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川島 正仁ホームページ 南米体験歌第4部 マルデルプラタ 今度こそ成るか独立

 -目次-

 ・ 38. 山本さん宅を訪問、今度は漁師?

 ・ 39. 8日間の船旅を終え、レストランに魚を卸しに

 ・ 40. カッサ デ アツンのマグロフライ

 ・ 41. 漁師は向かない、再び花作りへ

 ・ 42. 今度は海老農園の一員に 初日から温室作り

 ・ 43. 毎日食べても飽きないプチェーロ

 ・ 44. スペイン語の特訓と、なぜか土地を購入

 ・ 45. 大手術を乗り越えた海老さんに感動

 ・ 46. 18歳の女性オフェリアと一緒になるか?

 ・ 47. 夏休みが終わり、ホセ、ノルマともお別れ

 ・ 48. 仕事の後はスペイン語 アダルトスクールへ

 ・ 49. 初めてのアダルトスクールで 日本人は私1人

 ・ 50. 遅れるバスよりヒッチハイク

 38. 山本さん宅を訪問、今度は漁師?

  前回の要領で私は夜行バスに乗り、翌朝マルデルプラタに到着した。 山本さんには前もって電話で連絡しておいた。 バス停からタクシーに乗り、山本さんの家の住所へ向った。 マルデルプラタは、一方では世界有数の避暑地であり、そこには二つのカジノがあって特にヨーロッパからの観光客は一年を通して絶えなかった。 そのカジノの聳え立つ浜は、数キロも続くすばらしい白砂の海岸が展開している。 そしてもう一方には漁港があり、アルゼンチンの人々にもあまり知られていないが、かなり大きな港だった。 この港の周りには、街が発展していた。 この街のマンションに、山本さん夫妻は数年前から住んでいた。 

  アルゼンチンは土地が広いので、どんな田舎に行っても街は整然と作られており、通りの名前とナンバーさえハッキリしていれば、すぐにその場所につく事が出来た。 山本さんの部屋はこのマンションの二階にあった。 私は階段を駆け上り、ドアを思い切りノックした。 「山本さん、川島です。 開けてください。」 治安が十分でないラテン・アメリカにおいては、戸締りは非常に大事で、そう簡単には他人を信用してはならないと聞かされていた。 ドアについているのぞき穴から私である事を確認し、山本さんはドアを開けた。 「川島君か、良く来たな。 何も問題なかったか? さあ上がってくれ。」 こうしてその日から、私は山本家の居候になった。 

  早速奥さんが味噌汁とご飯の朝食を用意してくれた。 山本さん夫妻には、四歳になる長男と今年生まれたばかりの長女の二人の子供がいた。 私は事情を知っていたので、あまりそのことには触れなかった。 「山本さん、マルデルプラタに来てもう何年になるんですか。 船乗りの仕事にはなれましたか?」 「もうかれこれ3年になるな。 最初は大変だったが、もうすっかりなれたよ。 仲間も皆言い奴ばっかりだから、仕事も結構楽しいよ。そうだ川島君、明日港に連れて行ってあげるよ。 船長さんに紹介するからな。」 「突然、ご無理を言って申し訳ありません。 事情が事情ですから。」 「川島君、良く分かるよ。ここの日本人社会は狭いからな。 まあ、人の悪口を言うのがせいぜいさ。」 「私も杉田さんのところでもう2年を超えましたが、結局独立の話はなく、このままでは先がないので覚悟のうえでここに来ました。 本当によろしくお願いします。」

    この日はこうして一日中世間話に明け暮れた。 翌日、山本さんは港へ私を連れて行った。 山本さんの家からバスで15分くらいの距離に、その漁港はあった。 その下りた通りにはたくさんの魚屋さんと船を管理している会社のオフィスが立ち並んでいた。 その一つに私達は入った。 「カピタン、テ プレセント ミ アミーゴ カワシマ(船長さん、私の友人川島君を紹介します)」「ビエン ベニード(良く来たね)」 こうして私はカピタンに紹介され、早速明日から船に乗船する事が決まった。 ただし、初めてなのでギャラは全くない条件だ。 これがうまく行けば、次回からは手当ても、分け前ももらえると言う話だった。 この大西洋の漁場では、メルーサ(タラの一種)が大量に取れ、アルゼンチン人はこの魚を特に好むということだ。 こうして私の船乗り人生の一日がスタートした。

 

魚取り  何も取れなきゃ  銭も無し

人生は  あたって砕けろ 見えてくる

 
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 39. 8日間の船旅を終え、レストランに魚を卸しに

  私はこうしてメルーサ船に乗り込んだ。 残念ながら山本さんは別の船なので、私は一人で体験しなければならなかった。 最後の移民船アルゼンチナ丸で横浜からブエノス・アイレスに来た時、乗り物に弱くて最初は大変な船酔いをしたことを思い出した。 しかしここでは、そんな弱気ではいけない。 私の乗ったメルーサ船はおよそ100トンあまりで、船長を初め8名の乗組員からなっていた。 まき網方式なので船の甲板の真ん中にまき網機が口を開けており、ふらふらしていたら大変な危険が待ち構えていた。 最初の一日だけは海もないでいたが、翌日からは強風が襲い、本船はまるで木の葉のように揺れ動いた。 私は甲板にはりついているのがやっとだったが、油断すれば巻き上げ機の中に落ちてしまうので、とにかく気を張って頑張った。 船に酔ってなどいられない。 ましてや仲間は皆アルゼンチン人で、私のことなど全く眼中にないわけだから。 ちゃんと仕事をするのが当たり前なのである。 こうしてマル三日間、本船は走った。 

  そうしている内に漁場に着いたのだろう、船長の指示で網を流した。 それからしばらくして、その網を巻き上げる。 大量だ。 メルーサが、こんなに大きなメルーサがドンドン、ドンドン網に引っかかって上がってくる。私達はそれを網から引っこ抜いて船倉の中に投げ込む。 わずか100トンの本船は、この作業によって大きく揺れている。 甲板が濡れているので、つい足が取られ、巻き上げ機の方へ引っ張られそうになる。 「危ない!頑張れ!ここで負けてなるものか。」 このように自分に言い聞かせて頑張る。 この大量のメルーサに、たくさんのイカが混ざっていた。 この漁場ではイカも良く取れるそうだが、アルゼンチン人はあまり好まないという。 こうして私達は丸三日間戦い抜いた。 この結果、今までにない大漁だった。 メルーサを船一杯積んで、私達は帰途についた。 私ももうすっかり船酔いから卒業し、仲間の一人が作ってくれる料理もすっかり食べられるようになった。 「テ フェリシート トゥビモス ムーチャ スエルテ」 (良く頑張ったね、我々は運が良かった) カピタンはニコニコ顔で大満足だった。 

  私達は8日間の船旅を無事に終え、アカプルコ港に到着した。 桟橋には彼等の家族が待ち構えていた。 カピタンも他の仲間も、もう喜び勇んで下船した。 私も続いて船を下りた。 そして丘に下りた瞬間、どうしたのだろう、地球が回り始めた。 私は立っていられなくなり、思わずかがんで両手を地面に付きしばらくじっとしていた。 周りが、地球がぐるぐる回るのだ。 とても立ってはいられない。 一体どうしたのだろうか、私の体に何が起ったのだろうか。 おそらく数分間だったのだろうが、私にはその時間が非常に長く思えた。 そうこうしてやっとその目眩が治まった。 「ああ、助かった。やっとこ治まった。 一体どうしたのだろう」 私は次回が心配になった。 こんな事で果たして次の船に乗れるだろうか。でも、このような体験を繰り返しながら、強くなって行くのだろうか。 カピタンが私を呼んだ。 最初の約束では今回の手当ては何もないという条件だったのだが、特別にバケツ一杯のイカをくれた。 

  喜び勇んで山本さんの家に戻ると、運よく山本さんもすでに帰っていた。 「山本さん、うまく行きました。 こうしてバケツ一杯のイカをもらいました。 どうしたらいいでしょうか。」 「そうか、それは良かった。 そうだ、セントロ(町の中心)でレストランをやっている山地さんに持って行ったらいい。 良い値で買ってくれるよ。」 私はそれを持って、すぐにタクシーに乗り、山地さんのレストランへ行った。

目が回る  ぐるぐる回る  手を付いた

船酔いも  仕事に夢中で  つい忘れ

 
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 40. カッサ デ アツンのマグロフライ

  そのレストランとは、カッサ デ アツン(まぐろ屋)といって、カジノに近い大通りの中央部に位置し、町でも有名な店だった。そこには私の運命を変えるとてつもない話が待っていた。まだ午前中で、店はこれからオープンという時刻だった。

  「ブエナス タルデス セ エンクウェントラ セニョール ヤマチ?(こんにちは。山地さん、いらっしゃいますか?)」。

  すると、中から背の低いやせ細った日本の中年紳士が、白衣をまとって出てきた。そこで私は早速、

  「山地さんですか?私は川島と申します。山本さんの紹介で来ました。今日取れたてのカラマル(いか)を持ってきました。山本さんが山地さんの所へ持って行きなさいと言ってくれましたので、よろしくお願いします。」

  「そうか。それはご苦労様。それではありがたく頂戴するよ。」

  と言って、いかの入ったバケツをコシーナ(キッチン)の方に持って行った。そして、いかを冷凍庫に収めると、

  「川島君、今アツンのフライをご馳走するよ。食べて行き給え」。

  私は早速この店の自慢料理マグロのフライを食べることができた。山地さんはテーブルの反対側に座って、お茶を飲みながら色々話を始めた。

  「川島君はどうして漁師になったんだ?その前はどこにいたんだ?」

  などと色々質問された。山地さんが独自に考案したマグロフライのたれの味は格別で、まさにマグロとぴったり合い、それはそれはすばらしいものだった。こんなにうまいご馳走は生まれて初めてだったので、私は思わず、山地さんの質問からそれてしまって、

  「山地さん、これは本当においしいですね。こんなにうまいものは初めてです。」

  と言ってから答えた。

  「私は今からちょうど2年半前に、ブルサコに花卉移住青年として参りました。そこにしばらくおりましたが、パトロンとうまくいかず、結局エスコバルの日本人のパトロンの家に行きました。そこには2年おりましたが独立できず、山本さんを頼ってここアカプルコに来たのです。今日は初めての漁が終わり、そのご褒美としてこのいかをもらったのです。」

  「そうか。そうだったのか。すると君は花作りが専門なんだね。それじゃあ、ここにいい話があるんだ。一つ乗ってくれないか?マルデルプラタの街から15キロ離れたコロニア(移住地)に海老さんという人が住んでいて、カーネーションを栽培しているんだが、海老さんが癌で倒れて、現在息子さんが後を継いでやっている。しかし、あまりその仕事が好きではないようで、誰か代わりの人を紹介してほしいと前々から頼まれていたんだ。もしよければ、川島君、やってみないか?」

  私にとっては、願ったりかなったりの話だった。特に漁船に乗ってやっと慣れたと思ったら、着いたとたん酔っ払ってしまったのだから、この先頑張れるかとても不安だった。こんな時にこのような話が起ったのだから、私にとってそれはそれはすばらしいニュースだった。こうして、私は山地さんに連れられて海老農園を訪れた。

マグロとは スペイン語では アツンです

一口し こんなにすごい 食はなし

 
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 41. 漁師は向かない、再び花作りへ

  海老農園はルータ21号(国道21号線)バルカルセ方面15キロにあり、そこからちょうど800メートル中に入った面積15ヘクタールの大農園で、その中に温室を8棟持っていた。残りの余った土地は、ここのクリオージョ(現地人)にメディアネロ方式(パトロンが土地、器具類をすべて負担し、現地人が労働力を提供して、そこから生み出す全ての利潤を折半する方式)で貸していた。海老さんはベッドに横たわっており、そばに海老夫人、そして三男のロベルトとその夫人アリシアと、生まれたばかりの長女クラウディアの5人がいた。長男ホセと次男カルロスは、ブエノスアイレスの近郊にそれぞれ住んでいるとのことだった。海老さんが癌で倒れる前は、カーネーション栽培も非常に順調にいっており、どんどん温室を増やしていったのだが、今から4年前に胃癌を宣告され、胃の全てを取るという大手術をし、残りの命もあと数年と言われながら、今日まで頑張っていた。

  「おお、山地さんか。入ってください。今日は何ですか?」

  「お元気そうで、うれしいです。今日お訪ねしたのは、前から頼まれていました例のメディアネロの話ですが、ここにいる川島君というブエノスで花作りを習得した青年と、たまたま私の店で知り合い、いろいろ話を聞いて、まさしく海老さんの条件に合う人だとおもって、連れてきました。」

  こうして私は海老ファミリーと知り合い、早速翌日から海老農園の一員になり、メディアネロとして海老さん所有の8棟の温室のうち、半分の4棟を任されることになった。私の住居は、母屋の向かい側にある今は廃墟となってしまったチャレー(豪邸)だった。建設途中で海老さんが癌に侵されたため、工事中止となり、そのまま今までほうりっぱなしになってしまっていたのだが、その中の良さそうな一室が私の住居に決まったのである。こうして話は全て決まったので、私はいったん、山地さんと共にマルデルプラタのセントロ(中心街)へ戻り、そこからバスに乗って山本さんの自宅へ向かった。運良く山本さんはまだ次の乗船が決まっておらず、家にいた。

  「山本さん、誠にすみませんが、船に乗るのはもうこれでやめにします。山地さんのレストランに行ったのですが、そこでメディアネロの話があり、早速コロニアに連れて行ってもらい、海老さんにお会いしてメディアネロの話が決まりました。実を言うと、船乗りには自信がなくて不安でしたので、この話が決まってほっとしています。本当にお世話になりました。ありがとうございました。カピタンにもよろしくお伝えください。」

  「そうか。それは良かった。カピタンには俺から伝えておくよ。君の場合はまだ正式に決まっていたわけではないから、全く問題ないよ。また何かあったら、俺を訪ねてくれ。いつでも相談に乗るよ。」

  こうして私は次の日、ルータ21でヌーメロ15へ向った。

船を出て また花作り 頑張るぞ

運命は 待っているより 作るもの

 
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 42. 今度は海老農園の一員に 初日から温室作り

  早速、次の日から花作りの作業が始まった。ロベルトが一緒に来て、説明してくれた。「マリオ(私の呼び名)、この4棟を君にあげるから、好きなように使ってくれ。まだ花が切れるから、当分の間この花を切って生活費にしてくれ」。確かに、これらの4棟のビニールの温室には、色とりどりのカーネーションが咲き乱れていた。

  でもよく見ると、茎は細く枝分かれが激しく、これ以上質の高い花を切り続けていくことは難しいように思えた。「ロベルト、この花はもうこれ以上だめだね。また新しくガホ(芽)を植えなければ」。こうして私は新しい芽を摘んで、その芽の先をジレー(髭剃りの刃)で綺麗に切り落とし、水にしばらく浸しておき、温室の裏側にアルマシゴ(苗床)を作って、そこに移植した。その上から水を軽くかけ、上側に薄い布を覆って木陰を作り、日が直接当たらないようにした。

  こうして10日もすると、芽の先から髭のような根が生えてくる。この根がますます多く太くなってきた頃を見計らって、今度は温室の苗床に定植する。ここの便利なところは、土地が十分あるので、今までの温室はそのまま放置しておけることである。新しい土地をトラクターで耕作してしばらく放っておいてから赤根を手で拾い集め、赤根をすべて取り終わったら再びトラクターで耕作し、土がなじんだ頃を見計らって温室作りに入るのだ。

  まず土地を測量し、四辺に木の杭を打ち込む。そして、ソーガ(ロープ)でつなぎ合わせ、そのソーガに沿ってポステ(温室柱)を埋め込んでいくのである。この作業はなかなか大変だ。マルデルプラタの土地はセッコ(ドライ)で、粘質性に欠け、柱を打ち込んでも、よほど周りを強く固めないと、すぐにぐらぐらしてしまう。そこで、パラプンタ(先のとがったシャベル)で土を掻き出すコツが重要となる。あまり大きく穴を作ってしまうと、柱の周りに空きができてしまうので、周りを固めるのが大変だ。ちょうど柱の太さと同じ穴を作るのがコツなのだ。

  このようにして四辺に柱を打ち込み、温室の真ん中には四辺の柱より高いものを打ち込む。そうして、真ん中から傾斜をつけるのだ。柱を全て打ち終わったら、柱と柱の間に横木を打ちつける。この後、最後の作業のビニール張りとなる。この作業がまた大変なのである。ビニールのロージョ(円筒)の一方を温室の片側に張り、他の一方をトラクターで反対側へ引っ張っていく。うまくトラクターを操らないと、この重い円筒は歪んで下に落ちてしまう。そうならないように、真っすぐに引っ張っていくのが重要なコツなのだ。この点ロベルトは車の扱いが非常に巧みで、見事に成し遂げた。こうして、一日の内に新しい温室が一棟できあがった。

トラクター ビニール引っ張り 温室を

赤根堀り かがんで取るよ 腰いたい

苗床に 新芽を植える 大切さ

 
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 43. 毎日食べても飽きないプチェーロ

  私が住むことになったレシデンシア(大邸宅)の一室は、床は何もなく地面を平らにしただけで、その上に二つの古いベッドがおいてあった。天井は一応あったものの、工事を中断したために、いたるところに大きな穴があり、そこに美しい星が輝いていた。私は寝床に入って天井を見上げ、そのきらきら輝く星を数えながら、いつの間にか眠ってしまった。

  その穴から朝日が差し込んで、目を射る。私は驚いてベッドから這い上がり、そのまま水道の蛇口へ向う。顔を洗って、まず最初にするのがプチェーロ(肉野菜炒め)の用意である。じゃがいも、かぼちゃや他の野菜を大きく輪切りにして、半分くらい水の入った鍋の中にぶっこむ。またその中に、プチェーロ(牛の髄肉)の輪切りを同様に入れる。そして最後に塩を少々ぶっこむ。そうして、弱火でしばらくの間放っておいて、私は温室へ直行する。

  まず花切り。左手で茎をつかみ、ちょうどいい長さのところを、右手に持ったはさみで切る。それを左手で持ち上げて、またその繰り返しである。数本切ったところで、その束をとなりの苗床の針金と糸の交差部に置いておく。この要領で、瞬く間に温室に咲き乱れている花を切ってしまう。全て切ってしまった後で、その花を回収する。集めた花を、今度は納屋に運ぶ。そこで、百本ずつの花束を作るのである。その花束を水の入ったバケツに差して、置いておく。午後になると、町から花のバイヤーがやって来て、その花を持っていく。

  こうして、仕事が一段落したら、私は台所へ向う。この頃には、プチェーロが程よいかげんに出来上がっているのだ。肉と野菜のだしがちょうどいい具合に塩味とミックスされ、すばらしい、そして健康的なスープとなるのである。私はこのあっさりした食事が大好物だ。毎日食べても、まったく飽きなかった。とても一人では食べ切れなかったので、残った分はそのまま取っておき、昼食も同じプチェーロを食べていた。

毎日の おいしい食は プチェーロ

花を切り 百本の束 マーケット

 
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 44. スペイン語の特訓と、なぜか土地を購入

  私はロベルトに紹介されて、元々ロベルトが使っていたペオン(下級労働者)を使わせてもらった。彼らは、海老農園の一角に家を建てて住んでいた。色の真っ黒なおじいさんと、その娘、そして彼女の3人の子供達だった。長女はオフェリアといい、小麦色のすらっとした野性的な女性だった。長男のロメオも姉と同様に小麦色で、体形も似ていた。しかし、次男カルロスはまったく上の二人とは異なり、肌の色は真っ白で、体形も小太りだった。おそらく母親似で、上の二人は祖父に似たのだろう。

  「ベン ネグリート アキー テ エスペーロ(くろちゃん、こっちへ来い)」

  弟のカルロスがこのように兄貴を呼ぶ。私はこの頃にはその程度のスペイン語は理解できたので、この内容を直訳してびっくりした。弟が兄をこんな形で呼んでいるのだから。しかし、ここでは当たり前だった。これも、愛情の一つの示し方なのである。

  私はロベルトに指示されたとおりに、彼らを使っていた。ここにもう数年も住んでいるので、彼らは言われたことはきちんとやってくれた。なにより助かったのは、買い物を手伝ってくれたことである。祖父ペドロは馬車の達人で、どこに行くにもこれをうまく操りながら用をなしてくれた。おかげで私は、買い物に行く時間を仕事に向けることができた。

  半年もすると、すっかりここの生活にうちとけ、海老夫人も週に2回は食事に誘ってくれた。さすがに夫人の料理はおいしく、私は今か今かと呼ばれるのを心待ちするようになった。こうして、夏の長いバケーションが始まった。毎年この時期になると、海老さんの長男のホセがやってくる。彼は、ブエノスアイレスで不動産会社のセールスマンをしていた。マルデルプラタは、アルゼンチンはもとより世界有数の避暑地であり、毎年何百万人もの旅行客が国内・国外からやってくる。とにかく二つのカジノがあるのだから。

  この時期にホセは親元に宿泊し、バケーションを楽しみながら、不動産セールスを行うのである。私にとっては、このホセとの出会いは一つのチャンスだった。彼は離婚していて、今はノルマという小学校の先生と付き合っていた。その彼女を連れて、この夏もやってきたのだった。

  このノルマはとても教えることが好きな女性で、彼女と会ったとたん、すぐにスペイン語を習いたいという私の気持ちが伝わり、彼女は翌日から毎日、スペイン語を教えてくれた。こうして、私はスペイン語を学ぶチャンスを得たのである。ホセもとても暖かい気持ちの持ち主で、しかも日本語を自在に操り、おそらく通訳をさせたら右に出るものはないだろうと思えるくらい、すばらしい才能の持ち主だったが、不思議なことに書くことはまったく苦手だった。こうして、毎日二人にスペイン語を教えてもらった。二人、特にノルマは教え方がうまく、おかげで私はスペイン語がめきめき上達していくのを実感できた。

  そんなある日、ホセが「マリオ、今マルデルプラタの土地を買ったら、将来大変な財産になるよ」と言った。つまり、自分のセールスの話なのである。今までエスコバルの杉田園で働いて貯蓄したお金がいくらかあったので、私は早速ホセの顧客の一人になってしまった。私の言葉の先生だから、逆らえない。こうして、私はホセの勧める土地の1ロッテ(1区画)を買うことになった。

土地を買う いつになったら 上がるかな

スペイン語 学ぶ楽しみ 気が締まる

ポコアポコ 毎日少し 学ぶかな

 
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 45. 大手術を乗り越えた海老さんに感動

  こうして私は毎日のように仕事を終えてから、ノルマにスペイン語を教えてもらった。 彼女は小学校の先生をしているだけあって本当に教える事が上手で、しかも丁寧にゆっくり話してくれるので、私は日ごとに上達するのが感じられ希望が湧いてきた。アルゼンチンの夏休みは非常に長く、12月の二十日ごろから3月一杯まで続く。

  花の仕事のほうも順調だった。この夏の暑さのために花がどっと咲き出してしまい、さすがのマルデルプラタの市営マーケットも花で一杯になって需要と供給のバランスが崩れ、花の値段は下落してしまう。しかし私は独り者だし、このような田舎の生活をするには充分すぎるほどの収入があった。海老さんとのメディアネーロとしての契約があったので、売上の半分は当然彼のものとなったが、この半分でも私には充分すぎるほどの収入であった。

    エスコバルの杉田農園では10棟の温室を維持していたので、私にとって見れば4棟は全く楽な仕事だった。しかもロベルトが貸してくれたガリンドファミリー、オフェリア、カルロスの三人が手伝ってくれたので、それはそれは楽なものだ。毎日仕事が終えるのが待ちどうしくなり、手を洗ってすぐ母屋にいるノルマに会いに行くのが楽しみだった。しかし、たまにホセとノルマは仕事の都合で真夜中にかえってくる事があった。ホセはカブトムシ型のフォルクスワーゲンに乗っていて、この車で毎年ブエノスからマルデルプラタ間450キロの道を走ってくるのである。そんな日は、海老さんや夫人の相手をする。「川島君、仕事の調子はどうだ。スペイン語は覚えたかね。今ホセに教えてもらっているんだって?それは良かった。あいつは俺から言うのも変だが、日本語が上手だからね」。「その通りです。本当に驚いています。私も今までいろんな人に会いましたが、あれほど流暢に通訳できる人は見たことがありません。ホセは天才です」。「そうか、それは良かった。大いに勉強してくれ」。 

  こうして海老さんとはブエノスの日系人のことを話したり、アルゼンチンの社会情勢を語ったりした。しかし、あれだけの大手術をしているのに気力はまだまだ充実していて、本当に強い人だと関心した。さらにビックリしたのは、一度夫人に用があって部屋に入った際、夫人が海老さんの手術の後の傷口を消毒しているのを目の当たりに見てしまった時である。背中からごそっと肉がなくなっていて、内臓がじかに目の中に飛び込んできて本当に驚き、思わず次の言葉が出なかった。部屋を出て後でその傷口の光景を思い出し、気持ちが悪くなったものである。でも、これだけの大きな病気に耐えてがんばって、そして気丈に生きている海老さんの人間力の強さに感動さえおぼえた。 

大手術  負けることなく  生き続け

スペイン語 ホセとノルマに 習います

 
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 46. 18歳の女性オフェリアと一緒になるか?

  あいかわらず花の仕事は順調にいっている。いつものように朝早く起きて、プチェーロを仕込み、花を切り終え、あとはペオンとして働いてくれているオフェリアとカルロスが草取り、糸張り、針金張り、そして水かけを黙っていてもやってくれる。こうして半年以上も一緒に仕事をしていると、お互いに気心がわかってきた。

  最近、オフェリアの私に対する態度が変わってきた。ここでは女の18歳は、もう一人前の大人である。しかし、花作りがわかればわかるほど、単調な生活が私には非常に苦痛に感じられてきた。もしこのオフェリアと一緒になって、ここで花作りの仕事をしたら、おそらく私の人生はここで終わってしまうだろう。たしかに彼女の家族は皆、人がいいし、真面目だし、それはそれは楽な生活ができるだろうが。しかし、それでは何のために、私ははるばるこんなに遠い地球の裏側の国へ来たのか。

  「俺は、こんなことでいいのか。もっと他にやることがあるのではないか」。このような心の悩みを解消するためにも、私はもっともっとスペイン語を勉強しなければと、心に誓った。こんな時、海老家の長男ホセがノービア(婚約者)のノルマを連れて来てくれたことは、私にとって非常に幸運だった。

オフェリアと 一緒になるか アルゼンチン

 
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 47. 夏休みが終わり、ホセ、ノルマともお別れ

  こうしている間、海老さんの甥の渡辺隆さんが来亜することになった。海老さんのすぐ下の妹さんの長男で、大学を卒業し、しばらく民間会社に勤めていたが、その生活に疑問を感じ、たまたま叔父・叔母がアルゼンチンに定住しているのを知って移住を決意したのだった。ブエノスアイレス市にいる叔母は渡辺さんの母親の妹で、山田さんに嫁いでおり、子供がいないので、本来はそちらで生活するつもりであったらしいが、マルデルプラタの叔父の状況を知り、しばらくの間こちらで修行をしようと決意したのだった。こうして、我が海老農園に新たなメンバーが加わった。

  最初は非常にとっつきにくい感じだったが、だんだん日が経つにつれて、さすがに社会経験が豊富なのだということがよくわかってきた。しかし、私にはいつものように花の仕事があり、あとは私のスペイン語の先生・ホセとノルマに教わることが日課になっていた。しかし、残念ながらもうすぐ夏休みも終了する。そうすれば、ホセもノルマもブエノスアイレスに帰ってしまう。

  そんな時、突然、「マリオ、いいとこ見つけたよ。マルデルプラタのセントロ(都心)にアダルトスクールがあるよ。まず、そこに行ってごらん」。その学校は名前の通りアダルト(成年)のための教室で、家庭の事情や仕事の関係で小学校に行けなかった人でもっと勉強を続けたい人、または就職に小学校の卒業資格が必要な人たちのために、政府が考えた教育システムであった。私の場合は、もちろんスペイン語を磨くためである。まだ夏休みで、学校は始まってはいなかったが、ホセは自分のフォルクスワーゲンで私をその学校に連れて行き、そこで早速レヒストロ(入学手続き)を済ませてくれた。さらに親切に、どこのバス停で降りたらいいかなど、細かく教えてくれた。

  そして夏休みが終わり、ホセとノルマはブエノスに帰った。こうして、私一人でスペイン語の勉強が始まった。

スペイン語 覚えることは 大変だ

ホセノルマ 感謝の気持ち 忘れない

 
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 48. 仕事の後はスペイン語 アダルトスクールへ

  こうして夏休みが過ぎ、元の生活に戻った。日が昇り、顔を洗って、プチェーロを用意し、温室へ向う。花を切って百本の束にし、水の入ったバケツの中に浸しておく。仕事が一段落したところで、プチェーロはいいあんばいにできている。

  この朝食を食べ終わったところで、再び温室へ。今度は水かけ、草取り、そして糸張りと、仕事は無限にある。手を抜くことも簡単だが、そこはプランタ(植物)生き物だ。よくわかっている。手を抜けば抜いただけ、品質は悪くなる。茎は細まり、花弁も発達しない。そしてがく割れもひどくなる。そうなると、あとで一本一本輪ゴムをかけなければならない。余分な作業が増えるだけだ。しかも、市場での価値は落ちる。

  最近の昼食は、海老さんのセニョーラが作ってくれる。私の作るプチェーロとは大違いだ。温かい白ごはん、みそ汁、そして肉野菜のメインディッシュが添えられる。薄味のきゅうりの漬物、ここではすべて自分達で作るのだ。相変わらず、ロベルトの若夫人○○は長女クラウディアを腕に抱え、スエグラ(義理の母)の料理の様子を見ている。口は動くが、手は動かない。実際、こうして毎日彼女の生活ぶりを見ていると、うんざりする。たしかに顔だけを見れば美人で、私もアルゼンチンに着いたばかりの頃は、そのような美人と一緒になれたらと夢見ていたのだが、現実はまるで違う。ロベルトの苦労をこうしてそばで見ていると、私にはとても彼の真似はできない。

  セニョーラのおいしい昼食を食べ終え、再び温室に行く。今日は水かけだ。マンゲーラ(ホース)の先を、苗床の一番端に置いておく。しばらく、放っておくのだ。苗床は一方から他方へ徐々に傾斜をつけて作ってあるので、このように高所の端に放置しておけば、水は少しずつ下方へ流れていくのだ。従って、このような苗床をうまく作ることがポイントだ。この点を私は杉田園で大いに学んだので、それは見事に作ったものだ。こうして水かけをしている間、私は他の作業ができた。草取り、ピンポージョ(がく)取り、このがくを早めに摘んでおかないと、栄養が分散してしまい、いい花ができない。このようなテクニックも、杉田園で2年間みっちり修行したおかげだ。

  午後の3時半には仕事をやめて、水道に直行する。石鹸をたっぷりつけて、手を洗う。土仕事をしていると、どうしても爪の中に汚れた土が入ってしまい、取るのがなかなか大変だ。これから学校に行くので、この点は特に注意しないと、クラスの仲間に笑われてしまう。作業服を普段着に着替えて、私は海老農園からルータ21に歩いていく。ちょうど1キロメートルあるのだが、この海老農園とルータ間には、わずかにロドリゲス農園があるだけだ。それほど農園の1ロッテ(1区画)は広いのだ。ここのラグーナ(湖)コロニーの1区画の平均は、だいたい12ヘクタールだった。たしかに広い。土地も新しいし、従ってアボーノ(肥料)はほとんど必要なかった。こうしてルータ21(国道21号線)に出て、バルカルセ市から来るアウトブス(高速バス)に乗るのだ。こうして私はアダルトスクールへ向った。

バスを待つ 時間になっても 来やしない

雨が降る 土道ぬかる 歩けない

爪磨く 泥がついては 恥ずかしい

 
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 49. 初めてのアダルトスクールで 日本人は私1人

  ルータ21にようやくたどり着いた。ここには、ちゃんとしたバスストップ(停留所)など、何もない。バスが来たら手を大きく挙げて、そして振って、バスを止めなければならない。しかも、このバスは時間通りに着いたことがない。だからといって、定刻前に行っていないと、もし定刻に着いた場合、待ってくれない。バス様様だ。バスが止まったら、「ポルファボール キエロ イール ア アルセントロ デラシューダ(すいませんが、市の中央に行ってください)」と言う。このように自分の行きたいところを、はっきりアピールしなければならない。

  アダルトスクールは、この街のセントロ(中心部)から歩いて数分のところにあった。このプラサ セントラル(中央広場)には、ムニシパリダ(市役所)、カテドラル(大寺院)等、重要な建物が密集していた。この広場の一角に、学校はあった。私のクラスは、午後5時から8時までの3時間だった。そこにはおそらくもう70歳にはなっているだろうと思われる品のいいおばあさんから、20歳くらいのかわいいセニョリータ(お嬢さん)まで、30人くらいの生徒がいた。もちろん、日本人は私一人だった。

  すると、その中の一人が「ボス エレス チーノ(君は中国人かい)?」と尋ねてきた。「ノ ソイ ハポネス、ノ ソイ チーノ(いいえ、中国人じゃないよ。日本人だよ)。」と答えると、周りのみんなは「アーシ、エレス ハポネス(なーんだ、日本人か)」。こうして、アルゼンチンでの最初の授業が始まった。先生は中年のセニョーラで、非常におっとりとした優しい人だった。 ここでの授業は国語と算数、社会、地理、そして歴史であった。

  私はホセとノルマに教わっていたので、かなり自信はあったのだが、実際先生の話すスペイン語を聞き取るのは、大変だった。ノルマに教わっていた時は私一人であり、彼女もかなり気をつかって、ゆっくり丁寧に私がわかりやすいように教えてくれたが、今度は私はクラスの生徒の中の一人に過ぎない。一般のアルゼンチン人に話すわけだから、それはそれは聞き取るのに大変な苦労があった。私は一番前の席に座り、先生の話す言葉を聞き逃さないように、じっと耳を傾けていた。隣の席には、マルケス夫人が座っていた。彼女も非常に勉強熱心な生徒であった。

  こうして、3時間の授業は瞬く間に終了した。私はそれから海老農園に帰らなければならないのだ。他の生徒に「アスタ マニャーナ(また明日)」と言いながら、早足でバス停へ向った。そこからルータ21(国道21号線)パラーダ ラグーナ ベルデ(バス停緑の泉)までは、およそ20分の道のりであった。運よく来た時の運転手であったので、彼は気軽に私が乗った場所で下ろしてくれた。もう日はどっぷりと暮れていて、辺りは真っ暗で、何も見えなかった。夜空にきらきら輝く星の明かりだけが、私にとっては大事な道標だった。国道から農園まで1キロの道のりを、私は駆け足で戻って行った。こうして、私の一日が終わった。

少しずつ 勉強しよう 覚えよう

ポコアポコ 日本語訳は 少しずつ

 
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 50. 遅れるバスよりヒッチハイク

  このように私の学校は始まった。しかし、1〜2時間に1本のバスは、時刻表があってないようなものである。定刻が過ぎても、なかなか着かない。その間にたくさんの他の一般乗用車が通過する。このままでは学校に遅れてしまうので、私はついにそのうちの何台かの乗用車に手を振った。大きく身を乗り出して、アピールする。そうしたらどうだろう、驚いたことにすぐに、そのうちの1台がブレーキを踏んで、私の前方に止まったのである。

  「ア ドンデ バス アミーゴ(友達よ、どこに行くんだね?)」。

  私はすぐに、「キエロ イール アルセントロ(町の中央に行きたいんだ)」。

  「そうか。それなら乗せてあげるよ。早く乗りなさい」。

  こうして私のヒッチハイクは成功した。その後、何度も私はこの幸運に恵まれた。色々な言葉が上達して話の内容がわかってくると、いつもは非常に用心深い彼らだが、日本人はとても真面目であるという一種の神話が彼等の中に定着しており、その信頼のおかげだということが理解できた。これも、今まで長い間培ってきた日系人の努力の賜物であり、私たち後続者は、その恩恵に浴すことができたわけである。私はこうして、「グラッシャス ア ディオス(神様、ありがとう)」の感謝の気持ちを新たにしたのだった。おそらく、これが同じアルゼンチン人か他の人種の人であったなら、決して車が止まることはなかっただろう。それほど彼らは他人に対して不信感を持っている。だから、このようにいとも簡単に私をヒッチハイクさせてくれることは、奇跡としか言いようがないのである。

グラッシャス 先輩築く 信用か

ヒッチハイク アピールしよう 大げさに

バルカルセ 隣の町へ さあ行こう

 
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