っていた。その言葉の中に、お前もなかなかやるではないかというような、温かい気持ちが伝わってきた。こうして、数週間が過ぎていった。あの異常な熱帯日も過ぎ、ようやく秋めいてきた。

  あの事件からちょうど1ヶ月半経ち、私はいつものように、花の仕事をしていた。カルロスが飛んできて、「マリオ、例のアイスクリーム屋が来たよ」と言った。私はその時、「ああ、やっぱり彼もあの時のことを忘れなかったんだ。そしてわざわざ感謝の気持ちを伝えに来たんだ」、このように解釈した。しかし、私の期待は、この時も無残に打ち砕かれた。「こんにちは。もう気候もすっかり涼しくなって、とてもアイスクリームは売れません。それで、今度はあなたがたの花を安く分けてもらおうと思って、来たんです」。あの時の感謝の気持ちなど、毛頭なかった。

  私は、彼のこの言葉を聞いて、「ああ、俺はなんて甘いんだ。お人好しなんだ。ここでは、人のことなど構ってはいられない。ロベルトの言うように、まず自分。第一に自分の身を大切にしなければならないんだ」。この時、私は確かに人生にとって大切な一つの事を学んだのだった。

失敗し  またひとつ学ぶ  人生か

一に我  二、三はなくて  四も我

正義感  かっこはいいが それだけさ

 
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 59. 22歳の冬 ついに初体験!?

  マルデルプラタの冬は、かなり厳しい。雪こそさすがに降らないが、霜は頻繁に下りる。ブエノスアイレスにいた時もそうだったが、花にとって一番怖いのは、つぼみが凍ってしまうと、もういくら手当てをしてもだめなことだ。花が開いた時、花弁にしみが入り、とても商品にならない。したがって、霜の下りそうな晩は、温室の中に作った数個の穴に炭を入れておき、そこに火をつけるのである。この熱によって、花のつぼみが凍るのを防ぐのだ。この時は、さすがにロベルトも、そしてペオンのカルロスたちも、皆で寝ずの番をするのだった。

  しかしありがたいことに、マルデルプラタはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスより400キロも南に位置しているにもかかわらず、気候はあまり違わなかった。夏はまあまあ暑くなって海水浴もできるし、冬はそれほど冷え込まないので、一年中を通して非常に過ごしやすい所だった。そのことも、マルデルプラタが世界的な避暑地であることの大きな理由であった。

  そして、この町には2つの大きなカジノがあった。1つは金持ち用、もう1つは一般用であり、それぞれの入場料が異なっていた。もちろん入場料だけではなく、賭け金も違っていた。ヨーロッパからの大金持ちがここに何週間も居座って、カジノに入り浸り、浜で海水浴を楽しんだり、一流レストラントで食事をしたり、それはそれは素敵な生活をエンジョイするのである。

  私も一度、ロベルトに連れて行ってもらったが、このカジノに入るには、コルバータ(ネクタイ)をしめていかなければならなかった。もちろん、私はたいしたお金をもっていなかったので、いくらか損しただけで、もうやめておいた。とにかくいい経験をしたということで、ロベルトに感謝した。

  ある日、ロベルトが私に言った。「マリオ、お前には彼女はいるのか?オフェリアはどうだ?彼女はお前に気があるぞ。どうなんだ?それともお前はまだ、女を知らないのか?」。私はドキッとした。さすがに見抜かれていた。私はアルゼンチナ丸で日本からブエノスに来る航海中にも、再三のチャンスがありながら、この経験ができなかった。小中学校の時に、当時の番長であったH君から受けたいじめが私の中に性に対する偏見を作り、性というものは汚いものだ、汚らわしいものだ、という観念が植えつけられてしまい、それがために私は今まで拒否反応を起こしていたのだった。

  しかし、今回はセックスに対する興味が打ち勝ち、私はロベルトに「ロベルト、恥ずかしいけど、まだ女を知らないんだ。童貞なんだ」と打ち明けた。「やはり、そうか。それならば、俺がいいところに連れて行ってあげよう」。日が暮れて、夕食を食べ終わるとロベルトが言った。「マリオ、それじゃあ行ってみよう」。さすがにロベルトも、家族には本当のことは言わず、マリオに町を案内するんだというような言い訳をしていた。

  ロベルトが連れて行ってくれたところは、町から少し離れた郊外にあった。そこは、カッサ デ シータ(売春宿)と呼ばれ、この家の周りにはほとんど何もなく、薄暗いランプが灯っていた。この中に入ると、まずボーイが席に案内してくれ、そこでドリンクを注文する。しばらくドリンクを飲んでいると、奥に座っていた何人かのうちの女性の一人がそばに寄って来て、「プエド センタール?(ここに座っていい?)」と尋ねてくる。顔をよく見て、気に入れば「シー コモノ(もちろんいいよ)」と答える。これで商談は成立だ。あとは値段の交渉をして、二人で奥の部屋に入ればいい。この時は、ロベルトがすべて交渉してくれて、話は成立した。私は彼女に連れられて、奥の部屋に入った。こうして、私は初めて女性を知ったのだった。実に22歳の年であった。

ついに来た こうして男に なったのか

何事も 経験こそが 勝るかな

 
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 60. 胃がんの大手術を乗り越えた海老さんとの話

  アイスクリーム屋の件も一段落して、私はいつものように、花の仕事に励んでいた。朝起きて花を切り、それを100本の束にして、水の入ったバケツに浸しておく。その間に他の作業、水掛け、糸張り、針金張り、芽かき、そして一番の重労働はプンテアル(土起こし)であった。カルロスは、まだ15歳になったばかりで、体もあまり大きくなく、とてもプンテアルを任せることはできなかった。そうなると、自分しかいない。仕方なしに、私は昔とった杵柄で、自分一人でするのだった。しかし、杉田農園でペドロと競ってやった時のことを考えれば、ここではたった4棟の温室だし、まったく楽なものであった。

  スペイン語の勉強を続けたかったが、アダルトスクール(成人のための教室)を思ったより簡単に卒業してしまったために、次のステップがわからなかった。ロベルトは、メカニックには強いのだが、人に言葉を教えたり、そういった教育面にはまことに弱かった。それで、ロベルトにはどうしても言葉を教えてくれとは頼めなかったし、ましてやロベルト夫人アリシアには、スペイン語を教えてくださいなどとは聞くだけむだだった。

  それで、仕事を終えてからは、海老さんの寝室に行って、話し相手をするのだった。海老さんは、5年前に胃がんの大手術をしていた。以前に私は、たまたま海老夫人がその手術痕を消毒している場面に出くわし、はみ出している内臓が直接私の目に入って驚愕したことを思い出した。これほどの手術をし、医者には後1年もてばいいと言われていたにもかかわらず、既に5年の歳月が経っていた。その海老さんの精神力、気力には本当に敬意を表したい気持ちであった。

  「こんにちは。海老さん、お元気ですか?お顔の色は良さそうですね」。「おお、川島君か。しばらくぶりだな。たまには話しに来てくれよ。君は小学校を卒業したんだって?大したものだ。ホセが感心していたよ。やはり、アルゼンチンに来たからには、スペイン語を覚えなければだめだ」。このように、私達は夕食時まで話を続けた。

  さすがに、ここマルデルプラタにいたっては、容易に日本のニュースは入ってはこず、話題はブエノスの日系人のことに絞られてしまう。誰々が温室を100棟にしたとか、また何々さんが花の仕事を見限ってラプラタに野菜作りに行ったとか、そのような話ばかりである。それでも、こうして海老さんの話相手をした日は、必ず海老夫人が夕食をごちそうしてくれた。故に、私は食事目当てで海老さんの相手をするのであった。

  相変わらず、夕食は海老夫人が腕をふるい、メインは焼肉、野菜炒め、そして味噌汁、白ごはんと、まったく日本の食事と変わらなかった。粗末な食事しかしなかった日本の食生活と比べれば、私にとっては格段の違いがあった。たまに、マルデルプラタ港で漁船に乗っている日本人の中に海老さんの知り合いがいた。船から上がると、そこでとれたアツン(マグロ)の切り身をわざわざ持って来てくれるので、その日は刺身をほうばることができた。しかし、このようなチャンスはそんなに続くわけでなく、船員に言わせると、マグロの取れる確率はまことに低いので、よほど運が良くないとだめだという。しかし、このマグロの刺身のうまいこと。私達は日系人の作る醤油をまぶして、それはそれはおいしいマグロ料理を食べることができたのだった。

手術して あとは気力の 力かな

マグロだよ こんな大きな マグロだよ

 
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 61. 進学・就職 弟への手紙

  その日も海老さんの寝室に入ると、突然海老さんが、「川島君、君の弟さんは高校を卒業したのかね?良ければ私が保証人になるから、ここに呼びたまえ。君も楽になるだろう」と言い出した。「ああ、そうですね。早速、弟に手紙を書いてみます。おそらく、やつも私と同じように進学、就職で悩んでいるでしょう」。

  私は早速、手紙を書いた。私も進学のことで悩み、テニスで早稲田に進学する可能性があったにもかかわらず、母親に経済負担を頼むわけにもいかず、結局南米移住という目的で、ここアルゼンチンに移住したのである。たしかにここの生活は厳しいけれど、スペイン語を勉強したり、色々な人生経験を体験でき、そして様々な人々と知り合えるチャンスを得ることができた。私は心の中で、弟もこのようなチャンスを生かすことができればいいと願った。

  しかし、アルゼンチンから地球の反対側の日本に手紙を書くということは、容易なことではない。少なくとも、一週間はかかった。へたをすると一ヶ月以上、たまに船便にまぎれてしまい、3ヶ月も経ってから届いたということもある。そこで私は、手紙を書く時は住所の下にJAPON(ハポン)と大きく書き、さらにその下にVIA AEREA(エアメール)と書いて、必ず航空便で早く着くようにした。こういう細かい気遣いが、外国生活者にとっては非常に大事なことなのである。

  この私の願いが通じたのか、ちょうど一ヶ月後に便りが届いた。まさに、弟からである。その手紙の中に、「自分も現在、進学や就職問題で悩んでいます。今兄貴の手紙を受け取って、このチャンスを利用して、兄貴の下で働くのもおもしろいかもしれない。その時はよろしく頼みます」、このような内容の返事が届いた。

  早速、海老さんに伝えた。「海老さん、やはり海老さんが考えていたように、弟も進学の問題で悩んでいました。私の手紙を見て、アルゼンチンに来たいそうです。ぜひ手続きを始めてください」。「そうか。やはりそうか。それでは、私が亜拓に手紙を書いて、用紙を送ってもらう。そして手続きを始めよう」。

  話はとんとん拍子に進んだ。今回はまったく問題がなさそうである。パトロンもしっかりしているし、私もここできちんと仕事をしているし、条件は全然OKである。今から手続きを始めれば、弟は来年の3月に高校を卒業して、それからおそらく数ヶ月間の研修後、乗船できるのではないだろうか。

弟よ アルゼンチンに 早く来い

進学と 就職の事 どう思う

若者よ 将来のこと 考えろ

 
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 62. スペイン語のさらなる上達を目指し、今度は中学校へ

  弟の博志は、来年の9月か10月頃には乗船できるだろう。彼が来て、手伝ってくれれば、仕事ももっと増やせるだろう。私はそのように軽く考えていた。

  そうしている間、ブエノスからホセがノルマと一緒にやって来た。「やあ、マリオ。元気でやっているかい?今マルデルプラタの新しい分譲地が、人気があるんだ。それでプロモーションのために、来たんだ。言葉の勉強のほうは、その後うまくいっているかい?」。「おかげで小学校は簡単に卒業できたのですが、この後がどうしていいか、わからないので困っています」。「そうか。それだったら明日、中学校に連れて行ってやる。せっかく小学校を終えたのだから、今度は中学校に行ったらいいよ」。

  翌日はホセとノルマに連れられて、マルデルプラタの中央広場の近くにある中学校に行った。話はとんとん拍子に運んで、私は中学校に進学することが可能になった。市内には校舎が少ないため、ここではマツティーナ(午前授業)、ベスペルティーナ(午後授業)、そしてノクツルナ(夜間授業)と3部に分けて、校舎を有効に活用していた。私は仕事のこと、それから帰宅のことを考慮して、ベスペルティーナ(午後授業)を受けることにした。この授業は、午後の2時から6時までの4時間だった。少し早く起きて仕事をやれば、なんとか大丈夫だろう。私はそう決心した。

  こうして、私の中学生活が始まった。本当に、人とのつながりは大事である。もし、ここでホセやノルマと出会わなかったら、こんなに簡単には学校で勉強することなどできなかっただろう。早速、翌週の月曜日から学校に通った。なんと、このクラスの仲間は、皆12、3歳の子供ばかりだった。

  そこで、私は早速自己紹介をした。「ブエノスタルデス ムチャーチョス メジャーモ マリオ カワシマ、ムーチョ グスト(こんにちは、皆さん。川島 マリオです。よろしく)」。子供達は突然日本の青年が現れたので、びっくりした様子だったが、すぐに「オーラ マリオ ケ タル デドンデ ビエネス(やあ、マリオ。どうですか?君はどこから来たの?)」。早速、このような挨拶が返ってきた。まさに、普通の中学校1年生の授業である。

  そして、担任の先生が、私を子供達に再び紹介した。「マリオさんです。日本人です。この間、アダルトスクールで小学校を卒業して、今日からは貴方方と一緒に勉強します。よろしくね」。先生はマルッカさんといって、私と同年輩のセニョリータだった。先生の方が、私に非常に興味を持ったようである。こうして、私はクラスの最前列に座り、授業を受けることになった。

先生は 私とほとんど 同じ年

子供達 同じクラスで 頑張るぞ

 
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 63. かわいい女の子から得た教訓

  学校が始まった。私は前にアダルトスクールに通っていた時よりも、さらに早く起きて、花切り、水掛け、糸張りなどの仕事を手際よく済ませて、手をよく洗い、爪の中のごみをきれいに取って、いつものようにプチェーロの昼食を済ませて学校に通う。

  天気のいい日は、人々の気持ちも軽やかになって、私のヒッチハイクは必ずと言っていいほど成功する。本当はバスで通学するのが一番いいのだが、なんだか私はヒッチハイクに賭けることが、とてもおもしろくなってしまったのである。色々な人に会えて、色々な話を聞くことが、とても楽しいのだ。

  いつものように、クラスに駆け込むと、最前列に座る。後ろのかわいい女の子が、「チェ マリオ プレスタメ シエン ペソス キエロ コンプラール コカコーラ(ねえ、マリオ。100ペソ貸して。コカコーラ買いたいから。)」。私は100ペソぐらいと思い、安易に貸した。ところが、何日経っても返してくれない。何度も「ケ パソ シエン ペソス クワンド メ デブエルベス(貸した100ペソ、どうしたの?いつ返してくれるの?)」。すると、「デスプエス テ デブエルボ(後で返すから)」。これがお決まりの文句だった。私は腹が立ってしかたがありません。100ペソ(日本円で20円くらい)でも貸しは貸し、返すのは当然である。

  そこで私は、このことをロベルトに相談した。すると、ロベルトは「マリオ、それは諦めたほうがいいよ。ここで貸すということは、あげると同じことだよ。もう、返って来ないよ」と平然と言う。たった100だったが、私は悔しくて悔しくてならなかった。でも、日が経つにつれて、そのことにあまりにもこだわっていると時間がもったいないし、大変な精神力を費やすことが愚かに思えてきた。それで結局、そのことは完全に忘れることにした。次回からは、貸さなければいいのである。そう思う事にした。

  マルッカ先生は、まだ大学を卒業したばかりで、私とほとんど同い年であった。ここでは、1人の先生が1つのクラスを受け持ち、全ての授業を教える。彼女の話し方はとてもはっきりしていて、丁寧に説明してくれるので、外国人の私にとっても非常に良く理解できる。こうして、毎日少しずつ理解が出来、話の内容がわかってくると、授業も楽しくなった。

  100ペソの事はすっかり忘れてしまった。ところが、彼女の方は忘れていない。ただし、私ならお金を貸してくれるということを。再び「マリオ、ポルファボール プレスタメ オートロ シエンペソ(マリオ、お願いだからまた100ペソ貸してね)」。もうすっかり前の借金は忘れている。よく考えれば、それだけ陽気なのだろうか。今回は「アオラ ノ テンゴ ディネーロ(今、持ち合わせがないよ)」このように断った。すると、「ア シ OK(そう。それじゃあしかたないわ)」。これで、話は終わりである。そうなのだ、はっきり断ったらいいのだ。ここでは優柔不断が一番悪いことなのである。いいか悪いか、相手にはっきり伝えたらいいのである。

貸すことは 与えることと 同じこと

はっきりと イエスかノーか 述べる事

 
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64. マルッカ先生宅に招待されて

  学校へ行くのも段々楽しくなってきた。いつものように最前列に座り、マルッカ先生の話に耳を傾ける。相変わらず算数と英語の授業は私にとってはまるで簡単だ。内容はもちろん100%分かるが、特に注意した事はスペイン語の使い方である。この要領さえ分かれば後は簡単だ。特に算数の場合は、数字は万国共通だから全く問題ない。やはり授業の中で一番苦労したのは国語である。その中でもグラマティカ(文法)だ。この複雑な事、特に活用は一人称、二人称そして三人称、さらに現在系、過去系、未来系。スペイン語の場合は男性系名詞、女性系名詞があり、例えばカッサ(家)、シージャ(椅子)、メッサ(テーブル)は女性系でありいずれも「A」で終わる。一方ペーロ(犬)、サッコ(スーツ)、テレッフォノ(電話)は「O」で終わり、これらは男性系となる。さらに複雑なことは、これらの名詞の前に付く定冠詞も違ってくる。女性系には「ラ」が入り、男性系の前には「エル」が来ます。だから、これらの違いを頭の中に完全に叩き込む事は容易なことではない。

    若いという事は素晴らしい事である。毎日夢中になってがんばっていると、少しずつ進歩していくのが分かる。マルッカ先生も、近頃は私に興味と親しみを示してくれるようになった。なにしろ地球の反対側の日本と言うミステリアスな国から自分と同年代の青年がやって来て、授業を聞いているのだから。当の私はとにかく一日でも早く言葉をマスターしようと、一生懸命頑張るしかなかった。ある日学校が終わって帰ろうとすると、先生が言った。「マリオ、私の家にちょっと寄らない?お茶をご馳走するから。」私は、これで先生ともっと親しくなればスペイン語もずっと上達するだろうという気持ちで、喜んで着いて行った。

  先生はフィアットの小型車を運転して自宅まで連れて行ってくれた。「マリオ、家に着いたわ、これが私の家よ。両親と住んでいるの。私の部屋は二階にあるの。」そう言って家の中に入った。彼女の両親に「パパ、ママ、マリオよ。日本の青年で、私のクラスで勉強しているの。」「ビエン ベニード ア ミ カッサ(私の家によくいらっしゃいました)」こう言って歓迎してくれた。私は彼女に促されて二階の部屋に行った。「マリオ、待ってて。今お茶を入れるから。」部屋はきちんと整頓され、これが女性の部屋なのか。考えてみれば、私は今まで女性の部屋に一度たりとも招待されたことはなかった。彼女の部屋には、かわいい小熊や他の動物のぬいぐるみが置いてあった。正しくセニョリータの部屋である。

  しばらく待っていると、彼女がお茶を運んできた。そのお茶は、今まで私が飲んでいたお茶とはちょっと違っていた。そのお茶はマテ茶と言って南米、特にパラグアイとアルゼンチンでたしなまれていた。丸い器の中にマテ茶を入れ、くりぬかれた上方からボンビージャ(鉄製のストロー)でお茶をすすり、お湯を継ぎ足していくのである。 多くの場合、砂糖をお茶に加える。そして、それを回しのみにするのである。簡単に言えば間接キッスである。だから、このお茶を飲むのは親しい友達を招いた場合とか家族どうしで飲むわけである。つまり先生は、私に格別な親愛の情を示してくれたわけである。そんな先生の気持ちを理解する術など持っているわけがない。とにかく先生から少しでもスペイン語を学びたいという気持ちのほうが強かったから。

スペイン語 覚えることは 大変だ

ウノ ドスと 毎日数字 繰り返す

 
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65. 頭の中はスペイン語でいっぱい 

  マルッカ先生の自宅から出ると、外に2人の若者が待っていた。彼らにとっては、なにしろ若いセニョリータの家から自分達と同年輩の青年が出てくることは、とても信じられないことだったようだ。「デ ドンデ エレス、チーノ オ ハポネス(国はどこだ?中国人?日本人?)」。「ソイ ハポネス(日本人です)」。「ア シー、パサステ ビエン?(そうか、うまくいったかい?)」。私には、彼らの質問の意味がよくわからなかった。

  マルッカ先生はそれを聞いて、「エル エス ミ アルムノ、エス ムイ エスツディオッソ ポルエッソ レ エンセーニョ エスパニョール(彼は私の生徒よ、とても勉強家で、それで私がスペイン語を教えてあげているのよ)」。2人の青年は、それを聞いてもまだ怪訝そうな顔をしていた。こうして私はバス停に行き、海老農園に帰った。

  この日はいつもより遅かったので、海老夫人やロベルトたちが心配していた。前に、アイスクリーム屋を助けようとしてけがをした事件を思い出したからである。あの1件以来、彼らにとっては、マリオは何をしでかすかわからない不思議な若者だったのだ。

  それで私はロベルトに、今日あった出来事を報告した。するとロベルトは、「マリオ、お前ばかだなあ。彼女はお前を誘ってくれたんだぞ。何もしないで帰ってきたのか?なんてばかなんだ」とあきれたように言った。たしかにそう言われると、そういう気持ちもあったかもしれない。しかし、私にとってはこの時はとにかく、スペイン語を覚えることが一番大切なことであった。

  そして、この件はもう、私の頭の中からは消えてしまった。また明日からは仕事が始まる。私の先生に対する態度は、ふだんとまったく変わらなかった。こうした私の気持ちを察したのか、先生は前よりも熱心に、私にスペイン語を教えてくれるようになった。それからも何度か先生の自宅に招かれて、マテ茶を飲みながら、言葉を勉強したのである。

先生の 優しさ思い 勉強す

毎日の 頭の中は スペイン語(言葉だけ)

 
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66. アルゼンチンの大富豪 ファン ヒヨ

  学校からの帰りのバスの中で、私は1人の日本人の青年と知り合った。メガネをかけた、真面目そうな青年で、おそらく年も私と同年代だろう。

  早速、日本語で「失礼ですが、日本の方ですか?これからどこに行かれるのですか?」と聞いた。すると、驚いたことに片言の日本語で「私は2世です。日本語、あまり話せません。これからバルカルセの自宅に帰ります」と答えた。あまりにもたどたどしかったので、私はスペイン語で話した。私のスペイン語で話したほうが、お互いにスムーズにコミュニケーションができたからである。

  彼は沖縄出身の移住者の2世で、金城(カナグスク)と名乗った。アルゼンチンに移住した父親は、最初はブエノスアイレスの親戚の下で洗濯業を学び、数年頑張った後、独立しようと決心して色々調査した結果、この地方都市バルカルセに移ってきたのだそうだ。ここで数年頑張って、仕事も順調に運び、知人の紹介で同じく沖縄2世の女性と結婚し、彼が長男として生まれたという。現在、2つ年下の弟と家族一緒に洗濯業(ティントレリーヤ)を営んでいるとのことだった。

  その後、同じバスで何度か顔を合わせ、今度の日曜日に彼の自宅に行くことに決まった。その日は雲ひとつない素晴らしい日だった。いつものように1キロメートルの土道を歩いて国道21号線に出て、今日はいつもとは反対側でバスを待つ。

  少し待っていると、高速バスがやってきた。私は手を大きく振ってバスを止め、乗車した。バスの運転手に「キエロ イール ア バルカルセ(バルカルセまで行きたいのですが)」と告げてお金を払う。マルデルプラタからバルカルセまでは約60キロメートルの距離である。

  驚いたことに、この間には何もない。見渡す限り、牧草地である。この広々とした草地の中で、まるまる太った牛が、ゆったりと草をはんでいる。その中を、ガウチョ(アルゼンチン・カウボーイ)が鞭を片手に持ちながら、牛を誘導している。このような風景が延々と続くのである。

  後で聞いたところでは、この大牧場のオーナーは、ここではカパタス(牧場長)を雇い、彼に全てを任せて、自分は1年の大半をヨーロッパで優雅に生活しているのだそうである。1年に1度か2度帰国し、自分の農場がきちんと経営されているのを見届けると、再びヨーロッパの家に戻っていくのである。それを聞いて、私にはまったく想像もつかない世界だと思った。

  アルゼンチンのヒーロー、ファン ヒヨは、まさしくその代表格の1人で、何万ヘクタールもの大牧場主である。その莫大な富を生かしてF1に参戦し、年間タイトルを6度獲得した大スターなのである。

延々と 広がる大地 パンパスか

牛はべる 土地の豊かさ アルゼンチン

 
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67. 沖縄出身の金城(カナグスク)青年

  高速バスは、このマルデルプラタ ― バルセロナ区間を120キロのスピードで飛ばし、その所々で止まってお客をピックアップする。ここでは停留所はあってないようなものである。周りの景色を見ているうちに、あっという間にバルカルセのバス・ターミナルに到着した。

    ここから金城青年の家までは、徒歩で10分の距離である。彼の自宅兼洗濯屋は中央広場の脇にあった。この辺りは、町でも有数の繁華街になっている。長年こつこつ頑張ってきたおかげで、家は二階建ての立派な建物だった。建物の右半分、一階部分が商店になっており、残りの全ては家族の生活の住居だった。中に通され、両親そして弟に紹介された。見るからに真面目そうなおとなしい人達であった。

    居間の大テーブルに腰掛け、皆で話をした。さすがにこの地方都市バルカルセまでは、日本人の友達は来ないそうである。だから、私の来訪は家族にとって、とても懐かしく、非常な親しみを持って迎えてくれた。話を聞いていると、ここアルゼンチンには約3万人の日系人がいて、その内7割は沖縄から来ているとのことである。そして、彼等のほとんどは洗濯業に従事し、首都ブエノスアイレスにはもちろんの事アルゼンチン中の大、中、小都市に分散していて、金城さんもその内の1人だそうだ。当時の沖縄はまだ日本には復帰しておらず、米国の占領下に置かれて米国紙幣のドルが流通しており、生活は厳しく、海外に夢をもとめて移住してきたのである。

    アルゼンチンを含め、ここ中南米で沖縄出身者が大半を占めているのは、こうした理由からである。第二次世界大戦後、食料需要を満たす唯一の輸出国として大繁栄を謳歌していたアルゼンチンに来た日本人移民は、持ち前の勤勉さを発揮し他の誰もが嫌がる洗濯業に入りこんだのだった。その成功によって次から次へと沖縄から親戚、知人が押し寄せ、何年か仕事を手伝い覚えた後独立していったのだそうである。正に金城さんもその1人だったわけである。家族みんなで頑張ったおかげで、現在はこのように町でも有数な繁華街の一角に豪邸を持つ事ができたわけである。私は今まで知らなかった日本人移民の歴史を学ぶ事ができた。食事は金城夫人が用意してくれ、分厚いビーフ、焼き鳥、エンパナーダ(アルゼンチン風餃子)等とても食べきれないほどの豪華な食事であった。

 

バルカルセ こんな遠くに 友がいる

沖縄は 日本の国に 何時なるの

 
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68. ホセとノルマと、自分の土地を見学に

  そうこうしているうちに、また夏がやってきた。

  学校も長い夏休みに入る。私は、いつものように最前列に腰掛け、マルッカ先生の講義に耳を傾ける。先生は私の気持ちを察したのか、もうあまり私には干渉しなくなった。でも、いつも真剣に、ゆっくりとわかりやすく講義してくれる。まるで、私に直接話しかけてくれるように。おかげで、私のスペイン語力は、日増しに上達していった。

  また、ホセとノルマが間もなくやってくるだろう。長い夏休みが始まった。ここの夏休みは、クリスマス前から3月の中頃まで続く。いったい生徒たちはこの間、何をするのだろう。夏休みに入って1週間も経っただろうか、見慣れたフォルクスワーゲンが、海老農園に到着した。「オーラ、マリオ。コモ エスタス(やあ、マリオ。元気かい?)」。私は、またノルマに言葉の勉強を教えてもらえるのかと思うと、気持ちが弾んできた。この夏にもっともっと勉強するぞ!新しい決意がみなぎってきた。

  仕事は相変わらずであった。私にとって、4棟の温室をケアすることは、そんなに大した仕事ではなかった。エスコバルの杉田農園で、10棟の温室をケアしていた時のことを思えば、ここの仕事は非常に楽だった。

  次の朝、ホセが言った。「ブエノス ディアス、マリオ、オイ テ ジェーボ ア ツ ロッテ(おはよう、マリオ。今日、マリオの土地を見に連れていってあげるよ)」。それは、昨年ホセのうまい口車に乗って買ってしまった、マルデルプラタの住宅地の1区画の土地のことだった。ホセの話では、持っていればどんどん値段が上がっていくとの話であったが、実際はそんな簡単にはいかないようだった。こちらは、ホセを全く信用して買ったわけだが、どんな土地かも十分見極めたわけではなかった。それで、この際もう一度、自分の目で確かめようと思った。

  ホセの車に乗って、もちろんノルマも一緒だったが、土地を見るために出発した。私の土地は、町の西側にあり、ここ海老農園からは町を縦断しなければならないので、車で30分以上かかった。新しく開発した住宅地だったので、緑の多い閑静な場所であったが、1年以上たった今でもまだ数件の家が立ち並んでいるだけで、ほとんどは平地のままだった。

  するとホセは、「マリオの土地は、あの角地だよ。隣の土地の方が少し広いが、角の方がいざとなった時、高く売れるんだ。それで、マリオにはこの土地を売ったんだ」と得意げに言った。ホセだけの特別な言い分である。私はこういうことにはまるで無知であったので、ホセの言いなりだった。「いつになったら、ここに家を建てられるのだろうか」。まだまだそう考えるには、道は険しかった。

  ただ幸いな事に、土地を所有するだけでは、一切の税金がかからなかった。そのことは、私みたいな者にとっては、非常にありがたかった。いくら小金を持っていても、アルゼンチンにおいてはインフレがすさまじい勢いで進んでおり、ひどい時は翌年には貨幣価値が半分になってしまうこともあったそうだ。最初にこの土地を買った理由は、こうして不動産や物で持っていれば、お金ほど極端には価値が下がらず、逆に上昇することも可能だったからである。そして、私の場合は特に、言葉を教えてもらうという微妙な関係からでもあった。

インフレは アルゼンチンでは 当たり前

土地持てば いつか先には 上がるだろ

 
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69. 海老さんとの世間話 

  近頃、海老夫人の姿があまり見られなくなった。私は心配して、訪ねて行った。

  「マリオ、よく来たわね。さあさあ、中に入って、海老と話をしてちょうだい」。中に入り、「海老さん、具合どうですか?」。「おお、川島君か。よく来たね。弟さんはまだ来ないかね?」。「弟の手続き、ありがとうございます。おかげで、うまくいけば4月か5月の船には乗れると思います」などと、海老さんと色々世間話をした。さすがに、ここマルデルプラタまでは情報が簡単には届かないと見えて、相変わらず話すことは前と変わらなかった。

  「川島君、ブエノスの日系人は何をしているのかね?相変わらず温室を増やして人に自慢をしたり、少しばかりいい花を作っては喜んでいるのかね?」。「どうでしょうか。最近私のほうにはブエノスからのニュースは全く入りません。そうそう、この間バルカルセに住む沖縄の金城(かなぐすく)さんの家に行きました。町の中心街にあって、それは立派な店でした。住居もくっついていて、立派なものでした。結構洗濯屋さんて、儲かるんですね」。「それはそうだよ、川島君。この世の中では、人の嫌がる仕事をするのが一番お金になるんだよ。それに、簡単に独立できるしね。アルゼンチンのおそらく70〜80%の洗濯屋は、沖縄の人ではないかな」。「へええ。そんなにですか?すごいですね。私も今から洗濯屋に転業しようかな、なんて!」。「川島君、それはそうと勉強もいいけど、花の方はうまくいっているかね?弟さんが来たら、もっと温室を増やしたまえ」。

  結局、海老さんもそのことが心配なのである。何と言っても、今の収入の半分は、私の手にかかっているからだ。私の花の売上が増えれば、それだけ海老さんの収入も増えるからだ。それと海老さんの一番の気がかりは、息子のロベルトがあまり花の仕事には興味を示さないことであった。彼の本当の夢は、町にタジェール(修理工場)を持つことだそうだ。今でも暇さえあれば、隣人のトラクターや自家用車の修理に夢中になって、ほとんどただで、いわゆるアミーゴ価格でやってあげているのである。自分の体のことだけでも厳しいのに、そこまで気をつかっては本当に大変だ。私は海老さんと話していて、そう思った。

  「弟よ、早く来いよ。待ってるぞ」、そう心の中で叫んだ。

弟よ 早く来い来い 待ってるぞ

人生は 山あり谷あり 厳しいぞ

アルゼンチン 30年の 月日経つ

 
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70. 夏が終わり、また学校へ

  長い夏休みも終わりに近づいていた。ホセとノルマは再びブエノスに戻っていった。「マリオ、また今度の夏に来る時は、もっとスペイン語がうまくなっているんだよ。それじゃあ、アディオス!」。こう言いながら、愛車フォルクスワーゲンに乗って、帰った。

  私はいつものように、朝早く起きて花切りをし、それを100本の束にして、水の入ったバケツに入れて、それからプチェーロを煮て、また温室に戻り、草取り、水掛け、そして糸張りをする。それから、また来年のための新しいガホ(新芽)を取り、それを苗床に植える。こうして立派な苗を作り、根が十分育った頃を見計らって、温室の中に定植するのである。花作りの中では、もっとも大切な作業の1つである。

  まだ学校が始まらないので、その分時間は十分ある。ホルヘは相変わらず口が悪く、私の顔を見るとついからかってみたくなるのか、「マリオ、仕事はうまくいっているか?花の値段はどうだ?俺のグラジオラスと交換しないか?」などと言ってくる。以前はこういう相手の言葉を聞くと、ついかっとして突っかかってしまっていたが、今は「そう、それもいい話だね。よく考えてみるよ。君の仕事の方はうまくいってるのかい?こんなに暑い夏が続くと、露地物には良くないんじゃないか?」ととぼけて答える。

  あのアイスクリーム屋の一件以来、私も気持ちがだいぶ落ち着いてきた。おそらく、相手もそれを感じるのであろう。今までのように、もうそれ以上突っ込んではこない。「まあまあだね。お互い一生懸命頑張ろう!」、このような調子で会話は終わる。ホルヘの話は100パーセント理解できないまでも、ほとんどわかるようになったので、あらためて自分の言葉の上達度もわかる。

  こうして夏休みが終了し、再び学校が始まった。いつものように3時前には仕事を切り上げて、手をよく洗い、爪の中の泥を落とし、学校へ向かう。家から国道までの1キロの土道を歩き、1時間に1本来るか来ないかのバスを待ち、天気の良い日はヒッチハイクをして、街まで乗せて行ってもらう。

  時には何度も乗せて行ってくれる人に出会う。おそらく彼は仕事でこの時間帯にこの国道を行き来しているのだろう。私にとっては非常にありがたいことである。こうなるとお互いに親密感が増し、「君は日本人か?これから街の学校に行ってるんだって?たいしたものだ。応援するよ」。「本当にありがとうございます。助かります。何しろ、ここのバスときたら定刻に来ることはめったにないんですから、困ります」。「それじゃあ一生懸命勉強するんだよ」と励まして私を学校の近くで降ろしてくれる。

  いつものように駆け足で、2階のクラスに入る。「ブエナス タルデス、コモエスタン ボソトロス(こんにちは、皆元気ですか?)」。すると他の生徒からの「マリオ、コモ ツビステ バカシオネス(マリオ、夏休みはどうだった?)」というような会話から始まる。生徒とこういった会話をしていると、マルッカ先生が教室に入ってきた。

  ニコニコ顔で、「コモ アン パサード バカシオネス(皆さんは夏休みをどう過ごしましたか?)」と聞き、突然私の顔を見て、「マリオ、コモ テ ア イード(マリオはどうだったの?)」と急に私に振ってきたので、躊躇してしまった。言おうと思っていた言葉が出てこない。私は頭の中を整理し直して、言った。「ジョ パセ ムイビエン トラバハンド ムーチョ コン フローレス(楽しく過ごしました。そして花の仕事もたくさんしました)」。こう答えるのがやっとだった。もっともっとたくさんのことを流暢に言おうと思ったのだが、なかなかそう簡単にはいかない。まだまだ言葉の道は険しいようである。

夏休み 終われば再度 学校が

ホセ・ノルマ またいつ会える 楽しみに

夏休み 私にとって 同じ事

 
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71. 海老さんの死

  こうして夏休みが終わり、学校が始まり、私の生活も落ち着いてきた。この調子では、弟の来亜もまもなくだろう。手続きは順調にいっているようである。

  こんな中、海老夫人の様子が変だった。海老さんに何があったのか、心配だ。ロベルトも部屋の中に入ったきりである。例のプチェーロで昼食を済まし、これから学校へ行く用意をしようと思っていたが、周りの様子がおかしいので、今日は休むことにした。しばらく部屋の中にいると、ロベルトが駆け足でやって来た。

  「マリオ、一緒に来て」。私はロベルトの後を追っていった。部屋に入ると、街から呼び寄せたドクターが、海老さんの最期を看取っていた。「お亡くなりです。残念です」。海老夫人はその言葉を聞くか聞かないかのうちに、「あなたー!あなたー!」と叫びながら涙でいっぱいである。今まで長い間事情がわかってはいたものの、こうして死を迎えると気持ちが動転してしまう。

  私の場合は非常に複雑である。(海老さんもとうとう亡くなったか。しかしこれで自分も海老農園にこれ以上滞在する義理もなくなった、自由の身になったんだ)。一方では海老さんの死に対し、お世話になった人が死んだことに対する悲しい気持ちがあり、もう一方ではこれによって自分の海老家に対する義理・人情の部分で自由になったという何ともいえない気持ちがあった。

  海老さんの状態は昨晩急に悪化し、ロベルトがブエノスの兄弟ホセ(長男)とラウル(次男)に急遽連絡をとったのだが、容態は悪くなる一方で、結局今日の午後死を迎えたのである。残念ながら、ホセもラウルも父親の死を看取ることはできなかった。彼らが着いたのは、夜になってからである。私もこの日はずっと彼らのそばについていた。思えばよく頑張ったものだ。医者に後1年だと言われた命を5年以上も生きながらえた生命力、気力は素晴らしい。

  しかしこのことによって、これまでの数回にわたる手術代、そして薬代などの莫大な経費がかかり、家族は今まで築き上げた財産をすべて失い、せっかく獲得したこの入植地も借金の抵当に入っているのである。私は海老家のこういった状態の中で、現在のメディアネーロ(私が全ての労働力を提供し、パトロンが土地、そして一切の設備を提供することによって、経費を除いた売上を折半する契約)としての仕事を継続してきたのであった。だから、この私の介入によって海老家としては非常に助かったわけだが、私はこの状態を知れば知るほど、メディアネーロとしての立場を解消することはできなかった。しかし、海老さんの死によって、私の気持ちは解放されたのであった。こんな私の気持ちを、ロベルトが気が付く道理はなかった。

  葬式は非常に簡単に行われた。ここにいる家族の他に、ホセとノルマ、そしてラウル、さらにブエノスに居住している海老さんの妹夫婦である渡辺夫妻がわずかに葬式に参加した。他の友人はまったく参加しなかった。私は腹の中で、これも海老さんらしい、そんな気持ちで見守っていた。

命とは はかないものか これほどと

生きること 自分を見つめ 一歩から

生と死と これの違いは 己から

 
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 72. お葬式が終わり、再び日常へ

  葬式も終わり、ホセやラウルたちは皆、ブエノスに帰った。海老さんの死は、私を非常に複雑な気持ちにした。私は海老農園に来た当時から、海老さんの体の状態を知っていたわけだから、彼の死に対しては、それほど悲しみなかった。「海老さんもとうとう死んだか」。そんなあっさりした感慨しかなかった。逆に、この海老さんの死によって、私が海老家に対して持っていた義理・責任といった束縛から開放されたことも確かだった。

  そして再び、いつもの花作りの仕事が始まった。午後3時前には仕事を終え、手をよく洗って、爪の中の泥を掻き出し、自宅から国道21号線までの1キロあまりの道を歩き、高速バスに乗って学校に通う。クラスでは、もう誰もがアミーゴで、顔を合わせれば、「やあ、マリオ。元気かい?」という挨拶から始まる。もう後ろに座っていた彼女も、お金を貸してくれなどとは言わなかった。こうして、やっと私も若いクラスメートの一員になれたのである。マルッカ先生はいつものように、私に対しては本当に優しい温かい気持ちで接してくれる。私が少しでも言葉がわかるように、ゆっくり丁寧に話してくれる。

  こうしている間に、弟の来亜の手続きも順調に運んできた。日本からの弟の手紙によると、高校卒業後1週間、農場へ研修に行くとのことだった。彼の場合は、私が行った力行会には関係なく、県の移住事業団が全面的に世話をしてくれていた。したがって、その研修プログラムも事業団が作成したもので、移住するための大事な課程の1つだった。それらの全てのプログラムを終えてから、乗船日程が決まるのである。おそらくこの調子なら、9月末か10月初めの乗船になるだろう、とのことであった。

  「そうか。奴も、もうすぐ来るな」。私は早速、この旨を海老夫人に伝えた。「マリオ、良かったわね。早く弟さんが来て手伝ってくれれば、マリオも安心ね」。海老夫人はただただ、私に長く居てほしい気持ちでいっぱいなのだった。私もその時は、「一日も早く弟が来て、この花の仕事を手伝ってくれれば、もっと温室も増やすことができる」という期待感でいっぱいだった。

いつ着くか 来たら温室 増やそうよ

学校へ 毎日行くのが 楽しみだ

 
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 73. 弟の来亜が決まり、気力充実

  弟の来亜が明らかになって、私もひとまず安心した。仕事にも気持ちが入り、「もっと良い花を作ろう、そして温室をたくさん増やそう」という意欲が湧いてきました。海老夫人も私の気持ちの変化を感じたのか、「マリオ、あなたいつもプチェーロばかり食べていたんじゃ、かわいそうね。今日は私がごちそうを作るから、食べにいらっしゃい」と誘ってくれた。こうして今日の昼食は、夫人の心のこもった手料理となった。ステーキと新鮮な野菜をたっぷりそろえ、ネギの入った味噌汁と、酢の物、私にとっては素晴らしいごちそうであった。

  「セニョーラ、おいしいごちそう、本当にありがとうございました」。「マリオ、私も時間が出来たから、週に2,3回食事を作ってあげるからね」。この言葉を聞いて、「ああ、これで俺も人並みの生活ができる。ちゃんとした食事が食べられる」と、もうそれだけで幸せだった。

  そして今日も、3時前には仕事を終え、例のごとく手をきれいに洗って学校に行く。「俺も決めた以上、絶対やりぬくぞ!」。雨が降っても風が吹いても、よほど天候の悪い日を除いて学校には毎日通った。

  仕事は全く順調であった。いい花さえ作っておれば、毎日ベンデドール(花の買い付け人) が来てくれて、花を持っていってくれる。そしてその売上は、毎週まとめて現金で支払ってくれる。ここから経費を除いた全ての売上を、私とロベルトで折半するのである。このようにシステムがちゃんと決まっていると、私みたいな独り者にとっては、非常に便利だ。ただただ一生懸命、真面目に働いて頑張っていれば、少なくとも生活に困ることはない。

  ある日、隣のゴンザレスさんが我が農園にやってきた。もう私のことはよく知っていた。「マリオ、すまないがクラベル(カーネーション)を1ダース分けてくれないかね?その代わり、ここにパパス(じゃがいも)を1袋持って来たよ。これと取り換えてくれないかね?」。じゃがいも1袋といっても、40キロもある。1人の力では、なかなか運べない。それを肩にかついで、ゆうゆうと持ってくるのだから、ゴンザレスさんも大したものだ。「もちろん喜んで!だけど、こんなにもらっていいんですか?」。「そんなことないよ。花を作るのは大変な仕事だ。貴重品だよ」。こうして、私は1ダースのカーネーションと40キロのじゃがいもと交換した。

  早速、ロベルトとオフェリアの家族にも分けてあげた。確かにこうして田舎で百姓をしていれば、食うには困らない。私はよく日本から送られてきた大根の種、ほうれん草の種、そしてトマトの種を温室の脇に蒔いた。こうしておけば、花と一緒に水掛けができるからである。土地は肥えているので、黙っていても素晴らしい野菜ができる。しかし、大根に関してはそうはいかなかった。どうしてかはよく分からなかったが、日本の大根とはまるで違い、ネギみたいに細い大根になってしまうのだ。それでも味は同じだったから、私はそれを切って、味噌汁でよく食べたものである。

じゃがいもと カーネーションと 代えてくれ

百姓は 生活基礎の 元であり

百姓は 社会生活 基礎となり

 
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 74. 強まる責任感、でもどうにかなるさ

  「1ダースのカーネーションが、1袋40キログラムのじゃがいもに変わるなんて、すごいことだ」。これも花を一生懸命作ってきたおかげである。早く弟が来て仕事を手伝ってくれたら、もっともっと温室を増やして頑張ろう。この時は、そのような覚悟であった。

  海老さんが死んでしばらくの間、海老夫人は自宅に引きこもっていたが、2週間も経つと気持ちの整理がついたのか、外に出てきた。「マリオ、私も手が空いたから、これからはマリオの食事も作ってあげるよ。だから一生懸命仕事を頑張ってね」。「それはありがとうございます。セニョーラのおいしい食事が毎日食べられるなんて、嬉しいです。一生懸命頑張ります!」。

  しかし、4棟の温室をケアすることは、私にとってはそんなに大変な仕事ではなかった。したがって、私の生活は今までと全く変わらなかった。3時前には仕事を終え、手を洗って、爪の中の泥を落とし、1キロの道を歩いて国道21号に出てバルカルセからの高速バスに乗り、街のセントロにある学校でマルッカ先生の講義を聞き、それから再びバスに乗ってラグーナ ベルデ(緑の泉)のバス停で下車し、海老農園に帰宅するのである。

  田舎の仕事は変化がなく、のんびりしているが、私の場合は学校に行ってスペイン語を勉強するというはっきりした目的があったので、毎日毎日が非常に充実していた。海老家の三男ロベルトは、相変わらず暇さえあれば、自動車やトラクターをいじくりまわしていた。黙っていれば、一日中そうしていたであろう。「よくもこれほど打ち込めるものだ」。私は驚きあきれたものだった。

  したがってロベルトも、ロベルトの気持ちをよくよく知っている海老夫人も、近いうちに温室の全てをマリオに任せたいという気持ちで一致していた。さらに弟が来たら、温室をもっと増やし、それによって家族の収入も増大すると期待していた。私にしてみれば、彼らの気持ちがわかればわかるほど、責任感が強まり、なんとなく縛られていくようなプレッシャーがあった。「ケバ ア セール(どうにかなるさ)」。私はこんな気持ちで、今の自分の生活のペースを変えようとは思わなかった。とにかくスペイン語を一日も早くマスターすれば、また他の世界が見えてくるのではないか、そういう気持ちでいっぱいであった。

スペイン語 早く覚えて 次の道

生きるには 義理人情も 大事だが

 
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 75. トイレでびっくり、突然の手術

  仕事も学校も順調にいっていた。ところが、ある日突然、トイレに行ってびっくりした。真っ赤な血が、いっぱいだった。おそらく痔が切れたのであろう。思えば高校の時、テニスプレイをした後、よく地べたに直接座っていた。そういうことが、痔には一番悪いそうである。たぶんその時から痔の症状が悪化していったのであろう。それが今突然、襲ってきたのである。もう痛くて痛くて、まともに歩けなかった。

  ロベルトに相談すると、「それはいけない。今から病院に行こう。しかし、オスピタル(国立病院)は無料だが、人がたくさんいてアテンドも悪い。そこへいくとクリニカ(私立病院)は、お金は高いが、きちんとアテンドしてくれる。マリオ、クリニカに行こう。知っているところがあるから、今からそこに連れて行くから」。こうして私はロベルトに連れられ、私立病院に行った。

  この病院の院長であるドクトル・サンチェスは、私を看て「これはいけない。早速オペラシオン(手術)だ」と言った。そしてそこにいた看護婦に指示した。「手術の用意を」。私は担架に載せられて、直接オペレーションルームに運び入れられた。私をうつぶせにし、「メ エンティエンデス プリメロ レバンテ エル クーロ(私の言っていることがわかるかい?最初にお尻を上げて)」と院長は命令した。

  私は命じられたとおり、お尻を突き上げた。すると、ちょうどお尻の大きさに切り抜いた布を上からかけられた。それからドクターは、病院の全ての看護婦を呼んだ。おそらく3,4人はいたであろう。皆、かわいい20歳を過ぎたばかりのセニョリータである。彼女らを前にして「ミラ エスト エス エモロイデ ハポネス(皆さん、これをよく見てください。これが、日本人の痔です)」とドクトルはことのほか得意げに話した。私はこの言葉を聞いて、びっくりした。さすがの私にも、エモロイデ ハポネス(日本人の痔)の言葉はわかった。尻を突き上げながら腹の中で思った。「ちきしょう。俺を何だと思っているんだ。 高い金をとりやがって、これではまるでピエロではないか。ふざけるな」。だが、いたしかたない。ただただ、手術がうまく行くのを祈るだけであった。

  局部麻酔をし、手術は始まった。おそらく数時間はかかったであろう。私はうとうとしていた。たぶん麻酔のせいであろう。ドクトルの声で、意識を取り戻した。「ジャーセ アカボ ツビモス ウン エキシト(さあ、終わったぞ。手術は成功だ)」。

  このドクトルの言葉を聞いて、ホッとした。するとどうだろう、私に向ってすぐさまこう言った。「セニョール カワシマ、ジャーセ アカボ オペラシオン ツーボ グラン エキシト、ジャ ウステ プエデ マルチャール(川島さん、手術は終了しました。大成功です。あなたはもうすぐに、退院できます)」。退院だって?まだ手術が終わったばかりではないか、ここで無理に動いたらせっかく縫った傷口も開いてしまうではないか。私は心配になってロベルトにたずねた。「ドクトルは何て言っているんだ?手術はもう終わったって言っているけど、傷口がふさがるまで入院しなくていいのかな?ロベルト、もう一度はっきり聞いてくれよ」ロベルトがドクトルに念を押した。「マリオ、やはりドクトルはもう家に帰っていいと言っているよ。後はうちでゆっくり養生するしかないよ。しょうがない、さあ帰ろう」 ロベルトは、私の代わりに治療費を立て替えてくれ、私を肩にかついで、車に乗せてくれた。こうして私は数時間の痔の手術を終え、海老農園に帰宅したのである。

痔の手術 こんなに早く 終わるとは

恥ずかしい こんな気持ちで 痔の手術

 
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 76. 海老婦人の献身的な看病に、涙

  無事、海老農園に到着した。麻酔が覚めてきたのか、徐々に痛みが増してくる。ホルヘやカルロスが寄って来て、私の体を支え、私の住むレシデンシア(大邸宅)に運び込んでくれた。ロベルトは私に「マリオ、ケダテ アキ ウーノス ディーアス クイダテ ビエン ノ ムエベス ムーチョ(マリオ、ベッドにじっとしているんだよ。あんまり動いてはだめだよ。じゃあね)」。そう言って、戻っていった。

  1人残された私は、これから何をしていいかわからない。お尻の部分はだんだん痛みが増してくるし、不安になってきた。そうしている時、突然海老夫人の声が聞こえた。「マリオ、大丈夫?ロベルトの話だと、手術はうまくいったみたいよ。あとは、ここでの治療ね。とにかく清潔にしているのが肝心よ。毎日良くなるまで、私が看てあげるから、心配しないでね。食事は私がおかゆを作ってあげるから」。

  夫人のこの言葉を聞いて、思わず涙が出てしまった。今まできつい人だと感じていたが、この一言を聞いて、本当にありがたいと感じた。しばらくの間は、仕事も学業もお預けである。私は毎日、ベッドでじっとしていた。食事の時間になると海老夫人がおかゆを作ってくれ、それを食べさせてくれた。

  私が一番助かったことは、ここのトイレが全て水洗だったことだ。この水洗トイレを作るには、まず家の脇に大きな穴を掘る。それはそれは大きな穴である。皆で代わりばんこに穴を掘っていく。ロベルトの話だと、6メートルも掘れば、15年間は全く問題ないとのことだった。とにかく土地は無限にあるのだから、おそらく汚水は大地に浸透していってしまうのであろう。

  既に私たちは水ポンプ(温室に供給する水を確保するためのもの)を所有しているので、これを利用して、まず天井の貯水タンクに水を運ぶ。重力を利用して、この水を水洗に使うのである。私の日本の家には水洗どころか便座もなく、ただ丸い穴を空けた便所だったので、ここに来て「なんと素晴らしいものだ」と感激した。特に痔の悪い私にとっては、非常にありがたいものであった。

  おまけに、トイレの後は、海老夫人が大きな風呂桶に温水を入れて、私の患部をそこに浸し、綺麗にしてくれたうえ、薬を塗布してくれた。この心のこもったケアが良かったのだろう、10日間も続けると、もうすっかり傷口は回復し、痛みもほとんどなくなった。「セニョーラ、本当にありがとうございます。おかげで、すっかり良くなりました」。こうして私は、エモロイデ ハポネスから無事解放されたのである。

水洗の トイレの力 素晴らしい

海老夫人 心のケアー 感謝する

 
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 77. ようやく全快!ヒッチハイクで学校へ

  日を改めて、もう一度ロベルトに医者のところへ連れて行ってもらった。医者は早速私を手術台の上に乗せ、お尻を突き出すように指示した。私はドクターの言うとおりに、彼が術部を見やすいように、ぐっと突き出した。この時はさすがに円の空いた布切れは必要なかった。患部を軽く触り、「ここは痛いかね?」と聞いた。私が「全く痛みはありません」と答えた。「手術は全くうまくいきました。傷も完全に治っています。もう大丈夫です」。こうして、私は痔の苦しみから完全に解放されたのである。

  ドクターにはっきり言われたおかげで、精神的にも気持ちがすっきりした。明日からは再び仕事と学業の開始である。仕事のほうは、カルロスとオフェリアが私の代わりにきちんとやってくれていた。特に花切りはもうすっかり慣れたものであった。この日は、私も花切りだけにした。

  海老夫人が、「マリオ、食事できたわよ。いらっしゃい」と呼んだ。居間に入ると既に、ロベルトとロベルト夫人のアリシアが座っていた。「オーラ、マリオ。コモ エスタス?(やあ、マリオ。具合はどう?)」アリシアが尋ねた。「おかげですっかり良くなったよ。これもロベルトのおかげだよ」。

  この日の昼食はステーキと野菜サラダ、それとオニオンスープのフルコースだった。「マリオ、もうおかゆは卒業ね。今日はご馳走を作ったから、たくさん食べてちょうだい」。海老夫人が手によりを掛けて作ってくれた食事。私はゆっくりかみしめながら、ステーキから滴る肉汁を味わった。

  しばらく雑談をして、私は自室に戻り、学校へ行く用意をした。「今日はいい天気だ。久しぶりにヒッチハイクで行くか」。そうして遠距離バスの定時よりも少し早く出発した。国道21号線は相変わらず、車の流れが多かった。ここには信号も横断歩道も何もない。左右から車が来ていないかをよく見定めて、反対側へ駆け足で渡る。そして、いつものヒッチハイクだ。

  私はテキストブックのたくさん詰まったハンドバッグを右手に持ち、グッと突き出し、ドライバーがよく見えるようにアピールした。その成果はすぐに表れた。時速100キロ以上も出していただろうか、その車はキキキッと急ブレーキを掛けて前方に止まった。私は走りながら、「グラッシャス グラッシャス、ムヤ アマブレ(ありがとう ありがとう、ご親切に)」と叫びながら、車に向った。すると、「オーラ、マリオ。メ オルビダステ。ミラ ビエン ソイ ペドロ(やあ、マリオ。私を忘れたかね?よく見て、ペドロだよ)」。彼は、以前に数回私を乗せてくれたセニョール・ペドロ・マルティネスさんだった。街で小さな雑貨屋を営んでいるのであった。こうして私は、今日もヒッチハイクに成功し、街の中心にある学校に通うのであった。

エモロイデ 日本の言葉 痔ろうかな

ペドロさん またまたヒッチ お世話様

 
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 78. 2週間ぶりの学校。皆の反応は?

  私は駆け足で、2階のクラスに駆け上がった。すると、「オーラ、マリオ。コモ パサステ(やあ、マリオ。何をしていたんだい?)」。2週間も学校を休学していたのだから、仕方がない。先生には痔の手術でしばらく休むと言ってあったが、おそらく先生はその辺のことをはっきりとは生徒に説明していなかったのだろう。まあ、痔の手術で学校を休学するという理由までわざわざ説明する必要はなかったのかも知れないが。

  しかし、生徒の多くは、今まで一日も欠席しなかった私が突然2週間も休学したことに、非常な興味を抱いていた。私は皆にうそをつくのも嫌だったので、はっきりと「いや、痔の手術をしたんだ。前から悪かったが、急に痛みがひどくなって、それで手術をしなければならなかったんだ」と説明した。すると生徒の1人が、「へええ。日本人も痔にかかるんだ。日本の痔は私達アルゼンチン人の痔と同じかな?」と聞いてきた。

  世界どこへ行ったって、痔は痔だ。変わるものではない。しかし、彼らにとっては、特にここマルデルプラタは地方都市でもあり、日本人を見ることは非常に稀である。ましてや先生と同じ年の日本の青年が、自分達と一緒に勉強しているのだから、興味が尽きないのだろう。もちろん、アルゼンチンにも痔にかかる人はかなりいるらしいが、多くは女性で、それも出産後にかかるらしい。日本人みたいに、人口の半分以上が痔にかかっている民族とは違うようだ。

  その一番の原因は食生活、特に米食から来ているらしい。日本人はせっかちな人が多く、早食いが習慣になっている。そんなところも、大きな理由なのだろう。ここの人達は、あの分厚いステーキをゆっくりよくかみしめながら、一時間もかけて食べるのだから、消化にはいいだろう。したがって、一般の人はなかなか痔とは無縁である。

  なんだか知らないが、今日の授業はあっという間に終わってしまった。「マリオ、無事手術は終わったの?」。「おかげさまで、無事成功しました。また今日からお願いします」。マルッカ先生に簡単に挨拶をして、私は帰路に着いた。

エモロイデ 説明するは おもろいで

学校は 昔も今も 変わらない

 
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 79. 移民の国ならではの複雑な家族事情

  エモロイデ(痔)がきっかけで、それ以来、海老夫人が昼食と夕食を作ってくれるようになった。私はこのサービスに対して、月5,000ペソ(約5,000円)を夫人に支払えば良かった。朝食は今までどおり、簡単に自分で作れば良かった。おいしいご飯も食べられるし、片付ける手間もなくなるし、私にとっては非常にありがたかった。

  私の仕事を手伝ってくれているカルロス、オフェリア、そしてもう1人の兄弟エルネストは、ロベルトの農園を手伝っていた。不思議なことに、カルロスは色は真っ白で、いわゆる白人であったが、オフェリアは黒というよりも褐色がかった肌の色をしていた。そしてエルネストは全くの黒人であった。

  私が最初に彼らを見たときは、偏見からか、彼らが同じ兄弟だとは全く考えられなかった。しかし、ロベルトから彼らが同じ母親から生まれた兄弟だということを知らされ、唖然とした。ここにもアルゼンチンの複雑な歴史があるのだろう。ロベルトの説明によると、彼らの祖父ペドロは黒人で、今は亡き夫人オフェリア(ここでは、自分の名前を子供やその孫に付ける習慣がある)は、いわゆるクリオージャ(アルゼンチンの現地人、すなわちスペイン人と現地人の混血)であり、カルロスたちの母親マリアは、その長女として生まれ、彼女は全くの白人であった。そして、同じくクリオージョの今はもう別れた旦那と結婚し、2男1女をもうけたのだった。

  話によると、旦那は他に女を作ってどこかに行ってしまったという。そこで、マリアは3人の子供を今まで一生懸命育ててきた。両親とは一緒に生活していたが、母親は数年前に亡くなり、今は父親ペドロと生活をしているのであった。同じ母親から生まれた兄弟でありながら、肌の色が違うのはおそらく、祖父母からの隔世遺伝の結果であろう。

  アルゼンチンは他のラテンアメリカ諸国と違い、黒人が全くいない国であり、当時の人口2,500万人のうち、ほとんどはヨーロッパ人、特にスペイン人、イタリア人の混血であった。その他に、ドイツ人、フランス人、ユダヤ人らが比較的多かった。こういった移民による国であったが、昔は隣国ブラジルと同じように、ヨーロッパ人がアフリカから奴隷として連れてきた黒人もかなりいたらしいが、風土、気候、特に寒さのために黒人の数は減少していったと言われている。そう言われれば、私がアルゼンチンに移住して初めて見る黒人は、このペドロであった。彼はいわゆるガウチョ(アルゼンチン・カーボーイ)で、牛馬を扱うのが非常にうまかった。それで今でも牛車を引いて、どこへでも行くのであった。我々海老農園のショッピングは、すべてペドロに任されていた。

  最初ペドロ一家は、スペイン語もたどたどしい私を見て、「こいつはどこから来たんだ?何ができるんだ?」、そんな奇異の目で見ていたが、私が徐々にスペイン語を話すようになり、酒もタバコもやらず、仕事も真面目にこなし、ロベルトを凌いで見事に経営する有り様を知るに及んで、「この日本の青年は大したものだ。彼が家族の一員になったら助かるぞ」、そんな思いに変わったのだろう。

  それからは家族ぐるみで、私をオフェリアのノービョ(恋人)にしようと、積極的に働きかけてきた。確かにオフェリアは、濃い小麦色の肌をした愛くるしい少女であったが、おそらく私に外国人に対するというか、女性に対する偏見があったせいだろう、そう簡単に近づくことはできなかった。ましてやロベルトの夫人アリシアの生活態度に接し、彼女の日々の様子を見ていると、私にはとても受け入れることはできなかった。あのホルヘも今では私のアミーゴの1人だったので、私達の関係を察し、「マリオ、コモ アンダス コン オフェリア ジャ イシステ ス ノービョ(やあ、マリオ。調子はどうだい?オフェリアとうまくいってるかい?もう恋人になったかい?)」、そんな挨拶を交わしてくるのだったが。

  そんな中で、まもなく弟の来亜が近づいてきた。

アルゼンチン 移民の国は 複雑だ

朝夕と 日本の食事 幸福だ

 
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 80. 弟の博志からの手紙

  ついに、弟の博志から手紙が届いた。それによると、乗船日が決まり、10月の5日に横浜の大桟橋から出航するという。なんと不思議な縁であろうか、船はアルゼンチナ丸であるという。私の船と一緒だ。

  私の時は最後の移民船であったが、弟の場合は船が完全に改修され貨客船として出航するという。うらやましい限りだ。私の時は大部屋であったが、彼の場合は4人部屋になった。同じアルゼンチナ丸でも、大変な違いだ。

  そこで私は早速手紙を書き、大根の種とか醤油・味噌などの日本食を依頼した。こうなると、弟が着くのが待ち遠しい。私はその日を待ちわびながら、いつもと同じ生活を続けていた。

  太陽が昇り、屋根の隙間から射し込んでくる光線が、私の目覚まし時計であった。ベッドからガバッと跳ね起き、そのまま水道の水で顔を洗い、プチェーロの用意。じゃがいも・にんじん・かぼちゃ・たまねぎなどを大きめに切り、そのまま鍋の中に投げ込む。少々の塩をつまんで入れ、最後にプチェーロ肉を入れる。これを弱火で数時間放っておけば、花の切り終わった頃はもう素敵なプチェーロ料理が出来上がっている算段だ。今思うと、朝食にプチェーロ(牛の髄肉)料理を食べるなんて、大変な贅沢だ。弱火で長時間煮込んでいると、野菜のエキスとプチェーロの髄肉のエキスが見事に調和して、それは美味な、そして最も健康的な料理に生まれ変わる。私はそんな道理を何も知らず、ただただ料理が簡単だというだけで、作って食べていたわけだが。

  海老夫人も、弟が来ることは当然知っている。海老さんが保証人になってくれたからだ。元気な時は、しょっちゅう2人で「マリオの弟は、どんな人かねえ?マリオと同じように働き者であればいいのにねえ」などと話をしていたらしい。横浜港の大桟橋で別れてから、もうかれこれ4年近くになる。弟はどのように変わったか、それを見るのも楽しみだ。

プチェーロを じわじわ煮込む エキス出る

オフェリアは かわいいけれど アルゼンチン

 
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 81. 弟を迎えに、深夜バスでブエノス港へ

  とうとう、待ちに待ったアルゼンチナ丸の入港日が決定した。11月の24日だ。10月5日に出航したわけだから、実に50日間の船旅だ。この間、弟からの手紙は全くなかった。よく考えれば、船旅が楽しくて、とても兄貴に手紙を書く暇などなかったのだろう。そう考えることにした。私は手紙には結構マメで、しょっちゅう書いていたのだったが、同じ兄弟でもえらい違いだ。ただ同じ航路を来るのだから、私には弟がどのような船旅を送っているか明白に想像できた。

  こうしているうちに、暦は11月23日に変わった。ホテル代を節約するために、私はマルデルプラタの高速バスターミナルを夜11時半に出発するバスを予約した。そして1時間前にロベルトの車に乗せてもらって出発した。「マリオ、気をつけて。弟さんによろしくね。アサードを作って待っているよ」。

  早速、予約した夜行バスに乗った。約7時間で、ブエノスアイレスに到着する。600キロの距離を7時間でぶっ飛ばすのだから、大変なものだ。ドライバーは2人で、途中で交代するらしい。私は真ん中の席に座り、すぐにリクライニングシートを倒して、体を横にした。私もここでうまく寝てしまわないと、明日が大変だ。

  バスは出発した。頭の中でいろいろなことを考えているうちに、プツッと意識が途切れてしまった。若いということは素晴らしいことだ、すぐに寝れるから。まさしく7時間、朝6時半にブエノスアイレスのバスターミナルに到着した。車の中でぐっすり眠ったおかげで、目を開けた時はすがすがしかった。「よし、これから船着場だ」。ターミナルに止まっているタクシーを拾い、早速ブエノスアイレス港へ向った。ここからは15分くらいで、着くらしい。4年近くも住み、言葉も結構勉強したおかげで、この程度の会話はもうお手の物だった。

  港に到着した。前方を見ると、背の高い日本人がいた。亜国拓殖組合の須古さんだ。長身で特別なベレー帽をかぶっているから、遠くからでもすぐにわかった。走りながら、「須古さん、川島です。今日もよろしくお願いします」、「おお、川島君か、しばらくぶりだな。仕事も順調にいっているようだね。大したものだ。これで弟さんが来れば、文句なしだ。良かったね」。2人で本船の入港を待った。

須古さんの ベレー帽子は なつかしい

 
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 82. 弟と4年ぶりの再会

  完全に修復され、今や貨客船となったアルゼンチナ丸が、静かに入港して来た。今日は霧のない快晴であった。私と須古さんは、桟橋からその入港の様子をじっと見つめていた。「ああ、あれからもう4年近く経つんだなあ。弟も、もうすっかり変わったろう。あの時は中学生だったからなあ」。

  そしてついにアルゼンチナ丸は接岸した。と同時に、おそらくアルゼンチン人の船客だろう、タラップからどどどっと駆け足で下りてきて、「ジャ ジェガモス(さあ、着いたぞ)」と叫びながら、家族や友人の人だかりへ飛び込んで行った。

  私と須古さんは背伸びをして、どこに弟がいるか探したが、見つからなかった。「あいつ、何をしているんだろう。俺がわからないのか」。確認するためにタラップを駆け上がり、大声で叫んだ。「博志君、川島博志君はいませんか?」。2度、叫んだ。すると突然、傍にいた青年が叫んだ。「あ、兄貴じゃないか。兄貴だ!俺だ、博志だよ!」。「なんだ、お前か。見違えたなあ。すっかり変わってしまった。体格もがっちりしたし、全然わかんなかったよ」。「兄貴もすっかり変わったなあ。そのカストロ髭のおかげで、全く気が付かなかった。それに、日焼けもしているし。こっちの人間になってしまったんじゃないか?」。

  私はまるで気が付かなかったが、もうだいぶ前からもみあげをずっと剃っていなかった。1つは横着からだったが、もう1つの理由は当時アルゼンチンの若者の間にカストロ・チェ・ゲバーラ・ブームが起こっており、誰も彼もが彼らの真似をして、髭を生やしていたのである。私もその1人だった。特に、カストロたちとキューバ革命を実現させたヒーローの1人、チェ・ゲバーラは正しくアルゼンチン人だったので、若者の間で人気があった。

  私はそのことに全く気が付かなかった。弟は、まさか私がこんなに立派な髭を生やしているなんて、想像もつかなかったのだろう。急にこんなカストロもどきの髭人間が目の前に現れて、びっくりしたのだろう。自分の思っていた兄の姿とは、似ても似つかなかったわけだ。一方私の方は、中学生の華奢な体であった弟のイメージが強かった。後で聞けば、高校生活の間に柔道で鍛え上げたという。がっちりとした体格に変貌した現在の弟の姿は、私にはまったく想像すらできなかった。そんなわけで、私たち兄弟はこのように滑稽な対面を果たしたのであった。

博志君 川島博志 どこにいる

弟よ よくぞ来た来た ブエノスに

 
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 83. 弟を連れて市内観光へ

  弟は大きなスーツケースとは別に、中型のボール箱を持っていた。私の時は2つのスーツケースだったが、彼の場合は私から既にアドヴァイスを受けていたので、余分なものは一切持って来なかった。タラップの下で、亜国拓殖組合の須古さんが「ビエン ベニード(ようこそ)。無事着かれたね。船旅はどうでしたか?」と、早速弟に挨拶した。そこで私は弟に、「こちらが亜拓の須古さんです。私の時も須古さんが全て助けてくれました」と紹介した。「私が川島博志です。兄貴がお世話になっております。これからもよろしくお願いします」。それから私達は例の税関検査に向った。

  検査台に荷物を置き、スーツケースを開けた。税官吏はおもむろに蓋を開け、軽く手で中を調べた。今回は予め私が弟にアドヴァイスをしていたので、全く問題がなかった。「OK。バージャ バージャ(OKだよ。行っていいよ)」。こうして私達は無事に、そして一銭のチップも払わずに、税関を通ることができた。すると瀬古さんは、「川島君も、もうベテランだね。今回はうまくいった。それでは私はこれで失礼します。弟さんも、兄さんを助けて、頑張りなさいよ」と言い残して去って行った。

  弟はしばらく周りを見渡していた。「何かあるのか?なければもう行くぞ」、「いや、船の友達に挨拶したいんだが、もう行ってしまったらしい。仕方がない。行こう」。私達は桟橋のタクシー乗り場で1台のタクシーを見つけ、バスターミナルへ向った。バスターミナルまではものの15分も乗っていただろうか、すぐに到着した。

  しかし、ちょうど昼時だったので、バスの出発時間まではだいぶ時間があった。ブエノスアイレスとマルデルプラタ区間は600キロの長区間であり、私達にとっては夜行バスが便数も多く、一番便利であった。待っているロベルト達のことも考えて、11時の夜行バスのチケットを購入した。弟の荷物をロッカーに預け、私達はこの時間を利用して簡単な市内観光をすることにした。

  ここは私の腕の見せ所である。今までの色々な経験を生かさなければならない。早速タクシー乗り場に行き、1台のドライバーと交渉した。「これから市内観光をしたいんだ。いくらでやってくれるんだ?俺たちは日本という田舎から来たんで、お金はあんまり持ってないんだ」。すると運転手は、「そうか。君達は日本人か。日本人と中国人は同じではないのか?ここブエノスにはチャイニーズレストランがたくさんあって、皆金持ちだよ」と言った。「いや、俺たちは日本人だよ。中国人じゃないよ。彼らはここで商売が成功して金持ちだろうが、俺たちはたった今着いたばかりで、お金なんか持ってないよ。よろしく頼むよ」。私達の身なりを見てわかったのだろう、「そうか。仕方がない。それでは1時間300円でいいだろう」と言うドライバーに、すかさず私は「4時間も乗るんだから、200円だ。200円にしてくれ」と交渉した。「OK。それで決まりだ」。こうして、私達は市内観光に向った。

経験は うまく生かして 使うもの

若者よ 一にも二にも 挑戦だ

 
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 84. アサードとワインで歓迎

  まず、私達は食事を取ることにした。「今日は着いたばかりだから、特別ご馳走してあげよう」。私はタクシーの運転手に「それじゃあ、まずレストラント・ガウチョ(アルゼンチン・カーボーイ・レストラン)に行ってくれ」と頼んだ。このレストラントはブエノスで最も有名な焼肉の、すなわちアサードの店で、市内でも最も繁華街にあった。

  私達が着いた時はちょうど12時ぐらいであったが、ここブエノスっ子にとっては12時ではまだ早く、レストラントが混むのはだいたい14時近くであった。したがって、店はガラ空きであった。

  メセーロ(ボーイ)が、「さあ、どうぞこちらに」と言いながら、奥の席に誘導してくれた。座って間もなく、他のボーイが来て、注文をとった。「それでは、このアサードのスペシャルメニューを2人前ください」。そして赤ワインも頼んだ。「お前もアルゼンチンに来たら、ワインでも飲め。ここでは、肉を食べる時は必ずワインと一緒に食べるんだ」。先輩から言われた言葉を、そのまま繰り返しただけだったが。

  ほんのしばらく待っていると、オーダーした同じボーイが、大きなトレーに焼肉を山盛りに載せて運んできた。「さあ、これを食べてください」。弟はそれを見ると、目を大きく見開いて、「なんだこれは。兄貴、こんなに食べられないよ。生まれて初めてこんなに沢山の肉を見たよ」。それは正に私がアルゼンチンに到着し、ブルサコの仲屋農園でアサードを初めて目にした時の感激と同じであった。

  私達はナイフでその肉を切りながら、ゆっくり食べていった。時間を掛けてじわじわ焼いていくので、その肉の旨さが十分に残っている。それを少しずつほおばりながら、弟は満足そうに言った。「兄貴、うまいなあ。こんな肉、日本じゃ食ったことないよ」。1時間を掛けて、私達はアサードを食い尽くした。そしてボーイに、「クワント エス(いくらですか?)」と尋ねると、「全部で300ペソ(約300円)です」。当時のアルゼンチンの通過はペソで、ほとんど日本の円と同価値であった。弟はその値段を聞いて、再び「わあ。安いなあ。日本じゃとてもこんな値段じゃ食えないよ」と驚嘆した。最後に、私はその値段の1割に相当する30ペソをチップとしてテーブルに置いた。「兄貴、なんだそれは?」、「ここではレストラントなどに行った時は、必ずチップを置くのが習慣なんだ。まあだいたいその値段の1割が相場だよ」。

  私も日本に比べて安いとは思うが、もう4年近くもアルゼンチンに住んでいるので、日本の様子はほとんど記憶になかった。思い出すのは、高校でテニスをプレイしていた時に、毎日母から100円をもらい、昼食時にテニスコートの近くにある駄菓子屋へ行き、その100円で牛乳とあんパン2個を買って食べていたことである。そのことを考えると、このぜいたくな食事で、しかも弟と2人で300円とは、実に安い。確かに人口の倍の数の牛がいる国だから、食事代がこんなに安いのも納得がいく。そしてその他にも馬、羊、やぎなど、こんなに豊かな国はないだろう。

アサードは アルゼンチンでは 当たり前

赤ワイン 肉と一緒に 食べるかな

弟よ この豊かさが アルゼンチン

 
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 85. 弟から聞いて知った日本の事情

  こうして私達は、腹いっぱいアサードを食べ、タクシーに戻った。タクシーの運転手もその間、どこかで適当に食事をしていたのだろう、私達が戻った時は既に出発の用意はできていた。

  「それじゃあ、カッサ ロサーダ(レッドハウス)に行ってください」。米国のホワイトハウスを真似したわけではなかろうが、ここの大統領府の建物は赤味がかっていて、レッドハウスと呼ばれていた。期待が大きかっただけに、実際見てみるとそれほど大きな建物ではないが、コロニアル風の情緒は保たれていた。

  それから、市の中心街にあるオベリスコ(独立記念塔)を見たり、その他2,3の歴史的建造物を見て、私達はバスターミナルへ向った。ちょうど4時間、正確に言えば4時間と5分のタクシーによる市内観光は終了した。

  運転手は、「ちょうど4時間だから、800ペソでいいよ」と親切に言ってくれたので、私はチップも含んで900ペソを渡した。それを見た運転手は、「ありがとう、ありがとう」を連発し、最後に、「ブエン ビヤーヘ(いいご旅行を)」と言った。ラテン圏では、別れる時にはこの言葉を使うのが習慣なのである。

  「博志、時間が中途半端だから、バスが出発するまでここにいよう。ここなら軽い食事も取れるから」。私達はバスターミナルをぐるっと歩いてみることにした。アルゼンチン中の各地へと長距離バスが出発し、また到着してくる。しかも1日中ひっきりなしに運行していて、この国におけるバスの運行は、汽車の活用とは比べ物にならない。したがって、ターミナルをゆっくり歩いていたら、相当な時間がかかってしまう。ざっと周りを見回しただけで、何十台もの大型バスが出たり入ったりしている。私達はバスの切符を無くさないように、しっかり握っていた。無くしてしまったら、どこで乗っていいか、わからなくなってしまう。

  しかし、まだ2時間もある。「アサードも、もう消化したみたいだな。何か食べよう」。弟にこう言って、ターミナル内の食堂に向かった。ここでは簡単な鶏肉のサンドイッチを買った。この時はワインではなく、コカコーラを頼んだ。テーブルに座りながら、私は少しずつ弟に質問した。「お前は高校で何をしていたんだ?中学の時はたしか俺と同じく軟式テニスをやっていたなあ」。「1年の1学期は軟式をやっていたけど、2学期から柔道を始めたんだ。3年までやって、2段を取った。まあ、そんなに活躍はできなかったけれど、結構強豪と試合をしても負けはしなかった。引き分けに持ち込むのがうまかったんだ」。

  弟は高校を卒業し、この船に乗船するまで農業研修所に通い、そこでトラクターに引かれたり、大変な目に遭ったらしい。また花作りを勉強するために、千葉の房総半島に行って、実際花作りを体験したが、だいぶこき使われて、散々な目に遭ったという。まあ、それもいい経験だ。

  日本もこの4年間でだいぶ変わったらしい。高度経済成長の波が早く、物価も賃金も恐ろしいスピードで上昇しているらしい。その点、ここアルゼンチンの流れは実にゆったりしていて、逆にペソの価値は下がる一方で、日本の円の価値と逆転してしまった。「俺も弟から色々学ばなくてはいけないかな」。この時、私は痛烈にそう感じた。

弟よ 教えてほしい 日本の事

 
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 86. 深夜バスを降りて、海老農園へ

  私達は、午後10時半のバスに乗った。ブエノスアイレスからマルデルプラタまで、600キロメートルの道のりだ。幸いアルゼンチン内の長距離バスには、ほとんどリクライニングシートが付いているので楽だ。特に弟は着いたばっかりで、しかも半日の市内観光をした後なので疲れていたのだろう、席に座った途端、軽いいびきをかきながら眠ってしまった。私も弟の横顔を見ながら、「こいつも見ないうちに、たくましくなったなあ」。これから一緒に仕事をすると思うと、何か胸にじっとこみ上げるものがあった。そして、いつのまにか私も寝てしまった。

  バスの中がガサガサしてきた。私達もその雰囲気を感じて、目を覚ました。時計を見ると、もう朝の5時を指していた。そしてバスは、マルデルプラタのひとつ前の駅に停まった。運転手が大声で、「お客さん、最後のストップです。トイレに行きたい方、何か軽食を食べたい方は、早くしてください。15分の休憩を取ります」と言った。気が付くと、おなかがグーグー鳴っている。「おい、博志。腹が減っているか?」「うん、なんか食べたいなあ」と言った。私達は他の乗客とともに下車し、食堂へ向った。

  食堂には色々なメニューがあったが、時間を考えて、私達はハム・野菜サンドイッチを注文した。それと、カフェコンレッチェ(ミルクコーヒー)を。私は、もともとコーヒーがあまり体に合わなかったので、ミルクをたくさん入れた。したがって私の場合は、カフェコンレッチェではなくレッチェコンカフェであろう。そして、小さじ2杯の砂糖を入れた。食事の後、トイレに寄ってバスに戻った。

  ここからマルデルプラタまでは、もうすぐだ。おそらく50キロを少し走ったぐらいだろう、6時にはマルデルプラタのバスターミナルに着いてしまった。「博志、ついに着いたぞ」。私は、弟の軽い方のバッグを持ってタクシー乗り場に行き、そこに待っていた運転手と交渉した。「ラグーナベルデ(緑の泉)まで行きたいのだが、いくらかね?」、「300ペソだ」、「高い。200に負けろ」、「OK」。こうして私達は、ラグーナベルデの海老農園に帰った。

バスの旅 あっという間に もう着いた

若いこと 何をするにも 疲れない

 
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 87. 海老ファミリーと弟の対面

  海老農園に着いたのは、朝の7時を少し回った頃だった。ロベルトは、まだ起きていなかった。いつものことだ。すると、ペドロが私達に気が付いて、「マリオ、お帰りなさい。一緒にいるのが弟さんかね?」と声をかけてきた。さすがに、彼らは早起きだ。朝からマテ茶を飲みながら、ゆっくりしたものだ。

  「ドン ペドロ、これが弟の博志です。よろしくお願いします」。そして弟に、「お前からも挨拶するんだ」と催促した。「なんて言ったらいいんだ?」、「そのぐらい日本で習わなかったのか?、ムーチョ グスト メジャモ ヒロシ カワシマ、そう言ってみろ」、「ムーチョ グスト ソイ ヒロシ(よろしく、ヒロシです)」。ドン ペドロは(アルゼンチンでは年配者に対して敬意を表する意味で、「ドン」を付ける習慣がある)、「こちらこそ、よろしくお願いします。何かあったら、おっしゃってください」と笑顔で答えてくれた。

  まだ海老ファミリーの姿が見えなかったので、私達は直接自分達の部屋へ向った。「ヒロシ、むさくるしい所だが、ここで我慢してくれ。ひどい雨の時は、雨漏りするからな。この部屋の真ん中にバケツを置いておくんだ。何しろ床なんてものはない、土をならしただけだ。俺も早いもので、ここに2年近くいるが、すっかり慣れたよ。お前も早く慣れないとな。今は疲れたろうから、ゆっくり休め。俺は今から花切りをしないといけない。昨日の分も溜まっているからな」。こう言いながら作業着に着替え、私は温室へ向った。

  花を切り終えて、それをガルポン(小屋)に運び、100本ずつのパッケージにしていると、ロベルトがやって来た。「マリオ、弟さんが着いたんだね。今日はアサードにしよう。今、皆で用意しているからね。もうすぐ弟さんを連れて来てね」。「ロベルト、すいません。弟は着いたばかりですっかり疲れてしまって、今寝ています。もう少し経ったら、起こして連れて行きます」。今日の昼は、おかげでアサードのご馳走だ。弟もきっと喜ぶだろう。

  弟を起こして、アサードを作っている場所に行った。そこにはロベルトを始め、海老夫人、アリシア、ペドロ、ホルヘ、カルロスらが、アサードを焼きながら、にぎやかに話をしていた。「皆さん、弟を紹介します。こいつが今、日本から輸入したばかりの新品です」。すると、この私の下手な冗談が通じたのか、皆がどっと笑った。「ビエン ベニード(ようこそいらっしゃいました)」。弟は、再び「弟のヒロシです」とあいさつし、「ムーチョ グスト(よろしくお願いします)」を付け加えた。すると、ホルヘが口を挟んだ。「ヒロシ、ヒロシとはどう書くんだ?」。私はとっさに、「アチェ イ エレ オ エッセ アチェ イ」と答えた。「え、それじゃあイロシじゃないか?これでいいのか?」。スペイン語においては、アチェ、すなわちHは発音しない。日本ではヒロシはHIROSHIと書くが、スペイン語圏ではこれをヒロシとは発音せず、イロシになってしまう。

  だが、その話はこれでおしまいになってしまった。もう、私達には焼きあがったアサードの方が大事で、今か今かの瀬戸際である。こうして、私達は腹いっぱい、熱いアサードを食べたのである。

アサードを いくら食べても なくならない

弟よ アルゼンチンの 焼肉だ

 
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 88. 翌日の朝は・・・

  翌日、いつものように朝早く起き、温室へ向った。弟は来たばかりで、まだ旅の疲れも残っているだろうと思い、そのままにしておいた。

  花を切り終わり、ガルポン(小屋)に持って行き、100本のパケーテ(束)にし、水の入ったバケツに入れた。これらの作業を一通り終えて、部屋に戻った。弟はまだ、眠っている。私はもういいだろうと思い、声をかけた。「おい、ヒロシ。起きろ」。私の声に気がついた弟は、「兄貴、まだ眠いよ。ほっといてくれ」と言って起きようとしない。私は仕方なくそのまま放っておいた。

  今朝はプチェーロを作るのを忘れてしまったので、簡単にミルクコーヒーを作り、それに砂糖をたっぷり入れて、パンドゥルセ(菓子パン)を取り出し、ミルクコーヒーに浸しながらほおばった。私は元々、酒もタバコもだめで、甘党であった。私の大好物は、おはぎと大福であった。正月には、おしるこを10杯もおかわりして、母をびっくりさせたこともあった。それほどの甘党であった。

  この簡単な朝食を済ませ、再び温室へ向った。途中、ロベルトと顔を合わせた。「マリオ、弟さんはどうしているの?一緒に仕事をしないの?」、「旅の疲れで、まだ寝ているよ」。こんな会話をしながら、別々の温室へ向った。

  「今日は草取りでもやるか」。そう思いながら温室の中に入り、ひざを曲げて、苗床に生えている草を右手を伸ばして引っこ抜き、通路に投げ捨てる。この要領で温室の中を這い回りながら、苗床に生えている全ての草を取り除いた。

  この作業は、冬の寒い時は特に大変だ。凍った土にひざを突きながら這い回るのだから、体の芯まで冷えてしまう。私が痔になってしまったのも、激しいテニスプレイをした後、すぐにグラウンドに座ってしまっていたのが一番の原因らしいので、こうした作業で足を冷たくしたり、体を冷やしたりするのは、痔にとって決して良くはない。しかし、温室に入ってしまうと、ついそのことを忘れてしまう。

  こうして草取りが終わったので、再び部屋に戻った。時計を見ると、もう10時を過ぎていた。さすがに、もう弟は起きているだろう。そう思いながら、部屋に入った。

弟よ 早く起きろよ 仕事だぞ

 
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 89. 船旅話

  なんと、弟の奴はまだ寝ていた。そこで、「ヒロシ、起きろ!もう昼飯だぞ」と言いながら、毛布をはがした。「なんだ兄貴、まだ眠いよ、もっと寝かせてくれよ」。「いや、もうだめだ。起きろ」。毛布をはぎとって、それを隣の私のベッドに放った。そうしてやっと、弟はベッドから起き上がったのである。

  弟にはカフェコンレッチェ(コーヒーミルク)を作ってやり、それに菓子パンを出した。「これが、アルゼンチンでは最も一般的な朝食だ。俺は甘党だから別に違和感はなかったが、お前は嫌いか?」。弟はだいぶおなかがすいたと見えて、何も言わずに菓子パンをほおばった。「兄貴、けっこうおいしいよ」。朝食が終わった後で、私達は色々な話をした。

  弟はまず、船旅のことを話してくれた。彼らの航海は私の時とは違い、貨客船であったので、横浜港を出港し、次に寄港したのはハワイ、ホノルルであった。そこでは、市内観光やらポリネシアン・ショーなどを見学し、それはそれは楽しかったそうだ。私の時は最後の移民船で、しかも移民の数はわずか14名であったので、船長は早く到着して経費を削減するためにハワイには寄らず、直接ロスアンゼルスへ向ったのであった。したがって、私達は楽しみにしていたハワイ観光はできなかった。弟の話を聞いて、本当に残念な思いがした。

  その後、ロスアンゼルス港に入港し、停舶時間を利用して、仲間たちと市内観光をしたらしい。私達の時との一番の違いは、私達の船は全くの移民船で私達が眠った部屋は一番下の大部屋であったのに、弟達の場合は貨客船として各部屋は4人部屋であり、その待遇は天と地の差があった。同じ移民でも、最初からこうも差が付いているとは。その流れはアルゼンチンに到着してからも続いている。自分の時はパトロンと喧嘩して、あっちへ行ったりこっちへ行ったり大変だったが、弟の場合は私という身内がいるから、甘えられる。なんとうらやましいことか。

  その後は、パナマ運河を通過してキュラサオ港に入り、そこで弟は、仲間と一緒に初経験を果たしたらしい。彼にとって、今回の航海は本当に楽しい、素晴らしい旅であったようだ。たくさんの友達もでき、彼にとって素晴らしい人生の体験であった。「そうか、俺の時とはだいぶ違うなあ。俺の時は全く移民船だ。お前の場合は、まるで普通の旅行者じゃないか。それは良かったな」。色々話を聞いてみると、弟の目的は、たまたま自分の兄がアルゼンチンに移民として行ったので、その機会を利用してアルゼンチンを知ってみよう、ということだったようだ。別に生涯アルゼンチンにいようなどということは、全く考えていなかった。

アルゼンチン 兄の待ってる ブエノスへ

ブエノスへ ごじゅうよっかの 船旅で

 
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 90. 弟と私の意識の違い

  次の翌朝も、弟は遅くまで寝ていた。「ヒロシ、起きろ。これから花切りだ」、「まだ眠たいよ。寝かしてくれよ」。私はもうそれ以上無理強いはしなかった。「しょうがない。俺と奴の立場は違うんだ。それに奴には花の仕事は向かないらしい」。

  この2,3日の弟の様子で、弟には私が持っていたような意識、アルゼンチンに永住して何かを成すというような気持ちが全くなく、ただ兄がアルゼンチンに居るので、悪く言えばそれを利用して、何らかの知識、経験を得るという軽い気持ちであることがわかった。「まあ、それもいいだろう」、そう思いながら、私は温室に直行した。

  ロベルト、そして海老夫人も、そのことを感じたのだろう。私を見ると、心配そうに、「マリオ、弟さんはどうだ?仕事はもう慣れたかい?早く俺の方の温室も手伝ってくれよ」と言ってきた。「そうですね。少しずつ説得します」。あまりはっきり言ってロベルトを心配させるより、しばらくはこのように遠まわしに言った方が、私達と海老家との関係もうまくいくと考えた。食事のことも、大事だ。へたに彼らの気分を害して、食事を作ってくれなくなったら、それこそ私達にとって大問題である。

  こうして時間が経ち、非常にゆっくりしたペースではあったけれど、弟もなんとか田舎の生活に慣れてきた。朝起きるのは相変わらず遅いが、花作りや水掛け、その他の作業も少しずつではあるが、手伝ってくれるようになった。それだけでも、私は大変助かった。

  そして、とうとう待ちに待った夏休みが始まった。「今年もホセとノルマが来るぞ。またスペイン語を教えてもらおう」。私はそれが何より楽しみだった。

弟よ もっと勉強 してほしい

夏休み 待ちに待った 夏休み

 
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 91. ビーチでの柔道が、思わぬチャンスに

  アルゼンチンは南半球に位置し、日本とは全く正反対にある。したがって、東京から地球の芯に向ってまっすぐどんどん穴を掘っていったら、やがてはブエノスアイレスにたどり着くのだ。したがって、日本の冬はアルゼンチンでは夏にあたり、もう12月に入ると夏休みに入り、学校は全て休業となる。

  私の期待したとおり、ホセとノルマは12月に入るとすぐに、例のフォルクスワーゲンに乗ってやって来た。「オーラ、マリオ。元気かい?仕事も勉強もうまくいっているかい?」。こんな会話から始まった。私は早速、弟を紹介した。「へえ、弟さんか。名前は何て言うの?ヒロシ?どう書くの?HIROSHI、これでヒロシと読むのかい?ここではイロシになっちゃうよ。まあいいか。そうだ、早速明日プラジャ(海岸)に行こう。連れてってあげるよ」。

  こうして、マルデルプラタのビーチに行くことになった。この時は誰も、まさかそんな結末になるとは想像していなかった。マルデルプラタのビーチはとても綺麗な砂浜で、それが延々と何キロも続いていた。そこには、たくさんの人が寝そべっていたり、ボールを蹴ったり、またビーチバレーをしていたり、子ども達が砂遊びをしていた。私達もその様子を眺めながら、ひとまず空いている場所にビニールを敷き、そこに座った。

  するとヒロシが、「兄貴、柔道をしよう。投げの型ぐらい、覚えているだろう?」と言った。「まあな。俺は柔道部には入らなかったが、中学の正課で柔道を習い、結構強かったからな。アルゼンチナ丸では、柔道2段の人と組み手をやったが、一度も投げられなかった。まあ、俺も投げることはできなかったが」。「そうか、じゃあ早速始めよう」。弟は私を引っ張り出し、早速「一本背負い」や「巴投げ」などを始めた。すると、周りに人が集まってきて、「ハポネス、柔道家、柔道家」と叫んだ。そのうちの1人の紳士が寄って来て、「あなた方は日本の柔道家ですか?私はヒメネスと言います。ここでレスリングの道場を開いています」と言うと、ホセが乗り出してきた。さすがプロのセールスマンである。この後、私達はヒメネス氏のレスリング道場に赴いた。

  ヒメネス氏が言うには、ここマルデルプラタにはまだ柔道場はないとのことだった。そこで、今あるこのレスリング場を利用して、ここで柔道を教えたら、きっとうまくいくだろうという。話はとんとん拍子に進み、結局来週から、ヒロシが柔道の先生として仕事をすることになった。弟はこの成り行きにまだ半信半疑であった。「自分は高校で柔道クラブに入り、2段を取っただけだ。とても人に教える力はない」、そう思っていたのだが、そこはさすがにプロのホセ、「ヒロシさん、ここでは誰も柔道なんて知らないよ。まして、ここはブエノスと違って、田舎の町だよ。あなたの力で十分通じるよ。頑張ってね」というホセの言葉で決まった。

  弟も覚悟を決めたらしい。考えてみれば、これこそ弟に与えられた素晴らしいチャンスであろう。私のところで嫌いな花作りを手伝っているより、よっぽど勉強になるし、お金にもなる。こうして、弟のヒロシは翌週から、柔道のプロフェッサーとして、町に通うようになった。人間の運命、人生のきっかけとは、不思議なものだ。

出会いとは 不思議なものだ 素晴らしい

今、生きよ 明日のことは わからない

 
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 92. 今の立場に疑問を抱く

  私は相変わらず、花の仕事を続けた。弟が柔道の先生として働くことが決まり、ホセとノルマは有頂天だった。それも自分の言葉で弟の態度が決定したのだから、ホセは鼻高々だった。

  家に帰り、早速「ロベルト、今日はすごかったぞ。ヒロシさんが来週から柔道の先生として、活躍するんだ」。ロベルトはそれを聞いて、「へええ、それはすごい。柔道の先生か」とは言ったものの、内心は期待していた温室を増やすことを、これで断念しなければならないことを確信したようだった。しかし、表立ってその気持ちを表すことはできない。私の内心も、複雑だった。

  柔道のプロフェッサーとして契約では、給料3万ペソ、プラス生徒の増員数によう歩合給であった。弟も最初のうちは不安そうだったが、徐々に教えることの要領を学んでいった。一週間も経つと、自信がついたのか、「兄貴、この仕事もなかなかおもしろいよ。かわいい子もたくさんいるし。俺に合っているのかな」。そんな会話が出るようになった。

  こうして弟の、自分とは全く違った生活ぶりを見ていると、私は改めて自分の将来に疑問を抱いた。「俺は、ここでこんなことをしていていいのか。花作りもただ生活するだけなら結構楽な商売だが、だんだん花作り業者も増えてきて、市場も年々縮小している。これでは、将来性は全くない」。さらに、弟から船で一緒になったA君のことや、日本が東京オリンピックを境に素晴らしい勢いで経済成長を遂げていることなどを聞くにつけ、自分の現在の姿に疑問を持たざるを得なかった。

  弟の話に出てくるA君の場合は、農業移民ではなく、工業移民という形での来亜であった。彼は工業高校電気科を卒業し、2年間ほどあるメーカーで電気工として働いていたが、ふとしたきっかけでブエノスで成功している赤井電機の技術者として呼び寄せられることが決まったのであった。したがって、その契約内容も我々農業実習生の内容とは全く異なり、初めから給料も高く、契約期間も2年間であり、生活するマンションの経費も全て会社負担であった。

  私はこのことを知り、ますます自分の現在の立場に疑問を抱くようになった。「俺は、ここでこんなことをしてはいられない。ブエノスで何か商売を探してみよう」。そして、色々なつてを探したところ、千葉県人会のメンバーに、島津さんという戦前からの移住者がおり、ブエノスで商社を営んでいることがわかった。早速、私は島津さんに手紙を書いた。その返事は、意外と早く返ってきた。こうして、私の運命は大転換を遂げるのである。

ブエノスに 行ってみようよ 夢を持ち

 
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 93. 新しい商売を探しにブエノスへ

  そして、私は弟に相談した。「ヒロシ、今度の土・日、ブエノスに行ってみよう。お前の友達にも会いたいし、俺は島津さんと会って、話をしたいんだ」。「わかった。それじゃあAに電話をするよ。彼のマンションは2LDKだから、そこに泊めてもらおう」。こうして、私たちのブエノス行きは決定した。

  もちろん、島津さんにもアポイントメントは取った。同じ千葉県出身ということで、興味を持ってくれたようだ。弟の柔道のクラスは月曜から金曜日で、朝の10時から午後の5時までであった。金曜日の最後のクラスが終了した後、私たちは夜行便でブエノスに出発した。

  もう、初めてのバス旅行ではないので、すっかり慣れたものだ。この高速バスも乗ってみれば実に便利で、スペースもゆったりしているし、リクライニング・シートなので楽に座れる。夜行バスで行けば、翌朝には着いてしまうので、時間も1日もうかる。値段も安く、私たち庶民にとっては非常に便利な乗り物である。故に、この国では鉄道がいつまでたっても発達しないのであろうが。

  朝の6時に、ブエノスのバスターミナルに到着した。「ヒロシ、まだ早いから、今A君の所に行っても迷惑だろう。近くのカフェテリアに行って、朝食を取ろう」。私たちはターミナルに接続しているカフェテリアに入った。そこで、ブレックファーストの定食を注文した。「ヒロシ、お前の柔道のクラスはどうだ?うまくいっているか?」。「まあ、なんとかやっているよ。生徒も少しずつ増えてきているよ。でも、給料の方は全く増えやしない。こんなもんかな」。「そうか、お前も将来のこと、色々考えなきゃいけないな。日本の方はどうだ?」。「兄貴が行ってから、日本の景気はかなり良くなっているよ。実を言うと、俺はここで兄貴と一緒に仕事をするつもりはないよ。ただ、兄貴がここにいるから、このチャンスを利用して海外のことをよく勉強しようと思っただけなんだ」。

  私は、この弟の言葉を聞いて、非常なショックを受けた。そして、自分の現状にさらに大きな疑問を抱いた。「俺だって、こうしてこのままこの国にいて、いいものか。何かもっと違ったことを、やってみよう。それには島津さんと会って、よく話をしなければ」。時間を見計らって、私たちはタクシーに乗り、A君のマンションに向かった。

弟よ 将来のこと 考えろ

ブエノスに 夢に向かって 突っ走れ

高速の バスに揺られて ブエノスに

 
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 94. 好待遇の電気技師

  A君のマンションは、すぐにわかった。ブエノスの繁華街の一角にある高層ビルの中のマンションだった。インターフォンで、「おはようございます。川島博志です。今着きました」と告げると、「おお、博志君か。今開けるからな」という返事と同時にブーッとドアが開いたので、私たちは中に入った。エレベーターに乗って、6階にある彼のマンションに行き、ドアに着いているブザーを押した。

  A君は起きたばかりらしく、寝間着のまま出てきた。「どうぞどうぞ。気楽にしてください。お兄さんのことは、博志からよく聞いていました。お会いできて光栄です」。気さくに挨拶をしてくれた。「あなたのことは、弟から聞いています。電気技師としてこられたんですって?素晴らしい待遇だそうですね。このマンションを見てもよくわかります」。私も気さくに答えた。A君が出してくれたカフェコンレッチェを飲みながら、3人でしばらく雑談した。

  A君が、「ヒロシ、もうしばらくしたら山本君が来るよ」と言った。「山本さんが?よく土曜日に来られますね」「何か特別に許可をもらったらしいよ。うちの会社は土・日は休みだからな」。私はこの会話を聞きながら、同じ移民できたにもかかわらず、なんという待遇の差かと感じた。私の場合は、休みはわずかに日曜日の午後だけである。そして、太陽が昇って日が沈むまで、一日中働かなければならない。私はこの条件の違いに驚愕し、これからの移民のありかたも考えなければならないと思った。

  お昼近くになるとピンポーンと音がした。「山本だ」と言いながらA君はドアを開けた。「皆さん、おはようございます。ヒロシ、元気か?お兄さんですか?お話は伺っております。大変な苦労をされたらしいですね」。移民としては私の方が先輩だが、山本氏は大学を卒業し2年ほど社会人を経験したので、歳は私よりいくらか上だった。彼の歳で、これから花作りを覚えるのは大変な苦労だろうと、私はその時感じた。この直感は的中し、その後しばらく経って、彼は農園を離れ、ここブエノスに職を求めて出て来ることになったのである。

  弟が乗ってきた貨客船アルゼンチナ丸での同室の仲間4人のうち、もう1人の中島氏は、山本氏と同じく近くの花卉農園の実習生として入ったそうだが、今日は来られないということだった。したがって、私を入れた4人で会話は弾んだ。

弟よ 君の待遇 うらやましい

時経てば 移民の姿 変わったね

 
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 95. アルゼンチン美人、パオーラさん

  彼らの話の内容は、私にとっては驚くことばかりであった。日本は東京オリンピックを境にして、驚異的な経済発展を遂げているとのことであった。私が日本を発った時は、日本の円とアルゼンチンのペソの価値はほとんど同じであったが、わずかこの4年くらいの間にペソは下落し、円の価値は固定相場により上昇しないまでも、賃金は確実に上がっているとの話だった。特に電気技師として来亜したA君の場合はそういう背景もあり、我々農業枠で来た実習生とは労働条件に格段の違いがあった。A君を呼び寄せたブエノスの日系商社は、亜国拓殖組合のメンバーであり、そこから情報を入手して、自分たちで直接呼び寄せるより海外移住事業団を利用した方がはるかに有利だと考え、その枠を使ってA君を呼び寄せたのであった。私が実際にこのような社会の仕組みを知るのは、もっと後になってからであったが。

  「これから皆でアサードを食いにいこう」、A君が言った。「俺の家から歩いてすぐだ。ここはセントロにあるから、どこに行くにも便利だ」。こうして午後1時ごろ、私たちはアパートを出た。目指すはレストラン・ガウチョである。弟は小さな声で私に「兄貴、ひょっとしたら初めてブエノスに着いた時に行った、あの店かな」とささやいたが、まさしくその店であった。私たちは、そのことについては何も言わなかった。ガウチョまでは、歩いて10分もかからなかった。

  レストラン・ガウチョは、繁華街の中心に位置していた。A君が「悪いけど、ちょっと待ってくれる?ここで彼女と待ち合わせしているんだ」。私たちは仕方なしに、しばらく彼に付き合った。10分も待ったであろうか、A君が目を輝かせた。「オーラ、パオーラ、テ エスペラーバ(やあ、パオーラ。君を待っていたんだよ)」、こう言いながら前方からやって来た女の子に声をかけた。彼女は近づいて来て、「オーラ、コモエスタン ステデス ソイ パオーラ ムーチョ グスト(やあ、皆さん、ごきげんいかが?私はパオーラです。よろしくね)」。私たちはその女の子の姿を見て、唖然とした。なんてかわいい、きれいな子なんだ。スタイルも抜群だ。こんな子、日本でも見たことがない。

  A君は、こんな私たちの様子を見ながら、誇らしげであった。これも、彼のパーフォーマンスだったのだろう。周りを見るとかわいい子はたくさんいるが、パオーラほど素敵な女の子はなかなかいない。そこで、私たちはA君に聞いた。「どこで彼女と知り合ったんだ?」「この間、うちの会社がスポンサーとなって商品の展示会をしたんだ。その時、モデルとして呼んだ中の1人だ」。それにしても、運のいい奴だ。世の中にはA君みたいに、いつもついている人間もいるのだ。おかげで、私たちもこの素晴らしいアルゼンチン美人と一緒に、アサードを腹いっぱい食べることができたけれど。

パオーラさん アルゼンチンの 美人だね

パオーラさん こんな美人 見たことない

 
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 96. 島津さんに相談をして

  私たちは、腹いっぱいアサードを食べた。話は尽きなかったが、私はこれから、千葉県の先輩島津さんに会いに行かねばならなかった。「すまないが、俺はこれから仕事のことで人と会わなければならないので、ここで失礼するよ」、そう言いながら弟に「これで後でお前とおれの分を払ってくれ」とお金を渡し、皆に挨拶をしてレストランを出た。

  島津さんとは自宅で会うことになっていた。電話で聞いておいた住所のメモをタクシーの運転手に渡した。「すまないが、その住所に行ってくれ」。そこはブエノスの市内にあり、車でほんの20分の所にあった。私は運転手の言った金額に少しばかりのチップを足して払い、島津さんの家へ向かった。

  ブエノスの街は、本当に素晴らしい。とにかく街路は碁盤の目のようにきちんと整理されており、すべての通りには名前が付けられ、左右の一方は奇数で表示されており、片方は偶数表示となるので、どこに行くにも通りの名前と番号さえわかれば、どんな田舎者でも簡単に目的の場所へ到達することができるのであった。「俺の住んでいた千葉とは、全く違う。大したものだ。土地が広いということは、素晴らしいことだ」。

  島津さんの家は、ビルの6階のマンションであった。そして、ついに私は千葉県人の大先輩、島津商会社長の島津さんに面会した。「島津さんですか?初めてお目にかかります。川島です。よろしくお願いします」、「おお、川島君か。これはようこそ。どうぞ、中に入って」。島津さんは私を居間に入れてくれた。

  「気楽にしてください。君は千葉高卒だって?有名な進学校じゃないか。それがどうして、こんな所に農業移民で来たんだ?進学しなかったのか?」「色々事情がありまして、その時たまたまブラジル移民の話がブームになり、私たちの高校の中に、それに関心を持つグループができて、皆でブラジル移民を考えていましたが、結局年齢制限のことや家族の問題などがあり、最後には私一人がここアルゼンチンに花卉実習生という枠で来ました」「そうか、色々なことがあったんだね。スペイン語はどこで勉強したんだ?」、「マルデルプラタの小学校を3カ月で卒業した後、たまたま私がお世話になった家族の長男が夏休みに来られて、その方の彼女が小学校の先生をしていて教えることが好きだったので、運良く彼女からも教わることができたのです」。

  それから千葉のことや家族のことなど色々話した。島津さんはすっかり私のことを気に入ってくれた様子で、こう言った。「君だったら、いつでも歓迎するよ。決まったら、連絡してくれたまえ」「ありがとうございます。私もマルデルプラタの花のこともありますので、それらが片付いてから、連絡させていただきます」。こうして、私はA君のアパートに戻ったのだった。

ブエノスに 出てきて何を すればいい

これからは 島津商会 働くぞ

 
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 97. 再び4人で会話は弾む

  アパートでは、A君と弟の博志と山本さん、そしてパオーラが楽しそうに会話をしていた。「オーラ、ただ今戻りました」。弟は心配そうに、「島津さんとの話はどうだった?うまくいったか?」と聞いてきた。「素晴らしい人だ。気に入られて、いつでも働きに来てもいい、と言ってくれた。早く帰って花の仕事の区切りを付けなくては」。それから私も会話の仲間に加わった。

  彼らの話を聞けば聞くほど、彼らにとって船の生活は素晴らしいものであったようだ。「俺の時とは雲泥の差だなあ。何しろ、最後の移民船だったからなあ。君たちのように個室じゃないし。何百人も寝られる大部屋に入れられて、若夫婦なんか、カーテンで仕切りを作って、その中に寝ていたんだ。無知な俺は、それが何のためかよくわからなかったよ。もちろん、今はわかったが」。「へええ。お兄さんは本当にうぶだったんですね。博志からはよく聞いていましたが。それじゃあ、どこにも行かなかったんでしょう?」。A君が言った。「そう、その通りだ。今思うと、本当に残念なことをした。もう二度とあの船の経験はできないからね。そこへいくと君たちはラッキーだよ」。

  話は尽きない。大学を出て、社会人を経験した山本さんの場合は深刻だった。私が杉田農園で経験したのと同じように、朝から晩まで花の仕事をしなければならなかったという。彼の場合は、とにかくアルゼンチンに来るための唯一の手段が、この花卉実習生制度だったからである。来てしまえば、すぐに他の仕事が見つかると、安易に考えていたらしいが、実際スペイン語もろくに話せない一人の青年にとっては、大変なことであったろう。

  「川島さん、何かいい話がありませんか?」、「そうですね。でも、今は自分のことで精一杯で、とても他人のことにお手伝いできません。そうだ、今度海老さんの長男ホセに会ったら、聞いてみますよ。何かいい話があるかもしれません。ホセは日系2世だけど、日本語が上手で、今不動産の仕事をやっています。実を言うと、俺も彼からマルデルプラタの分譲地を買わされてしまいました」。「へええ。それはおもしろい仕事だね。ぜひ紹介してください」。話は弾んだ。我々の日本語の会話はパオーラには全くわからなかったので、A君が気を遣って下手なスペイン語で一生懸命説明するのであった。

  こうして、時間はどんどん過ぎていった。「博志、今回はこれで帰ろう。もう一晩、彼の家に世話になると迷惑をかける。俺たちは今日の夜行バスでマルデルプラタに帰ろう。これから皆で夕食を食べに行こう」。昼食はアサードだったので、夕食はブエノスでも有名なパスタの店に行くことにした。とにかく、アルゼンチンにはイタリアの文化が入り込んでいる。特に食文化は、その影響が顕著だ。その理由は、第2次大戦で敗戦国となったイタリアからの移民が大量にアルゼンチンへ流れてきたからである。この移住を容易にしたのは、当時の大統領ペロンがまさしくイタリアの2世であったからである。あの有名な「母を訪ねて3千里」の主人公マルコの話も、こうした時代を背景として生まれたのである。

移住とは より良い生活 求めてだ

失敗を 恐れるな、それ 飛び出せよ

 
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 98. テレビへの出演依頼

  もう私にとっては、ブエノスアイレスとマルデルプラタ間600キロの道のりは、何でもなかった。リクライニングシートに座って眠ってしまえば、次の朝には着いてしまうのである。今回も全く問題はなかった。いつものように、ターミナルのバルカルセ方面バスに乗り換え、ラグーナベルデ(緑の泉)で下車すれば、海老農園はすぐそこであった。

  まだ朝早く、しかも日曜日だったので、ロベルトは起きていなかった。しかし、ドン・ペドロ(ここでは年寄りに対して尊敬の念を込めて、ドンを付ける習慣がある)は、もう起きていて、「オーラ、マリオ。ブエノスディアス パサステ ビエン ブエノスアイレス(やあ、マリオ。おはよう。ブエノスはどうだったかい?)」と聞いてきた。私は、「おはようございます。たくさんの友達に会えて、楽しく過ごしました」と気軽に答えた。それから部屋に行き、私は作業着に着替えた。弟は、「兄貴、俺はもっと眠るよ。じゃあ」と言って、ベッドにもぐりこんでしまった。

  私は早速温室に直行して、丸2日溜まった花を切り始めた。最近、あまり手入れをしていないので、額割れがひどい。植物は正直だ。丁寧に手入れをすれば、その分立派に育つが、一度手を抜くと、瞬く間に品質は悪化する。これも私の現在の心境を表しているのだろう。しかし、海老夫人に対しては簡単に、「ブエノスに行きたくなったから、もう辞めます」などと言うことはできない。日々が経つにつれて、この思いはどんどん強くなっていった。

  弟の仕事は順調だった。ただ、肝心なサラリーはちっとも上がらなかった。そんな時、突然テレビ出演の話が舞い込んできた。「兄貴、大変だ。パトロンが生徒をもっと確保するために、テレビを使って宣伝をしたいと言うんだ。それで、俺と兄貴で何かおもしろいパーフォーマンスをしてくれと言っている。どうしたらいいかな?」。私たちは、しばらく考えた。テレビ出演は、実に一週間後に迫っていた。

  そんな中で、突然ブエノスからホセとノルマがやって来た。ここにきて、マルデルプラタの分譲地が売れ始め、その応援に来たのだという。早速、私たちはホセに相談した。すると、「それは素晴らしい話だ。それだったら、柔道と空手の組み手をやったらいいんじゃないの?それもクチージョ(ナイフ)を使ったら、ここの人たちはびっくりするよ」。たしかに、それはすごいパーフォーマンスだ。

  私も高校1年の時に、町の空手道場に通ったことがあったが、半年で辞めてしまった。その程度である。はたしてそんな自分に、ナイフを使った高度な組み手ができるであろうか。しかし、そこは若さである。「ええい、やっちまえ。何とかなるだろう」。こういうことには実にアバウトな自分であった。そうこうしているうちに、テレビ出演の日が近づいてきた。

若者よ 恐れるな、それ やってみろ

成せば成る 大事なことは 無心心

 
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 99. いよいよ試合開始

  ついに、テレビ出演の日が来た。もう、ここまで来ては、やるしかない。

  私たちは、実際ナイフを使って2度ばかり予行演習をしただけであった。こんなこと、何度もできるわけはない。稽古中に怪我でもしたら、それこそ元も子もない。こうなると、投げる方より投げられる方、すなわち私の方がずっと危険だ。そのことは、パーフォーマンスが実際終わってから、実感することになるのだが。例のごとく、ホセのフォルクスワーゲンに乗って、私たちは揚々と道場へ向かった。

  そこには既に、オーナーのセニョール ヒメネス、そしてマルデルプラタのテレビ局の取材スタッフが待っていた。「やあ、スターが着いたぞ」Mr.ヒメネスが叫んだ。彼も内心、このようなパーフォーマンスが実際できるかどうか、大いに心配であったろう。私たちは早速、更衣室に行って、稽古着に着替えた。ジャパニーズ・柔道家と空手家の一騎打ちが始まるのだ。

  テレビ放映といっても、当局のエリアはここマルデルプラタの地域だけで、当市の人口は約50万人。サマーシーズンになると、この人口が5,6倍にも膨れ上がり、300万人の大都市に変貌するわけだが、今のシーズンでは、実際に居住している市民を対象にするだけだ。

  ホセが「マリオ、大丈夫だ。リラックス、リラックス。がんばってね!」と言いながら、ナイフを渡してくれた。もうここまで来ては、逃げることはできない。実行するのみだ。私は覚悟を決めた。「やったるぜ!日本男児の度胸を見せてやるぞ」気持ちを新たに引き締めて、道場の真ん中に進んだ。

  弟は既に反対側に仁王立ちになって、両手の拳をしっかり握り、構えていた。こうして、柔道と空手の試合は開始された。

やる時は やらねばならぬ 男なら

失敗も 一つの薬 ステップだ

 
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 100. ナイフを持った空手家 対 柔道家

  「やあーーーーー、さあ来い!」弟が叫んだ。私も、「やあーーーー、行くぞ!」こうして戦いは、始まった。

  もちろん、最初はナイフを使わず、型の紹介であった。弟は私の襟を掴み、自分の知っている技を次から次へと使った。私はただただ、弟の為すままに自然体でそれに応じた。体落とし、釣り込み腰、背負い投げ、一本背負い、そして巴投げと、その技ごとにMr.ヒメネスは、マイクでアナウンスをした。「エスト エス タイオトシ、エルシギエンテ エス ツリコミゴシ」こういう点は、実に見事なものだ。声に抑揚をつけながら、だんだん調子に乗ってくる。観客は大喝采だ。

  そして観客席からは、「プロフェソール イロシ(ヒロシ先生、いいぞ!ワンダフル!)」若い女の子もたくさんいる。一方私は、投げられ役で、しかも敵方だから、誰も応援してくれない。せいぜい、ホセとノルマが「マリオ、がんばって!がんばって!」と応援してくれるだけだ。

  ついに最後のパーフォーマンス、ナイフを使う場面になった。ホセが「マリオ、落ち着いて、気をつけて!」そう言いながら、私の手にしっかりとナイフを握らせた。Mr.ヒメネスは声を張り上げて、「さあ、皆さん。お待ちかねのシーンがやって来ました!地球の反対側の神秘の国、サムライの国からやって来た、100%輸入品、日本の柔道家と空手家の戦いが始まります」。そして、付け加えた。「この戦いには、本物のナイフを使います。これは、大変危険な戦いです。さあ、皆さん!拍手をもって迎えてください!」。

  このアナウンスを聞いて、会場はどよめいた。そして耳をつんざくような拍手が鳴り響いた。ここまでくると、ヒロシも私ももうすっかりスター気分だ。私はナイフを右手でぐっと握りしめ、「さあ、行くぞ!覚悟しろ!」大声で叫んだ。こうなると、演技をしているのか本気なのか、自分でも全くわからない。なるようになる。そういう心境であった。

  弟も、「かかってこい!お前なんぞに負けるものか。見事に投げ飛ばしてやる!」と怒鳴った。兄貴もへったくれもない。ぐっと口を噛み締めて、真剣そのものだ。私は、ナイフをぐっと握りしめながら、一歩一歩近づいて行った。そして攻撃を開始した。「やあーーー!」、気合いもろとも、ナイフを持った右手を弟の体に突き出した。弟は一歩退いて、それを軽くかわした。そこで私はもう一歩踏み込み、今一度弟にナイフを突き上げた。このような攻防を何度か繰り返した。場内は、シーンと静まり返った。その雰囲気を察して、私たちの演技も白熱してきた。ころ合いを見て、私は最後の突きを入れた。「さあ、行くぞ!これでもか!」こう叫びながら、右手をぐっと彼の肩口に向けた。弟はそこをうまく捉えて、私を見事に投げ飛ばした。

  場内は興奮のるつぼである。「いいぞ!いいぞ!よくやった!」。こうして、パーフォーマンスは無事、大成功に終わった。

何事も 自信を持てば うまくいく

 
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 101. 今度はテレビでのど自慢!?

  私たちの柔道と空手の戦いのパーフォーマンスが大成功に終わったので、セニョールヒメネスは大満足であった。おかげで、翌日からヒメネス氏のオフィスに電話がどんどん掛かってきて、生徒の数は倍になった。この時知ったテレビ局の社員の一人から、おもしろい情報を得た。「今度うちの局で、素人のど自慢大会があるんだ。あなた方、出てみない?」。私は早速興味を持った。

  もともと私は子供の頃から大変な野心家であった。小学校6年生の時、真面目に「どこかの国の大統領になろう」と考えていた。高校を卒業してわざわざ地球の裏側のここアルゼンチンに来たのも、おそらくそういう野心がどこかに潜んでいたからだろう。しかし現実は厳しく、そのような理想を貫くには、あまりにも困難な環境であった。しかし様々な苦労の果てに、マルデルプラタへ来て学校に通い、海老ファミリーと知り合い、弟の来亜があり、生活にも余裕が出てきたおかげで、生来の派手好きな精神が蘇ってきた。

  私はホセに言った。「ホセ、今度は素人のど自慢大会に出るよ」、「えっ?マリオが歌うのか?マリオの歌なんて聞いたことがないけど、大丈夫か?」。

  確かに、アルゼンチンに移住して人前で歌う経験はなかったが、花作りを始めて特に水かけをしている時は、ラジオをつけて当時の有名なスペイン人歌手ラファエルの歌を聴きながら、彼の歌を口ずさんだものだった。おかげで4,5曲の歌はそらで覚えてしまった。「ディーガン ロケ ディーガン、オイ パラ ミ」などの現在ヒット中の歌もお手の物だった。

  ホセは、この私の歌を聴いて、「へええ、マリオ、大したもんだ。よく知ってるねえ。いい声だし。これならきっと勝てるよ」。こうして私は、のど自慢大会に出場することになった。

思ったら すぐに実行 若い時

物事は やってみなけりゃ わからない

 
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 102. のど自慢審査の意外なからくり

  とうとう、のど自慢大会の日がやって来た。テレビ局に着くと、もうそこにはたくさんの人が来ていた。それらのほとんどの人は、参加者の友人、家族、その仲間だった。私たちはというと、わずかにホセとノルマ、そして弟ヒロシの3人だった。

  コンクールは始まった。まず、予選会を勝ち抜かなければならない。それにはこの番組のディレクターの感性で決められた。見かけの悪い人、歌の全く下手な人、そういう人たちはどんどんはねのけられた。私の場合は日本人の青年だということで、しかもスペイン語の歌を歌うわけだから、それが一番の決め手になった。結局、数十人の参加者の中から、私を含めた6名が決勝大会に勝ち進むことになった。私は5番目の出場である。

  そして、決勝大会が始まった。最初の出場者が歌い終わり、そこで私たちは改めてびっくりした。なんと、この審査の基準は拍手の大きさで決まるのである。ステージの真ん中に音量を測定するメーターが置いてあり、会場の拍手の大きさによって大きく振れる。この振れ具合で、勝利が決定されるのである。ホセは叫んだ。「なんだこれは、これだったら友達がたくさんいるやつが勝つに決まっているじゃないか」。最初の出場者の場合は、歌はまあまあだったが、会場に仲間がいなかったのだろう、メーターはそれほど動かなかった。こうして4人の出場者が終了した。

  ついに私の番である。司会者が、「さて、皆さん。今度は地球の反対側からのスペシャルゲストです。神秘の国、ゲイシャ、そしてサムライの国からです。セニョール マリオ カワシマ、ビエン ベニード(ようこそいらっしゃいました。マルデルプラタへ)」。この司会者の紹介を聞いて、会場は騒然とした。「ハポネス(日本人)!頑張れよ!」そのような声援でいっぱいになった。

  私はこの時のために、当時流行していた「コワンド サリ デ クーバ(私がキューバを去った時)」を歌った。最初の出足はちょっとつまずいたものの、何とかリズムに乗って一生懸命歌った。「デヘ アル ラード デ ミ コラソン(キューバに私の愛を置いてきました)」このように最後の一節を歌い終えた時、「ブラボー!いいぞハポネス!」。こうして、メーターは今までの出場者をはるかに超えた。ホセとノルマも興奮している。「マリオ、ブラボーブラボー!これで優勝だ。スターになれるぞ」。もうマネージャー気取りである。

  そして最後の出場者の番になった。彼がステージに立つと、観客の歓声は一際高まった。おそらく会場には、大勢の仲間や家族が来ているのだろう。そして歌い終わると、大変な歓声である。メーターはリミットを超えてしまった。彼の勝利は明らかである。ホセはいかにも残念だ。「これはないよ。これじゃあ、たくさん仲間を連れて来た方が勝ちじゃないか。いくら歌をうまく歌っても、意味ないよ。マリオ、残念だけどしょうがないね」。こうして素人のど自慢大会は終了したのだった。

何事も 真面目にコツと やるだけさ

経験が 場所によっては 生きてくる

 
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 103. とうとう海老夫人に告白

  素人のど自慢大会が終わって、結局私は2等賞を獲得した。賞金はゼロだったが、小さなトロフィーをもらった。家に帰り、早速ロベルトたちに見せびらかした。「おお、マリオ、やったね。大したもんだ。今度は歌手になるのか?」。先制パンチである。「いや、もう少し花作りをするよ。歌手になるには、まだちょっと無理だね」と、まあこんな調子でかわした。

  そして再び、いつもの花作りの生活に戻った。弟は毎日バスに乗って、街の柔道場通いだが、最近口数が多くなってきた。「あのテレビ出演のおかげで、生徒が倍に増えたよ。仕事は忙しくなったが、セニョールヒメネスは給料値上げのことは何にも言ってくれない。逆に、もう自分たちだけで十分できるようなことを言っているんだ」。ここの人たちは、お金に関わる事になると、人が変わってしまうのだ。

  今回は特別な仕事で来たので、ホセとノルマはその用事が終わり次第、すぐにブエノスに帰った。私は学校通いがだんだん疲れてきた。「もう、この辺が潮時だ。その前に、もう一度ブエノスに行って島津さんに会い、仕事のことをはっきり決めよう」。このように決断し、弟に言った。「おい、また来週のフィンデセマナ(週末)にブエノスに行くぞ。お前は今の境遇で満足か?」。「いや、兄貴。実を言うと、俺も今のところに長くはいたくない。約束では生徒が増えればその歩合も払うと言っていたのに、実際あれだけ生徒が増えても一銭も上げてくれない。むしろ、最近は俺を邪魔者扱いしているような気がする」。

  私は海老夫人に、自分の今の心境をはっきり打ち明けなければならないと思った。そして、ある日とうとう切り出した。「セニョーラ、今まで本当にありがとうございました。しかし、私もアルゼンチンに来て、もう4年以上になります。そして弟たちも来ましたが、日本の国も色々変わってきたようです。私も、ここでこれ以上花作りを続ける気持ちがなくなりました。ブエノスに行って、何か商売の勉強をしようと思います。どうか、私の気持ち、ご理解ください」。夫人は言った。「やはり、そうだったのね。最近のマリオを見ていると、何かそういう気持ちが感じられたわ。あなたは若いのだし、まだこれから色々やることがあるわ。頑張るのよ」。この言葉を聞きながら、私は涙が出てくるのを、じっとこらえていた。

若者よ 感謝の気持ち 忘れるな

若者よ 恐れるな失敗 跳ねあがれ

 
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 104. 意を決して再びブエノスへ

  早速、ブエノスに行きたい気持ちを弟に話したところ、「兄貴、俺もそろそろ、この柔道の仕事に嫌気がさしてきたんだ。ヒメネスは、生徒が増えたら給料を上げてくれると言ったけど、生徒が増えてもちっとも上げてくれやしない。最近は、自分一人でできると思っているのだろう。俺のことを邪魔扱いしやがる」と、弟もブエノス行きに賛成した。

  金曜の夜に、マルデルプラタのバスターミナルに行った。そして、いつものように夜中の12時出発の夜行バスのチケットを買った。バスに乗った途端、若い二人はすぐに眠ってしまった。目を開ければ、もうブエノスに到着である。時計を見れば、朝の6時。6時間で400キロ、途中私たちが寝ている間に何度も停まったらしいが。

  ここブエノスのターミナルでコーヒーショップに入り、朝食を頼んだ。カフェコンレッチェとメディアルーナ(半月パンという意味だが、ちょうどこの甘パンの形が半月なのである)、私はメディアルーナをカフェオーレの中にどっぷり浸し、食べる。私は甘党なので、この食べ方が大好きだった。朝食を終え、「ヒロシ、それではまたA君のところに行こう」。私たちはタクシーに乗った。彼には、前日に行くことを伝えてあった。

  ベルを鳴らすと、まだベッドの中にいて眠たそうな、「ヒロシ、まだ早いよ。もっと眠らせてくれよ。でも、まあいいか。早く上がってこいよ」というA君の声が返ってきた。私たちは、彼のマンションに飛び込んだ。A君は、最初は面倒くさそうなそぶりを見せていたが、会話が始まると、自分でコーヒーを淹れ、居間の方にやって来た。

  「やあお兄さん、よく来てくれました。今度は何の用事ですか?」、「いつも迷惑をかけてすみません。今回は、島津さんに会って仕事を決めたいのです。もう私もアルゼンチンに来てから4年半にもなり、これ以上花作りをしていても将来性がありません。ここで、新しい道を切り開きたいのです」、「そうですか。それはいいと思います。私もできるだけお手伝いしますので、ぜひ頑張ってください」。

  昼食を終え、午後一番で私は島津さんのオフィスへ向かった。聞いていた住所をA君に尋ねると、「ああ、ここなら歩いてもそんなにかかりませんよ。でも、ここの近くのメトロ(地下鉄)に乗って2つ目の駅で降りれば、もうすぐです」。

  ブエノスアイレスの街は碁盤の目のように整然としており、東西南北に見事に区画整理ができていて、全ての通りに名前がついている。右の通りが奇数番号、左は偶数になっているので、通りの名前と番号さえわかれば、間違いなく目的地に到達できる。第二次世界大戦後、連合国の一員でありながら地理的な幸運から全く被害を被らなかった農業・牧畜国アルゼンチンの農業生産品、特に牛肉、小麦は、戦争によって荒廃したヨーロッパ、そして米国市場に飛ぶように売れて大変な外貨を獲得できたことにより、アルゼンチンは歴史上かつてない繁栄を極め、ブエノスアイレスの都市計画をも成功させることができたのである。

アルゼンチン 1人に2頭 牛の数

戦争の おかげで成せる 街づくり

 
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 105. 島津商会に就職

  島津さんのオフィスは、地下鉄B駅を出て、右折した所にあった。外見は実に小さな電気屋さんであった。その中が事務所になっており、そこに島津さんは座っていた。

  「島津さん、今着きました」。「おお、川島君か。よく来てくれたね。ここが私のオフィスだよ。狭いところだが、まあ、そこに座ってくれ」。私は空いている椅子に座った。すると島津さんが、「今、うちでは主に日立のピーラ(電池)を販売しているんだ。一応日立からは販売権をもらっているがね、なかなか売れなくて困っているんだ。ここには既に、イタリア製のエバレディという会社があって、ほとんどのシェアを握っているからなんだ。どうだね、川島君?気持は決まったかね?」と言った。私は即座に、「はい、そのつもりで今日は来ました。どうか、よろしくお願いします」と答えた。

  こうして、話はとんとん拍子に進んだ。聞けば、アルゼンチンに日立が進出してきたのはごく最近で、手始めに電池工場を設立したという。この誘致に一役買ったのが、他でもない、当時日亜商工組合の会頭を務めていた島津さんなのであった。この縁により日立から販売権を委託され、現在その販路開拓に努力しているのだった。

  ところが、既に8か月になるが、シェアを広げることは非常に困難であった。というのは、このアルゼンチン市場には、既にイタリア資本の工場エバレディが進出しており、ほとんどカバーしていたからである。これを切り取っていかなければならないのだった。さらに、島津さん自身、それほどの資本を持っているわけではない。当時は、日立からの援助もそれほど期待できず、困っていたのである。

  そんな時に、私が訪ねたわけである。したがって、島津さんとしてみれば、この私の来社は非常にラッキーだったにちがいない。「ただ川島君、前にも君に言ったように、こんな状態だから、うちとしては君にいい給料は払えないよ」。「島津さん、それは心配しないでください。いくらでも結構です。生活さえできれば、それで十分です」「そうか。ありがとう。それではいつから働いてくれるのかね?」「一度、マルデルプラタに帰りまして、話をつけてきますので、おそらくこの1週間で来られると思います。今からアパートを探しに行ってきます」。

  話は、こうして決まった。私は早速、弟のいるA君のアパートに戻った。

頑張るぞ 今度の仕事 電池売り

 
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 106. アパート探し

  「ヒロシ、島津さんのところで働くことにしたよ。お前はどうする?」、「兄貴、俺も兄貴と一緒にブエノスに来るよ。オーナーは、生徒が増えたら給料を上げてくれると言ったが、いつまでたっても上げてくれやしない。もう俺がいなくても一人でできる自信ができたのか、かえって俺を邪魔者扱いにしている。ちょうどいい機会だから、こっちで仕事を探すよ」。「そうか、じゃあ、今からアパートを探しに行こう」。

  そこで私達は、A君が取っている新聞を見せてもらった。その中には、何ページにも渡って住宅の売買からアパートの賃貸の記事が載っている。ここには、日本のように、それを仲介する不動産会社がないからである。誰もが、個人的に新聞社に記事を掲載する。それを見て関心を持った読者が、新聞に掲載された電話番号に直接コンタクトする。そして、両者の合意のもとに、契約を交わすことになっているのである。

  私達は、A君のアドヴァイスもあって、近くの値段も手ごろな食事付き部屋貸しアパートを探し、まずそこへ行くことにした。A君に別れを告げ、私は弟と二人で地下鉄に乗り、そこから3つ目の駅で下車した。電話で確認しておいた通りの名前を探し、番号の通りへ向かって歩いていった。間もなく、私たちは目的のアパートに到着した。

  「こんにちは、先ほどお電話した川島です。部屋を見に来ました」、「よくいらっしゃいました。どうぞどうぞ、上がってください」。そこのオーナーは、年配の非常に感じのいい夫婦であった。「さあさあ、この部屋があなた方の部屋です。ちゃんと鍵も付いているし、ベッドは二つあります。そして、夕食と朝食付きです。トイレは私達と共同です。そうそう、肝心のお値段は一人5000ペソです。いかがでしょうか?」、「ヒロシ、これだったら大丈夫だ。何とかやっていける。たしか、島津さんのところの給料は12000ペソだったからな」、「兄貴がいいなら、それでいいよ。俺もその間に、仕事を探すから」。話は簡単に決まった。

  私達は、その夫婦に手付金を支払い、領収書を受け取った。「それでは、来週からお願いします。今日はこれで失礼します」。こうして、私達はマルデルプラタに帰った。

部屋探し やっと見つけた ペンシオン

新しい 生活が来る ブエノスで

 
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 107. 海老ファミリーとの最後の別れ

  いつものように、夜行バスでマルデルプラタに帰り、バスを乗り換えて、ラグーナベルデ(緑の泉)で下車し、海老農園に戻った。

  相変わらずペドロは起きていて、マテ茶を飲んでいた。私達に気がつくと、「やあ、マリオ。帰ってきたね。ブエノスはどうだったね?」と聞いてきた。既に、私達が海老農園を離れてブエノスに働きに行くことを知っているようだった。「良かったよ。ブエノスは大きな街だねえ。活気があるよ。その点、ここはのんびりして気楽だよね」。まだ早かったので、私たちはしばらく自分たちの部屋へ戻ることにした。

  時間を見計らって、私は海老夫人に会いに行った。夫人は既に私達のことを完璧に察知していて、私達を見るなり、「マリオ、仕事はうまいこと決まった?いつブエノスに行くの?」と急に尋ねたので、私たちは少し戸惑ってしまい、「ええ、おかげさまで、例の島津商会で働くことが決まりました。来週金曜日の夜行バスで、ブエノスに行きます。誠に申し訳ありません。もっと長くいたいのですが、私も色々やりたいことがありますので、よろしくお願いします」と頭を下げた。「いいのよ、マリオ。あなたは、まだ若いのだから、やりたいと思ったことをやったらいいのよ。失敗なんか、恐れちゃだめよ。それも大事なことなんだから」。

  夫人の言葉を聞きながら、私は胸が苦しくなってきた。「本当に、お世話になりました。行く前に花の整理をしますので、これからロベルトにも挨拶に行きます」。そばにいた弟のヒロシも、「海老さん、私も兄貴と一緒にブエノスに行きます。短い間でしたが、本当にありがとうございました」とていねいにお礼を言った。そして、ロベルトを探しに温室の中を覗いて行くと、ロベルトは温室の奥の方で花切りをしている最中だった。

  私達に気が付いて、「やあ、マリオ。ケッ タル?かわいいノービア(恋人)は、見つかったかね?ブエノスにはたくさんいるだろう」といつものジョークを飛ばしてきた。「相変わらずですね。残念ながら、今回もだめでした」。もう、ロベルトのジョークには慣れてしまった。「ロベルト、本当に長い間ありがとうございました。おかげで、色々なことを勉強しました」。「そうか、マリオ。残念だけど、仕方がない。君はまだ若いんだから、頑張れよ。マリオの真面目さでやれば、何でもできるよ。たまには俺たちのことも思い出してくれよな」。

  私達はブエノスに行くまで、何とか迷惑がかからないように最後の花の仕事をした。こうしておけば、当分の間は花切りができて、その収入はロベルト達に入るのである。

  そしてとうとう、別れの日が来た。

本当に ありがとうの言葉 言いたいです

長いこと 多くの経験 積んできた

 
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 108. 引越し完了

  ロベルトが、カミヲネッタ(軽トラック)で私と弟をマルデルプラタのバスターミナルまで連れていってくれる。

  「マリオー、元気でねー。体に気を付けて頑張るのよ」。「セニョールマリオ(マリオさん)、テンガ ムーチャ スウェルテ(きっと成功してください)」。海老夫人やペドロ、カルロス、皆の声援を受けて、私達はとうとう海老農園を後にした。

  この2年半の間、本当に色々なことがあった。そう思うと、胸の中がじーんと熱くなってきた。横を見ると、弟のヒロシは、これも旅の中のひとつの経験ぐらいにしか感じていないのであろう。彼らに対する思いの違いは明らかだった。

  ターミナルに到着した。「それじゃあ、マリオ、僕も仕事があるからここで失礼するよ。本当によく働いてくれたね。感謝しているよ。マリオだったら、きっとブエノスに行っても成功するよ。元気でね」。こう言いながら、ロベルトは軽トラックに乗り、ターミナルを後にした。

  「さあ、ヒロシ。とうとう俺たちだけだ。俺は、これから島津さんのところで頑張るぞ。お前は、早く仕事を見つけるんだな」。「兄貴、Aの話では、島津さんより若い人だが、貿易でかなり成功している人がいるらしい。その人に会ってみるよ」。私達はそれぞれの思いを抱きながら、マルデルプラタを後にした。

  いつものようにひと寝入りしたら、もうブエノスアイレスである。朝がまだ早いので、ターミナル内のコーヒーショップで朝食だ。例のカフェコンレッチェ(コーヒーミルク)とメディアルーナ(半月パン)を取りながら、時間をつぶした。「さあ、もういいだろう。それじゃあ、これからアパートに行こう」。前に来た時に契約を交わした賄い付きのアパートに直行した。

  「ブエノスディアス(おはようございます)。ゴンサレスさんの家ですか?」と声をかけるとドアが開いて、私達を待っていたかのように、ゴンサレス夫妻が現れた。「ビエンベニード(よくいらっしゃいました)。さあさあ、お入りなさい。あなたがたの部屋はこっちですよ。ちゃんと、用意してありますから」。前に来た時には気がつかなかったが、その部屋には、2つのベッドの後方にきちんとアルマリオ(洋服棚)が置いてあった。

  「まず、荷物をそこに置いて、最初に朝食をとりましょう」。私達は気を遣って、朝食はもう食べてしまったとは言えなかった。「ありがとうございます。それでは」。ここの朝食は、コーヒーミルクの他に、いり卵、菓子パン、そしてりんごやみかんのフルーツ類が、食卓を賑わせていた。「兄貴、だいぶ違うなあ」。こう言いながら、弟はまずフルーツから食べ始めた。日本では、なかなかこんなにたくさんのフルーツを食べることはできない。

始まった ブエノスの朝の 食事かな

これからは 何があっても 頑張るぞ

 
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 109. 島津商会へ初出勤

  今日から島津商会に出勤だ。私は日本から持ってきた一張羅のスーツを着て、ネクタイを締め、最寄りの地下鉄に乗って、2つ目の駅で降りた。そこからは、歩いてすぐの距離に島津商会がある。前に来ていたので、間違えることはなかった。

  「おはようございます。川島です」大声で叫ぶと、中から「おお、川島君か。早速今日が初日だね」という返事。既に島津さんは、狭いオフィスの中で仕事を始めていた。「川島君、すまないが君の仕事は外回りだ。しばらくの間はセニョールバスケスについてくれ」。そしてそばにいた中年の紳士を紹介してくれた。その恰幅のいいセニョールがバスケスさんだった。「ムーチョグスト、君が川島君か。バスケスです。よろしく。私達の仕事は、日立のピーラ(電池)の小売店を回ることです。この国は、イタリア製のエバレディが非常に強力なので、なかなか食い込むのは大変です。一緒に頑張りましょう」。

  こうして、私は初日から外回りの仕事に入った。当分はバスケスさんについて、仕事の要領を覚えることが大事である。ブエノス市内には、何百軒というキオスクがあり、そのほとんどの店にはピーラが置いてあるが、確かにエバレディ社の製品が圧倒的だった。日立といっても、当時は名前がほとんど知られてはいなかった。

  ともかく、一軒一軒回り、根気よく我が製品を売り込むことが必要だった。その点、バスケスさんは心得たもので、「どうか一度使ってみてください。これは日本製です。地球の反対側の神秘の国、サムライの国から来た製品です。今日は特別に、その国からたった今輸入したばかりの日本青年を連れて来ました」などと言いながら、私を紹介した。咄嗟に紹介されたので、「はじめまして、日本から来た川島です。どうか私達の製品、日立の電池を使ってください。きっとお気に入ります」と、私はなんとかたどたどしいスペイン語で話を終えた。

  この私の発音がおもしろかったのだろう。「おお、そうですか。ようこそようこそ。そんな地球の裏側からよくいらっしゃいました。それでは少しだけ、試してみようかな」。こうして私達は、本当にちっぽけな取引ではあったが、なんとか成功した。この一歩一歩が、ビジネスには大事なのである。

ビジネスは 一歩一歩が 大切さ

ビジネスに 言葉の壁の 難しさ

 
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 110. 営業での厳しい試練

  キオスクを数軒回ったところでお昼の時間になったので、バスケスさんが「川島君、近くで昼食をとろう」と言った。ブエノスの中心街には、そこら中にレストランがひしめいており、その一つに入った。

  「君は何でも食べられるね?」と言うと早速ボーイを呼んで、「メヌーデルディーヤ(今日の定食)二人分」と注文した。すると最初にスープが出てきた。その後に野菜サラダ、そして本日のメインディッシュ、分厚いビフテキであった。同じお皿の脇に、ポテトがのっていた。

  アサードもそうだが、アルゼンチンの肉は本当においしい。これも、広いパンパス(牧草地)でゆったりと草をはみながら悠々と育っているからだろう。いくら食べても、毎日食べても飽きない。しかし、ここの人たちは脂身は決して食べない。赤身が中心だ。コレステロールが心配なのだそうだ。

  そして、ポステレ(デザート)だ。今日は、アロスコンレッチェ(ミルクご飯)というご飯を砂糖とミルクで煮込むデザートである。最初はちょっと気味が悪かったが、食べるとなかなかおいしかった。こんなご飯の食べ方もあるとは、さすが地球の裏側の国だ。

  最後に支払いの段になると、一人90ペソだった。「川島君、ここではチップを払うから、ちょうど100ペソを払えばいいよ」。バスケスさんのアドバイスだった。私は、今日は初日だから先輩バスケスさんが支払ってくれることを内心期待していたのだが、島津商会の安月給ではそれも厳しいのだろうか。確かに、12000ペソの給料をもらって5000ペソの家賃を支払い、毎日このような食事をしていたら、とてもやっていけない。「これは非常に厳しいぞ。よくよく覚悟しなければならないな」と内心思った。

  午後も数軒キオスクを回った。この時もバスケスさんは、私の存在をうまく利用し、なんとかセールスを運んでいった。「川島君、君の名はなんて言うんだ?」「今までマリオと呼んでもらっています」「そうか、マリオの方がいい。これから君をマリオと呼ぶよ」。こうして、マリオの名前がまた定着した。確かに、人に紹介するには、いちいち「セニョールカワシマ」と言うよりは、マリオの方が相手側にもわかりやすくて良いに違いない。

  午後6時頃、私達は島津商会に帰社した。「どうだったね、川島君?仕事はうまくいったかね?」「バスケスさんのおかげで、なんとか仕事が取れました。さすがですね。それに、ブエノスは地下鉄が非常に便利ですね。おかげでうまく回れました。この地下鉄をうまく使えば、私一人でもできると思います」「そうか。それは頼もしい。まあ、しばらくセニョールバスケスについて要領を覚えてくれ」。こうして、無事島津商会での初日を終えることができた。

ブエノスの 街を歩いて ピーラ売り

 
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 111. 日増しに大きくなる不満

  翌日からは、自分一人でキオスクを回った。島津商会には、私を含めて4人のセールスマンがおり、ブエノスの街を4つに区分し、各自がその1つを担当することになった。私はノバート(新人)ということで、島津商会の最も近い区域を担当することになった。とにかく、当たるしかない。歩いて歩いて、歩き回るのだ。

  私は、辛抱強く一軒一軒歩いて回った。見本のピーラを鞄に入れて、「こんにちは。島津商会の者です。ぜひこの日立のピーラを置いてください。他者のピーラよりもずっと長く持ちますよ。製品は日本製ですから、確実です」と言って、見本を置いてもらった。1週間後に再び、そのキオスクに行くのである。「どうですか、日立のピーラは?」。しかし、返ってくる答えは、あまりありがたいものではなかった。

  「んーーー、なんとも言えないね。うちでは、エバレディの人気が高くて、値段もあまり変わらないし、この間のお客の話では、あまり長持ちしないと言っていたよ。これではね」。不思議な気がした。私は当時の日本の製品、特にカメラ、時計、その他の電気製品に関しては、日本製が絶対だと信じていたので、この答えには納得いかなかった。

  しかし、その一軒のキオスクだけではなかった。数軒回った後も、どのキオスクも同じような答えだった。「これは、どうしたことだ。あの日立の製品が、他社より劣るなんて」。その答えは、島津商会に帰って明らかになった。

  「川島君、このピーラはここで作っているんだよ。日立が資本を投下して、ブエノスの近郊に電池工場を建設したんだ。そこで製品化したピーラを、うちが販売しているんだ。だから、必ずしも100パーセント日本製ではないんだ。部品の多くは、現地で調達しているからね。したがって、なかなか日本で生産されるようなクオリティは得られないんだ」。さすがに、島津さんはそのことを熟知していた。当時は、日本製品の名前はそれほど世界に知られていなかったし、ましてやここアルゼンチンは、地球の裏側にある国である。まだまだ日本は、遠い神秘の国であった。

  次の日も次の日も、毎日ピーラの営業に走り回った。しかし、いい結果はなかなか得られなかった。島津社長の悩みも、改めてよく理解できた。「おそらく日立から補助金を受け取ってはいるだろうが、そんなに大したものではないだろう。こんな売れ行きでは、自分の給料も期待できないだろう」。一月も経つと、私の不満はどんどん大きくなっていった。

ブエノスの 街は碁盤の 目のようだ

ああ今日も いつになったら 売れるだろ

 
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 112. 決断

  ペンシオンに着くと、弟も既に帰っていた。「おい、仕事はうまくいっているか?」。彼は、つい一週間前に木藤商会に入社し、給料は私と同じく12000ペソであった。「まあまあだね。社長もなかなか厳しい人だよ」。木藤さんは、10数年前にブエノスに日本のM商社の駐在員として来亜し、活躍していたが、そこを退社して5年前に独立したのだった。まだ若いが、非常に優秀な人であった。

  「兄貴、今度の土曜日、A君たちと会おうよ」。「そうか。A君はいいなあ。俺たちの10倍もの給料をもらって、仕事は楽だし、彼の場合は貴重な技術者だからな」。確かに、私達のこの薄給では、どうすることもできない。

  その土曜日が来た。私と弟は、A君のアパートに行った。「それじゃあお兄さん、行きましょう」A君は私のことをお兄さんと呼ぶのであった。歳は2つしか違わなかったが。私達は、A君の後に付いて行った。そこは、彼のアパートから数ブロックにあるイタリアンレストランであった。

  さすがに、ブエノスの街はイタリア人の影響が非常に強かった。それは、第2次大戦後、敗戦国となったイタリアからの移民が大量にここアルゼンチンに押し寄せたからである。それを容易にしたのは、当時の大統領ペロンがイタリア人の2世であったからである。したがって、アルゼンチン人が話すスペイン語は、非常にイタリア語の影響が強く、他のスペイン語圏の国々からは特別視されていた。

  そのレストラントの前で、私達は15分も待っただろうか、こちらへ向かって3人の若い女の子が歩いてきた。「オーラ、A君。コム エスタス(やあ、A。元気?うまくいってる?)」。それは、A君の彼女パオーラと、2人の友達であった。おそらくAが気を利かせて、私達川島兄弟のために、パオーラに頼んで2人の女の子を連れて来たのだろう。

  2人ともパオーラに劣らない、かわいい女の子たちであった。私も弟も、びっくりした。ましてや私にとっては、アルゼンチンに5年近くいるのに、こんな素敵な彼女と食事を一緒にするのは生れて初めてのことであった。そして、私達はレストラントの中に入って行った。

  私達は、メヌー コンプレート(コース料理)を注文した。最初に前菜が出て、そして野菜スープ、その後にパスタ、そして最後はステーキのメインディッシュである。もちろん、一番最後はデザートとなる。私は食べながら、ふところが心配になった。「こんな料理を食べたら、いくらかかるんだろう。今持っているお金で、足りるかな」。素敵な彼女たちとの会話は、そっちのけ。私はそっちの心配ばかりしていた。弟はそういうことはあまり気にしない性質なんだろう、覚えたばかりのスペイン語で、A君に負けないぐらい色々話していた。「こいつは、言葉の方もなかなか才能があるんだなあ」と内心感心した。

  A君は彼女の友達を私達のために紹介してくれたわけだが、私達としては、デートをしても食事に誘うだけのお金の余裕がないのでは、とても付き合いきれない。このラテンアメリカ社会においては、マチスモ(男性主義)が根強く存在しており、デートの経費はすべて男性が持つのが当たり前であった。それができない男は、マッチョ(本物の男)ではないのである。しかし、金銭的に余裕のない、わずか12000ペソの給料では、とても彼女たちとデートすることなどできない。実に嘆かわしい、情けない立場であった。

  このような仕事の不満と、生活のイライラが、日を追うごとに強まっていった。そしてある日、私は弟に言った。「ヒロシ、俺ももうすぐアルゼンチンで5年になる。これを区切りにして、日本に帰ってみようと思う。お前はどう思うか?」

5年経ち ブエノスのこと わかりけり

情けない お金がないのは 残念だ

 
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 113. エセイサ国際空港へ

  「そうか兄貴。実は、今まで兄貴に言わなかったが、ここに1500ドルある。この金は、俺が来る時にオフクロから渡されたものだ。ちょうど埋め立てで保証金が入ったので、何かあった時に使ってくれと言われていたんだ」。「そうか。ありがたいな。じゃあ、今回はありがたく使わせてもらうよ。その代わりと言っちゃあなんだが、ここに以前ホセから買ったマルデルプラタの土地の権利書がある。これを売れば、そのくらいの金額になるだろう。これをお前に置いて行くよ」。「わかった。俺は、もうしばらくここで、勉強するよ。兄貴は帰って、今の新しい日本を見た方がいいよ」。

  私は感激した。母は、こういう時のためにちゃんと考えてくれていたのだ。おそらく保証金だって、そんなに多くもらったわけではないだろうに。一度決心したら、行動は早い。早速、島津商会に足を運んだ。そして、島津さんに告げた。

  「島津さん、本当に残念ですが、私は日本に帰国することに決めました。本当に短い間でお役に立てなくてすみません。でも、私もアルゼンチンでちょうど5年間生活して、色々勉強しました。今ここで、日本に帰って、日本の成長した姿を見たいんです」。「そうか、そう決心したか。川島君、よくわかるよ。うちの給料は安いからなあ。これじゃあ、生活するのが精一杯だ。こちらこそ、申し訳なかった」。私はこの言葉を聞いて、涙が流れた。そして、もっと早くからこのような人の下で働くことができたらなと思った。

  島津商会と別れを告げて、その足で私はブエノスにある宮本旅行社に赴いた。ここは、ブエノスでは唯一の日系人の旅行社であった。ここの社長宮本さんも、力行会の大先輩であった。「宮本さん、日本に帰りたいのですが、お手配お願いします」。なんと、ブエノスから日本までの片道切符は、ちょうど1500ドルであった。私が5年間一生懸命働いた汗の結晶である。

  私は、ブエノスアイレスの郊外にある”エセイサ国際空港”にいた。そこには、弟の博志とA君、そして最近知り合った日系人の青年たちがいた。わざわざ私を見送りに来てくれたのだった。ついに搭乗開始となった。私は皆に別れを告げて、搭乗口へ向かった。「ああ、これでアルゼンチンを去るんだ」。今考えると、5年間は私にとって非常に長かったが、今こうしてみると非常に短かった。本当に色々な事があった。じっと目をとじると、今までの出来事がぐるぐる巡ってきて、それらがじーんと胸に伝わってきた。そして、私はとうとう飛行機内に入っていった。

5年間 あっという間の 出来事だ

ついに来た 日本に帰る 何がある

 
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