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川島 正仁ホームページ 南米体験歌第1部 南米大陸に新天地を求めて

 -目次-

 ・ 1. 横浜港の大桟橋から最後の移民船「アルゼンチナ丸」出航

 ・ 2. 経済大国へと向かう日本の繁栄を背に、太平洋の荒波へ

 ・ 3. 連日のローリング、食事ものどを通らない

 ・ 4. ロサンゼルス港に到着、ビバリーヒルズにカルチャーショック!

 ・ 5. 再び乗船、花嫁さんに悪い虫?

 ・ 6. パナマ運河通過、太平洋から大西洋へ

 ・ 7. ベネズエラのラ・グアイラ港に到着、首都カラカスで

 ・ 8. カリプソ娘葉子さんとの別れ

 ・ 9. リオ・デ・ジャネイロのサンバ・ショーにうっとり

 ・ 10. サントス港に接岸、ブラジル最大の都市サンパウロへ

 ・ 11. サンパウロの日本人町、そしてスペイン語の特訓

 ・ 12. 45日間の長い船旅も終わり、新天地アルゼンチンに到着

 1.横浜港の大桟橋から最後の移民船「アルゼンチナ丸」出航

  東京オリンピックの年(1964)に高校を卒業した私は、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住した。

  私は力行会(民間の移住斡旋団体)の3ヶ月間の研修を受けた。その期間中にアルゼンチンの亜国拓殖組合の会員の 一人が、アルゼンチンにおける私の身元引受人になることを承諾してくれたので、花卉実習青年として移住出来る事が決定した。 最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、たくさんの友達の見送りを受けて横浜港の大桟橋から出航した。

ドラがなる 日本よさらば 大桟橋

ガンバレよ 生きて帰れよ アルゼンチン

 
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 2.経済大国へと向かう日本の繁栄を背に、太平洋の荒波へ

  最後の移民船アルゼンチナ丸は、静かに太平洋の荒波の中へ進んでいく。私達移民は本船の最下部にある大 部屋に寝かされた。かってはこの大部屋に数百人いや数千人の移民が寝泊りし、遠い南米の国ブラジルを目指したのだ。

  しかし、今や東京オリンピックを大成功に導いた我が国は、その後経済大国への道を突き進んでいった。 既に南米移住熱は冷めており、今回の移民の数は私を含めてわずか14名だった。その中でも19才の私が1番若かった。

  我々の他に、数十名のブラジルからの一時帰国者(ブラジルに移住し、頑張ってそれなりの 成功を収めた人たちが、数十年ぶりに故国日本に帰国し、故郷の家族・友人に面会して数週間滞在した後、 再び第二の祖国ブラジルに帰る)がいた。

  さらにその他に、写真結婚による移住花嫁が、数人乗船していた。彼女たちのほとんどは、民間移住斡旋所 「力行会」の南十字星の会を通して、既に南米に移住している青年達と写真や文通によって知り合い、結婚するため、 渡航するのだった。今回の移民船は、このような人たちによって構成されていた。

  この大部屋にはかつて数百人の人たちが宿泊していたわけだが、今回はわずか数十人だったので、 私も一人でいくつものベッドを占有できた。そんな中で、本船は太平洋の真っ只中を突き進んで行った。 大波が船の横っ腹を襲い、船は大きくローリングした。皆、ベッドの端から端まで転がってしまうのである。

横波に ころげて落ちる 二段ベッド

 
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 3.連日のローリング、食事ものどを通らない

  アルゼンチナ丸は本来ならハワイに寄港するのだが、今回は移民の数が少なかったので、時間をかせぐためにハワイに は寄らず、北を走って直接ロサンゼルス港へ向った。

  北の海は大いに荒れ、毎日のようにローリングが続いた。 こんな中で、ブラジルやアルゼンチンに移住する 私たち14名は船旅運営委員会を設立し、私は一番若かったので運動部長を仰せつかっていたのだが、全く肩書きだけだった。 乗り物に弱い私は、最初のローリングで船酔いしてしまい、それ以来、食事も咽を通らなかった。

  出発前、力行会の先生に「川島くん、航海中、悪い虫が付かないようにくれぐれも花嫁さんを助けなさい」と 言われていた。が、このような有様なので、逆に元気な花嫁さんが「川島くん、食事よ、食べなきゃだめよ」と毎日運んでくれたのだった。実に情けない現実だった。

大海に 大波食らう 船によう

食事時 匂い染み込む 移民船

川島くん 食べなきゃだめよ 頑張って

 
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 4.ロサンゼルス港に到着、ビバリーヒルズにカルチャーショック!

  14日間の航海の後、ついにロサンゼルス港に到着した。

  ここでは、移住者及び一時帰国者に対して、ロサンゼルス市内半日のオプションツアーが15ドルで売られた。 当時、日本では大学生の初任給が13,000円であった。1ドル360円の時代だったので、 15ドルは5,400円であり、私達にとって見れば大変な高額ツアーだった。しかし、生まれて初めての外国でもあり、皆このツアーに参加した。

  我々のバスはダウンタウンを通り、世界最高の高級住宅街ビバリーヒルズに着いた。なんという素晴らしい家だ。 まるでお城のような家々がその地区に密集していた。これがアメリカか。このとき受けた強烈な印象は、一生忘れら れないだろう。そして、チャイナタウン。ここでは、ハリウッドの有名なスターたちの手形を見ることができた。 私の大好きなジョンウェインや、オードリーへップバーンの手形もあった。

初めての 外国の土地 ユーエスエー

ワンダフル 初めて目にす ロスの街

夢を超え ついに来た来た アメリカへ

あこがれの スターが集う ハリウッド

 
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 5.再び乗船、花嫁さんに悪い虫?

  たった半日のロサンゼルス市内ツアーも終了し、早速本船はパナマ運河に船頭を向けた。ロサンゼルスからサンディエゴ、 そしてメキシコのアカプルコへと南下して行く。

  ここに至って波は全くなく、完全ななぎの状態であった。私達移住者も一時帰国者も移住花嫁さんも皆、甲板に出て、 さんさんと降り注ぐ南国の太陽の光を浴びた。

  ピンポンをやったり、甲板に畳を敷いて柔道の特訓もやった。多くの花嫁さんも、ビキニに着替え、ビーチベッド に寝そべっていた。とにかく本航海においては、移住者を含む船客の数より、船員の数のほうがずっと多かった。 これらの船員の中には、色白のなかなかハンサムな青年も混じっていた。

  私は、移住者の中で一番若い19才である。すべての花嫁さんが私よりはるかに年上で、社会経験・人生経験も 豊富だった。船員の一人から女性が喜びそうなお土産を渡され、「これを君の知っているあの花嫁さんに渡してよ」と 頼まれた。力行会の先生から「悪い虫がつかないように、花嫁さんを守ってあげなさい」と言われてはいたが、 色事に関して全く無知であった私は、その意味さえ理解できなかった。

船酔いも すっかり忘れ なぎの中

この土産 あの花嫁さんに 渡してよ

 
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 6.パナマ運河通過、太平洋から大西洋へ

  太平洋は完全な、なぎの状態だ。本船は順調に南下していく。赤道に近くなったせいか、灼熱の太陽が ギラギラと照りつける。こうなると、ピンポンをやったり柔道を競ったりするエネルギーは、まるで残っていない。 移住花嫁さんたちはビキニに着替え、プールの周りに置いてあるビーチベッドに横になって、 肌を焼いている。私達青年も、皆海パンに着替えてプールで泳ぐ。そうこうしているうちに、とうとうパナマ運河に到着した。

  この運河はフランス人レセップスによって造られたが、数十年の歳月を要し、数十人の犠牲者を出して、 大変な苦労・努力のもとに完成した。現在は、アメリカ政府によって運営されている。太平洋と大西洋の水面 レベルが異なるので、閘門式といって、水面のレベルを少しずつ変えながら、 徐々に船舶を移動していく。運河の両サイドから牽引車で引っ張っていく、特別な方式である。

  また、この運河を通過するための通行料は莫大な金額で、船舶重量1トンにつきおよそ1.4ドル、すなわち、1万トンの船の場合は14,000ドルの通行料となる。したがって、私達のアルゼンチナ丸は1万2000トンなので、 16,800ドルとなり、円に換算すると、当時は1ドル360円であったから604万8千円の金額となる。

  こうして、私達は本船に乗ったまま、周りの雄大な景色を楽しみながら、運河を太平洋から大西洋へと進行して行った。

少しずつ レベルを上げる 運河かな

少しずつ 水位を変える 運河かな

どれほどの 時が助かる 運河かな

 
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 7.ベネズエラのラ・グアイラ港に到着、首都カラカスで

  ついに私達はパナマ運河を通過した。

  この後、最初の寄港地ベネズエラのラ・グアイラ港に到着。ここから首都カラカスまでは、車で15〜20分ぐらいの距離だ。 アルゼンチナ丸には、一人の一時帰国の中年女性が乗船しており、とても魅力的な女性だった。彼女は横浜港を出港以来、 終始われわれ青年に接近し、一番年下の私にもちょっとしたモーションをかけてきた。 異性に関してはまったくうぶな私は、何をしていいかわからず、彼女の足をただ触っていたこともあった。

  その女性がラ・グアイラ港に到着する前日、「川島君、悪いけどこのカメラ持って降りてくれる?」と声をかけてきた。 彼女は十数台の日本製カメラを所持しており、それらの一台一台をわれわれ青年に渡し、ラ・グアイラ港の税関を通過後に そのカメラを回収した。すなわち、無税で持ち込むことが目的なのであった。当時、日本のカメラは中南米において非常に 人気があり、日本での価格の数倍で取引されていた。彼女は我々から全てのカメラを回収し、揚々と去って行った。

  彼女と別れ、私達青年は数台のタクシーに便乗し、首都カラカスへ向った。「せっかく来たのだから、カラカスの街を 見学しなくてはもったいない」。一人の仲間の提案だった。カラカスは海抜600メートルの高地にあり、細い石畳の道が街 を縦横に走っていた。車はアメリカ車がほとんどで、この細い道を吹っ飛ばすから、歩行者は大変である。それこそ、 命がいくつあっても足りないくらいだ。それでも私達は街の中心部に下りて、散策した。

  すると、髪の毛の黒い、目の大きな、いわゆるベネズエラ美人が一人で歩いていた。私はみんなの手前、 勇気を出して、その彼女に向って話しかけた。「ブエナス タルデス セニョリータ」。彼女は笑いながら、 「ブエナス タルデス」と答えてくれた。私の言葉が、初めて通じた瞬間だった。ここベネズエラは石油の産出国であり、 その富によって成り立っていた。中南米では数少ない裕福な国の一つだ。こうして、私達は簡単にカラカスの街を見学し、港に戻った。

  その後直ちに近くの島キュラサオに向った。本船は、そこで給油するらしい。日ごろ、仲良くしていた船員の一人が 「川島君、いいとこへ案内してあげるからな」。そう言いながら、はしゃいでいた。 「彼は何を言っているのだろう」、私には、まったくその意味がわからなかった。 キュラサオに到着すると、移民の他の仲間も皆、はしゃいでいる。「川島君、行ってくるからな」。 私は、最後までその意味がわからず、結局一人で本船に残った。だいぶ経ってからわかった事だが、 この島オランダ領キュラサオには、世界でも有数な売春地があり、世界中の美しい女性が集まっているとのことだった。 今考えると、実に残念だ。このような貴重な体験は二度とないだろうに。

川島君 いいとこあるぞ さあ行こう

川島君 社会経験 必要だ

 
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 8.カリプソ娘葉子さんとの別れ

  私達は給油を終え、オランダ領キュラサオを出航し、一路ブラジルへ向った。

  南米ブラジルは、ラテンアメリカの国々の中では最も広大な国で、その面積は日本の23倍もあり、 戦前からの移民も多かった。第二次世界大戦に敗戦し焦土と化した我が国は、連合軍の占領下にあって、将来の夢も希望も なかった。そんな時、降って湧いたブラジル移住の話に、多くの国民は億万長者になるという一攫千金の夢を抱いた。 そして、たくさんの移民が地球の反対側のブラジルに渡ったのであった。

  しかし、我が国日本は、占領軍、特にマッカーサー元帥率いるアメリカの多大な援助を受け、さらにマッカーサー及び アメリカの指導の下に作成された日本国憲法、すなわち「平和憲法」によって軍隊を持つ事を禁止されたために、 それを維持する莫大な金額を経済発展に投入することができた。

  その後に起った朝鮮戦争による特需のおかげで、日本の経済は飛躍的に復興した。さらに、米ドル1ドルに 対する360円の為替相場は実勢より低く、また勤勉な我が国同胞の努力による品質管理の成功は、 日本製品をして世界の市場に君臨せしめた。このような中で、ついに東京オリンピックが開催されたのであった。 その大成功によって、日本の国民は誇りと自信を回復した。敗戦国であった日本が国際社会に復帰し、 同時に先進国の仲間入りを果した事を示した、一大イベントであった。

  本船は、既に一ヶ月の航海を終え、ブラジルにおける最初の寄港地べレンに向っていた。

  ここは世界の気候を左右すると言われるアマゾン地帯の入り口であり、多くの日本人移住者が入植し、ピミエンタという 「胡椒」栽培で成功していた。しかし、べレン港は吃水が浅く、本船のような大船舶は桟橋に入港できないので、 沖合いで艀による乗降が行われた。5人いた移住花嫁のうち、3人がここで下船したのであった。

  「川島さん、肩をもんでよ。今度、いつ会えるかしら。」と言っていたカリプソ娘葉子さんも 、ここでまだ見たこともない旦那と面会するのであった。ここアマゾン地帯は熱帯雨林地域で、 数年も居れば原住民と変わらない顔つきになってしまうので、写真でしか知らない結婚相手を見て驚愕し、悲劇になった 話も聞いていた。再渡航のニックネーム「南米の長さん」こと米長さんも3人の花嫁さんと同時に下船した。 彼だったらきっと成功するだろう。彼の航海中の生活態度を見て、私はそう確信していた。この短いベレンの寄港を終了し、 本船は次の港リオ・デ・ジャネイロへ向った。

花嫁さん 頑張ってくれ この大地

花嫁さん 元気で居てね いつ会える

灼熱の 大地にかける 若い命

川島くん こっちへ来てよ 肩もんで

 
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 9.リオ・デ・ジャネイロのサンバ・ショーにうっとり

  リオ・デ・ジャネイロはリオのカーニバルで知られる世界でも有数の避暑地である。が、その当時の私はリオについては 全く無知で、船員さんがはしゃいでいる姿が奇異だった。ベレンからリオまでは、丸3日の航海であった。 さすがに、私を除いて他のブラジル行きの移住青年達は、リオのことを既にしっかり勉強していて、 いざリオの港が近づいてくると、せわしくなって来た。この青年達の中で、特に早稲田出の田中さんと、 この航海を通じて親しくなっていた。

  「川島君、このリオには素晴らしいところがあるよ。一緒に行こう」。

  このような意味深長な誘いがあった。しかし、私は小学校5年の時に、当時の番長だったY君から受けた性に関する ショックから抜けきれず、セックスは汚らわしいものだという観念に捕われていた。「田中さん、ありがたいけど、自分は行くのをよします」。これが、私の精一杯の答えだった。

  そして、本船はついにリオ・デ・ジャネイロ港に接岸した。船員や他の移住青年達は、早速仲間を集めて 船を下りていった。私はサンパウロに行く花嫁さんと、私と同じくブエノスアイレスまで旅を続ける もう一人の花嫁さんと、一時帰国の日系人のカップル達と一緒に、リオ・デ・ジャネイロの町を見学することになった。

  最初に行ったのは、コパカバーナ海岸。リオと言えばコパカバーナ、歌にも出てくる有名な避暑地である。 そして、パン・デ・アスーカル(砂糖の山)。私達は、この山の頂上を結んでいる空中ケーブルカーに乗った。 この頂上からの眺めは、素晴らしいものだった。コパカバーナ海岸、白い砂浜。私達はこの頂上にそびえているキリスト 像の足下まで階段を上った。市内観光の後は、サンバのリズムで知られるサンバショーの店に入った。 ここでは、シュラスコと呼ばれる焼肉料理をほおばりながらショーを楽しむ。舞台にははちきれんばかりの若々しいボイン ちゃん達がすれすれのショートパンツをはいて、サンバを踊っている。私も他の皆も、この女の子達の一生懸命さ、 そして楽しく踊る姿に見とれてしまった。若い私にとっては、非常にエロチックでもあったが、 素晴らしいひと時だった。こうして私達は、本船に無事戻ったのであった。明日は、ブラジルでの 最後の寄港地サントス港へ向って出航する。

リオにつく サンバの音が 聞こえるよ

コパカバナ サンバのリズム カーニバル

リオの町 いいとこあるぞ 今度こそ

コルコバド キリスト像の そびえたつ

今度こそ 行こうよ例の いいとこへ

苦しみも サンバのリズム 吹っ飛ばせ

 
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 10.サントス港に接岸、ブラジル最大の都市サンパウロへ

  リオからサントス港までは、まったくのなぎ状態であった。日本からアメリカへ渡ったときは、 太平洋の大波にたたかれて、本船は木の葉のように揺れていた。そのため私も、ひどい船酔いにかかってしまい、 とても食事どころではなかった。しかし、反対側の大西洋では波もなく、船の中はまったく平穏であった。

  そして、残す港はあと2つ、サントスと最終港ブエノスアイレスのみであった。もうすぐサントス港、ブラジル最大の都市 サンパウロまでは60kmの道のりだった。ほんとは、私はここに来たかったのだ。年が若過ぎて、アルゼンチンに行くこと になったのだが。残りのほとんどの移民青年は、ここサントスで下船するのであった。この頃までにはもうすっかり 打ち解けていた早稲田出の田中さんは、サンパウロ市内にある南米銀行に就職が決まっていた。

  そして力行会、南十字星の会の花嫁さんである吉野さんもここで下りるのだった。 本船のボーイに頼まれて贈り物を持っていった時、「川島さん、これもらえないわ。返してちょうだい」と言った。 彼女の場合は、結婚相手は力行生であった。既に力行会の中で知り合い、そこで意気投合して結婚に至ったので、 心の余裕は他の花嫁さんたちとはちょっと違っていた。

  本船は遂に、サントス港に接岸した。「お〜い!着いたぞ!」。 「こっちだぞ〜!早く下りてこい!」。もう誰もが下船に夢中で私のことなどまったく忘れている。私は、その光景 を船の上からじっと見つめていた。「みんな成功して幸せになってくれればいいなあ」。私は、心の底から祈っていた。

港から サンパウロの街 すぐそこだ

サントスよ サンパウロの街 すぐそこだ

サンパウロ 日系人の 多い街

サンパウロ 水道橋も 街の中

  日本人で残されたのは、とうとう私と花嫁さんの細川さんだけとなった。細川さんの場合は、 結婚相手の兄が日本に一時帰国している時にたまたま紹介され、その弟さんの写真を見て、結婚を決意したのであった。 日本から同行してきた移住事業団の春日さんが、「川島君、それでは私達だけでサンパウロの街を見学しよう」と言い出した。

 
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 11.サンパウロの日本人町、そしてスペイン語の特訓

  移住事業団の春日さんと細川さんと私の3人で、サンパウロの街へ向った。

  サンパウロは日系人によって発展した街だと言われるように、たくさんの日系人が住んでいる。当時はおよそ80万人 と言われていた。私たちは、街の中央にある水道橋と呼ばれる場所に行った。何の変哲もない橋であったが、こういう街の中心に架かる橋に日本名を付けるということは、それほど日本人の影響力が大きいということだろう。私達3人は橋の上から下の大通りを眺め、そこを交差する車の数が非常に多い事に驚いた。

  それから、次に日本人町へ向った。この地区には、何万人もの日系人が住み、レストランをはじめ土産物店、ホテル、旅館、宝石店、様々な商店が並び、とてもにぎやかだった。ここにいると、とても地球の反対側の外国の地にいるとは思えなかった。

  こうして私達はサンパウロの街を見学し、港に戻って行った。サントスで下船したほとんどの移住者の仲間は、 会社の人たちや家族との面会で混乱し、もう私の存在などは忘れてしまったらしい。残念ながら、 この時以来今に至っても、その時の仲間とは連絡もとり合わないし、会ってもいない。

  私達は本船に戻り、これから最終目的地アルゼンチン、ブエノスアイレスへ向かう。この中にアメリカのロス・ アンゼルスから乗船したアルゼンチン人のカルロスがいた。彼はロスで一年間出稼ぎとして働いたが、結局、 期待した稼ぎも出来ず夢も破れ、故国アルゼンチンに戻るのであった。私は彼に近づき、かたことのスペイン語で挨拶した。 年も近いので、彼は笑顔で応対してくれた。しかし、彼の話すスペイン語はとても早口で、私には何を言っているのか 全くわからなかった。そこで「ノ エンティエンド(わかりません)」と繰り返すと、やっと気がついたのか、それからはゆっくり丁寧に話してくれた。

  こうして、私は素晴らしいスペイン語の先生を見つけ、ブエノスに着くまで一生懸命勉強することができた。 はっきりは理解できなかったが、カルロスの言いたかったことは、「アメリカはとてつもなく恐ろしい国だ。故に 、自分は一生懸命働いても一銭も貯めることができなかった。」ということだったらしい。

  私の唯一のパートナーは、ほっそりした花嫁さんの細川さんだけになった。 彼女は前述したように、アルゼンチンのエスコバルという花の町で成功している細川さんの兄が 、たまたま郷里の熊本に帰って居る時に知り合い、そこで弟さんを紹介されて結婚に至ったのだった。 従って、その弟さんの写真を見ただけで、まだ実際には会ったことがなかった。 細川さんに、「心配でしょう?」と聞くと、「ええ。でもお兄さんの人柄を知って、 この人の弟さんだったらと信じたのよ」。私は、それ以上は聞けなかった。私自身、これから 展開する新しい世界に飛び込んでいく自分の存在がはっきりせず、不安でいっぱいだった。 ブエノス港は霧に覆われ、全く先が見えなかった。本船は「ボー、ボー」と汽笛を鳴らし、接岸の用意を始めた。 その時、「パパー、ママー」と大声で叫ぶカルロスの姿があった。彼の目は、涙でいっぱいだった。

カルロスの パパ、ママの声 霧の中

ついに来た ブエノスの港 霧の中

ブエノスは ラプラタ河の 岸にある

 
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 12.45日間の長い船旅も終わり、新天地アルゼンチンに到着

  世界でも有名な大河ラプラタ川の河口に位置するブエノス港は、アルゼンチンの玄関口として 、第二次世界大戦直後にはここから大量の牛肉、小麦等の食料物資が多くの国々へ運ばれたのであった。こうして、アルゼンチナ丸は45日間の長い船旅を終えた。

  何か、不思議な気持ちがした。それと同時に、大きな不安が襲ってきた。その時、下の方から、 「川島君、川島君、どこにいるんだ?」と声がした。私は、「ここでーす!」。すると、下にいた背の高い紳士 と小柄ながっちりした日本人がタラップを上がってきた。「私は亜国拓殖組合の須古です。こちらにいる方は、 あなたのパトロンの仲屋さんです。」。「川島です。よろしくお願いします。」。もう既に、私の全財産である 二つのスーツケースは足下に置いてあり、いつでも下船できる状態であった。私は、亜拓の須古さんたちと タラップを下りていった。

  まず最初に、通過しなければならないのは、税関であった。二つのスーツケースをテーブルの上に置き、早速鍵をあけ、 中を開いた。そこには、私の衣類、日用雑貨、そしてパトロンの仲屋さんから頼まれた日本製の工具類がたくさん詰まっ ていた。すると、税関職員が直ちにそれを見て、「これは何だ?こんなにたくさんの機械を持ってきて、トータルでいくら するんだ?」とスペイン語でまくしたてた。須古さんは、それを聞いて、すぐに私達に日本語で伝えた。すると、 仲屋さんが須古さんに「いくらぐらい払ったら、いいのかな?」とささやいた。須古さんは「30ドルでいいでしょう。 大した価値のあるものもないし」と答えた。仲屋さんは財布からお金を取り出し、 それを手の中にうまく隠して、そっと税関吏に渡した。すると、「オーケー。行っていいよ」。 こうして、私達は無事に税関を通過した。

  外では、仲屋さんの弟さんが車の中で待っていた。亜拓の須古さんは、「それでは私の仕事は終わりました 。これで、失礼します。川島君、頑張るんだよ!元気でね」と言い残して去って行った。私は、自分の二つのスーツケースを車のトランクに入れ、後部座席に座った。「川島君、これが弟の善吉だよ。よろしく頼むよ」。「私が弟の善吉です。これからよろしくお願いします」。こうして、私達はパトロンの仲屋さんの農園へ向った。

無事着いた これから始まる 新天地

今に見ろ 大きくなって 見返すぞ

 
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