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川島 正仁ホームページ 南米体験歌第3部 エスコバル杉田農園で 目指せ独立

 -目次-

 ・ 19. 晴れて杉田農園の一員に

 ・ 20. 久しぶりの日本食 白いご飯と味噌汁と

 ・ 21. 水掛、糸張り、針金張り、そして花切りを教わる

 ・ 22. プライドをかけて、より深く掘れ

 ・ 23. 杉田夫人が杉田さんへ嫁ぐまでのいきさつ

 ・ 24. 仕事も一人前に、ついに永住ビザを取得

 ・ 25. 杉田さんの友人と酔っ払う

 ・ 26. ラジオから流れる音楽を口ずさみながら

 ・ 27. 唯一の休日は、公園でスペイン語の勉強に

 ・ 28. 杉田夫人の家出と杉田さんの愚痴

 ・ 29. 杉田夫人が無事に帰ってきた

 ・ 30. ドラム缶で作った五右衛門風呂 目当ては・・・

 ・ 31. 藤園園の前田さんの悩み

 ・ 32. アルゼンチンの景気と難しい独立事情

 ・ 33. 前田さんが病に でも帰国すらできない

 ・ 34. 2年を迎えてもまだ来ない独立、マルデルプラタ旅行へ

 ・ 35. マルデルプラタ柴田農園での決意

 ・ 36. 断られた独立 どうにかなるさ

 ・ 37. 前田さんとの別れ 杉田農園を出る

 19. 晴れて杉田農園の一員に

  ブルサコから花の都エスコバルまでの直線距離は30キロメートルぐらいだが、道路がなく実際行くとなるとブエノスアイレス経由で行かなければならない。ブルサコ ― ブエノスアイレス間が30キロメートル、そしてブエノスアイレス − エスコバル間が40キロメートルなので、合計70キロメートルの道のりを歩む事になる。

  高山さんの息子ルイスはしょっちゅう仕事で通っているので慣れたもの、一時間たらずでエスコバルに到着した。そして国道沿いにエスコバルの街の標識を通りすぎた次の角を右折し、土道を2キロほど入った。そこをさらに右折し、100メートルぐらい走ってようやく目的地の杉田農園に到着した。「杉田さん、高山です!」ルイス君はまだ18歳で私より若いが、スペイン語も日本語もぺらぺらだった。「おお、高山君か、良く来たな。今日は何を持ってきたんだ。」「杉田さん、今日は前から頼まれていた青年を連れてきました。ぜひ使ってやってください。」こうして私は、杉田さんと出会ったのだった。

  となりに若いきれいなお嬢さん、と私はそう思った。と言うのも、ルイス君からエスコバルの杉田家には若いきれいなセニョリータがいると言われていたからだ。しかし、その期待は無残にも打ち砕かれた。セニョリータではなく、杉田さんのセニョーラ(夫人)だったのだ。ルイス君は「杉田さん、それでは川島さんをお願いします。私は仕事で他に行かなければなりません。」と言い残して帰ってしまった。こうして私は杉田農園の一員となった。

ブルサコと  次に来た街  エスコバル

期待した   魅惑の女性  ただ夫人

 
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 20. 久しぶりの日本食 白いご飯と味噌汁と

  「川島君、それでは中に入りたまえ。狭苦しい所だけど、その椅子にでも座ってください。」家は粗末なバラック小屋だった。今と言っても中型のテーブルと六つの椅子が置いてあるだけだった。床は全て土であった。「川島君、すまないなあ、こんなむさくるしい所で。我々も頑張ってやっと10棟の温室を建てたばかりなんだ」私は杉田さんに、今までの全てのいきさつを話した。「そうか、それは大変だった。今日は食事をしてゆっくり休んでください。明日から家内が仕事のことを説明するから」この日は遅くまで語り合ったが、私がどうしてアルゼンチンまで来たのか、そしてブルサコで何があったのか、全てを話すにはまだまだ時間が足りなかった。セニョーラもそばで聞いていて「大変だったのね、本当に苦労したのね」となぐさめてくれたのだった。

  杉田さんはお酒がすきなのか、段々とその量が増して行きとうとう寝転んでしまった。「川島さん、ごめんなさいね。私の旦那はお酒に飲まれてしまうのよ。こんばんは悪いけど、この狭い所で寝てくれる、すぐに貴方のガルポンを作るからね」私の為の簡易ベッドは杉田夫妻の寝室の手前の化粧鏡の前に置かれ、上からうすいカーテンが吊るされていた。「今日は本当に色々なことがあった。でも新しいパトロンがよさそうな人で安心した」そんなことをつぶやきながら、目の前が真っ暗になってしまった。

  翌日目を覚ますと、セニョーラはすでに起きていて、私達のために朝食を用意してくれていた。私はそれを知ってこれはまずいと思い、早速井戸に走り顔を洗いタオルで拭くと、そのまま居間に戻り「セニョーラ、おはようございます」こうしてエスコバルの第一日目の仕事が始まった。朝食はご飯と味噌汁、それに納豆が加わった。日本で食べていた食事と全く変わらなかった。とても美味しかった。

朝ごはん  白いご飯と  味噌汁と

顔洗い   ご飯を食べて 仕事かな

 
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 21. 水掛、糸張り、針金張り、そして花切りを教わる

  それから、夫人は私を温室へ連れて行った。温室の中には、白いカーネーションがいっぱいに咲き乱れていた。「わあ、きれいですねえ!」「川島君、私もここに初めてきた時はそう思ったのよ。今はもうその時の感動は失ってしまったけどね」そう言いながら、少しずつカーネーションの花作りの仕方を説明してくれた。

    杉田農園には10棟の温室がありその内4棟はガラス製で残りは全てポリエチレン製であった。当然ガラスの温室のほうが花の品質を保持するには適していたが、プライスのほうがかなり高価になる。「川島君、本当は全てガラスにしたいんだけど、お金がなくてこれから少しずつ変えていこうと思っているのよ」。アルゼンチンでは花の需要が多く、特にカーネーションは人気があり、結婚式、母の日、子供の初聖体の儀式の時等に使われるのであった。また、ノービア(恋人)を訪れる時は、必ず一束の花を持っていくのが礼儀であった。

  第2次世界大戦時、アルゼンチンは連合国の一員ではあったが、実際には全くその被害がなく、元々牛肉と小麦等の大輸出国であったので、戦争によって多大の被害を被り食料に窮していたヨーロッパの多くの国々やアメリカ合衆国等の要望に答えることのできる唯一の国であった。これによってアルゼンチンは南米のパリと称されるほど繁栄し、当時の世界の富が全て集まったとまで言われた。この大好景気に乗じて花の需要も高まり、庶民は何かあれば全ての儀式に高価な切花を使ったのだった。この情勢を見て、当時アルゼンチンに移住していた日系人の多くは、働き者で手先が器用であるという利点を生かし、この花作りに邁進した。とにかく作ればドンドン売れるのだから、日系人社会は急速に発展していった。 しかしこの好景気もそう長くは続かず、私が移住したころはもう、これらの花の需要と供給のバランスが崩れかけていたのだった。しかし実際花作りに従事していた人たちは、とにかく花しか作ることが出来なかった。 そしてそれが唯一の生きる道であった。

    その日、夫人は温室の水掛けを教えてくれた。温室一棟は大体6m x 40mの大きさで、この中には約4,000本の花の苗が入っていた。4本の苗床が立てに走り、その幅は約90cmである。私達がその間で作業ができるように、床間は40cmのスペースが作られていた。そして苗床の端の一方がわずかばかり高くなっており、水掛もその側から徐々に掛けるのであった。特に忙しい時はホースの先をその高くなった苗床に置いてそのまま放置しておくと、30分もたてば他方の先端まで水が十分に染みて行くのであった。こうして私は水掛、糸張り、針金張りそして花切りなどの技術を夫人から学んでいった。特に糸張りは私にとっては非常に楽しい仕事であった。と言うのは美しいチャーミングな杉田夫人と苗床をはさんで差し向かいで糸を渡していくので、慣れてくると色々な話をしながらできるからである。

ブエノスの  熱き大地に  我が命

糸張りを  夫人と交互に  張っていく

 
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 22. プライドをかけて、より深く掘れ

  話を聞けば、夫人は静岡の出身で、高校を卒業後すぐにアルゼンチンに来たとの話だった。私と同じく19才の歳の時だった。でも、ここにいたるまでに色々なことがあったらしい。アルゼンチン国内において、花の中でもカーネーションの需要は特別大きかった。その中でも白色が一番であり、アルゼンチンでは大輪の花が好まれた。しかしそのように大きく育てるのは非常に難しく、途中でガク割れが起り、そのままでは市場に出せないので輪ゴムで一輪一輪止めるのであった。その仕事も大変手のかかる作業であった。こうして私は、毎日毎日夫人と針金張りそして糸張り、最後には花切りをして、その切った花を大きなテーブルの上に運び、そこで100本の束にするのであった。 もちろん前述したようにガク割れの花には輪ゴムを掛けるのであった。 

  夫人はこうして私達と一緒に仕事をしながら、まだ3歳になったばかりの子供の世話をして、そして家族や私の為の食事を用意するのであった。杉田さんはあまりこの花作りには気が乗らないらしい。何か適当な理由をつけて「ちょっと用事がある、誰々さんの所に行ってくる」と言いながら家のカミオネッタ(軽トラック)に乗って出かけてしまう。今思うと、杉田さんが「若いムチャーチョがほしい、誰か紹介してくれ」と高山ルイス君に頼んでいたのは、自分の代わりに仕事をしてくれる青年がほしかったからであった。

  この杉田農園には私の他に二人のクリオージョ(現地人)が居て、一人はミゲルという17歳で顔立ちが整った実にほっそりした青年であった。もう一人はペドロといい、18歳で非常にがっちりした体格のとても鋭い顔つきの青年であった。杉田さんは、苗床を作るときはまずペドロと私にプンテアル(シャベルで土お越し)をやらせた。そこをしっかりプンテアルすることによって、水はけの良い花の苗を植えるのに適した苗床を作るのが目的だった。 

  真夏温室の中は40度以上にあがり、長時間はとても中にはいられない。そんな中で、私とペドロは一生懸命プンテアルを競うのであった。私は18才のペドロより一歳年上だけなので、彼には決して負けたくないというプライドがあり、どうしても頑張ってしまうのであった。杉田さんから後で聞いた話では、ペドロは13歳から杉田園で仕事を初めたのだが、15歳になった時もめごとがあって家にあった猟銃で親を殺してしまい、少年院に2年間入っていた。杉田さんが保証人となり、最近出所して来たのだという。そういう事情もあって、ペドロにとっては杉田さんの信頼を勝ちとる事が非常に大事で、それでこのように一生懸命働くのだろう。じっくり考えてみれば、私も大変な所に来たものだ。しかし当時はそのように考える余裕もなく、ただひたすら一生懸命働く事が私を引き取ってくれた杉田さんに対する恩返しだと考えていたのだった。このように、私とペドロは朝から晩まで、水はけの良い素晴らしい苗床を作るべく一生懸命働いた。しかしそこはアルゼンチン人、良く見るとペドロのシャベルの入れ方は非常に浅く、従ってどんどん先に進む事ができるが、私の場合は杉田さんの言うとおりに水はけを良くし、苗が丈夫に育つようにとの思いが強く、どうしてもシャベルを深く刺してしまい、先へ進むことは非常に骨の折れる作業であった。しかし同年代のペドロに負けまいと思うプライドはもっと強く、よけいに頑張ってしまう毎日であった。 しかもペドロは午後の6時になればもう家へ帰ってしまうのだが、私の場合はそうは行かない。日が暮れるまで残って、作業をすべて終えてから帰宅するのだった。でも後は手を洗えば、杉田夫人が作ってくれる夕食が待っていた。 

プンテアル  より深く掘れ  水はけが

ラジオから  歌が流れる  温室に

 
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 23. 杉田夫人が杉田さんへ嫁ぐまでのいきさつ

  夕食はいつものように白いご飯と味噌汁、それに肉野菜炒めだった。お米は陸稲だが、私には日本で食べていたご飯とほとんど味は変わらなかった。しょうゆも味噌汁も全てブルサコの高山ファミリーが作ったものだったが、同じく日本の味だった。従って、私はアルゼンチンでの食事には全く好き嫌いがなかった。 

  杉田さんは相変わらずワインをがぶがぶ飲みながら「川島君、君もだいぶなれてきたな、なにか困った事があったら真っ先に俺に言って来いよ」と言ってくれた。そして自分はアルゼンチンに来る前は静岡県の農業研修所の講師をやっていたというような過去の話をするのであった。そうこうしているうちにアルコールが回って眠ってしまうのだった。そこで私は大好きなセニョーラと二人きりになって、色々な話を聞くのだった。「セニョーラはどうしてこんなアルゼンチンに来たんですか」。聞けば彼女の家は中々複雑で、お父さんは若い時になくなったのだという。それで母親一人の手で育てられて来たが、丁度彼女が高校を終えた時に二つ上の姉にこの縁談が持ち上がったのだという。南米のアルゼンチンで成功した農業技師の杉田さんからの話だった。最初から姉はこの話にあまり興味がなく、妹の君江(今の杉田夫人)に「君江、あなたはどう思う、アルゼンチンって遠いんでしょう。地球の反対側にあるんだって、一度行ったらもう二度と日本に帰ってこれないんじゃないの」と心配そうに話しかけるのだった。君江はこれを聞いて、反対に見知らぬ大陸に大いなる興味を持ったのであった。 

  彼女は高校三年の時に、卓球の全国高校選手権で見事に準々決勝まで進んだのであった。大学から誘いも来ていたが家庭の事情を考え、とてもこれ以上母親に負担をかけることは出来なかった。そういう立場にあったので、彼女はこのアルゼンチン行きの話に夢を抱き、次第にその夢は膨らんでいった。「じゃお姉さん、姉さんが行かないのなら私が変わりに行くわ」。こうして君江は、アルゼンチンから来ていた杉田技師と見合いをしたのだった。君江19才、杉田技師30歳で11歳年上であった。杉田さんは一目で君江さんを好きになり、ぜひ話を進めてほしいと間に入った先輩に託した。君江さんも会ってみて杉田さんの力強い話に引かれ、どうしてもアルゼンチンへ行ってみたいと思うようになり、その勢いでつい承諾してしまった。こうして縁談はとんとん拍子に進み、呼び寄せのための手続きも開始された。 

  一区切りが着いたところで、杉田青年はアルゼンチンに帰国した。君江さんの永住ビザの申請手続きも終了し、とうとう乗船日も決定した。こうして君江さんは横浜港の大桟橋から船に乗り、五十日の大航海の後憧れのブエノスアイレス港に到着したのであった。しかし到着して、はたしてこの11歳も年上の杉田さんと結婚するということが現実になった時、恐ろしいほどの抵抗感が現れてきた。間に入った亜拓の職員も、この話をなんとかまとめようと大変な苦労をした。しばらくの間、君江さんは日本人会館の寮に宿泊した。この間に何度も何度も訪れて君江さんを説得するのであった。「君江さん、杉田さんはどんなにこの日を待っていたのか、そしてあなたがここに来られた費用は全て杉田さんが立て替えたんだよ。その苦労に報いるためにも分かってあげなくちゃ」この最後の言葉が君江さんの心に重くのしかかった。「そうだ、私がこのアルゼンチンに来れたのは全て杉田さんのおかげなんだ」。数週間かかった問題もこれで決着した。こうして君江さんは杉田農園にとついだのであった。農園で最初に見たのが温室いっぱいに咲き乱れた大輪の白いカーネーションだった。「なんてきれいなんでしょう」これが君江さんが農園で発した第一声であった。

大好きな  セニョーラの声  胸に来る

若さとは  夢を追いかける  気持ちかな

 
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 24. 仕事も一人前に、ついに永住ビザを取得

  こうして私は、セニョーラがどうして日本からこれほどはなれたアルゼンチンに来たのか理解出来た。考えてみれば、自分の境遇と非常に良く似ていると思った。一日を終え、私は疲れからぐっすりと眠った。だが、朝が来て太陽が昇り、その光が薄いカーテンの隙間から目に達すると、私はとっさに起床し、ただちに井戸へ向かい顔を洗い朝食を済ませ、すぐに温室へ向うのであった。今日も糸かけ、針金張りそしてプンテアルの仕事が待っている。二月以上もたつと、私はもうすっかり仕事になれて、どんな仕事をしても一人前にできるようになった。少しでもいい花を作りたくさんもうけて温室をもっともっと増やしてあげよう、セニョーラのために頑張ろう、そういう気持ちが益々強くなっていった。 

  こうして杉田農園で三ヶ月が過ぎたある日、杉田さんが「川島君、法務局からビザの通知が届いているよ。早速ブエノスに行かなければいけないね」と知らせてくれた。翌日私はその通知と日本からのパスポートを持ってブエノスへ向った。駅までは杉田さんがカミオネッタ(軽トラック)で送ってくれた。今度は全く問題なくエスコバル駅からブエノスアイレスまで20ペソで行く事が出来た。タクシーを捕まえてイミグレーション(出入国管理局)へ向った。窓口でパスポートと通知書を見せた。しばらくして「セニョール川島、ベンガアキ」(川島さん、こちらに来てください)早速窓口に行くと「川島さん、これでは貴方にビザを発行することはできません。お帰りください」。その言葉を聞いて私は驚愕した。思わず下手なスペイン語で窓口の係官に訴えた。「ポルケ、ノセ プエーデ(どうして、だめなんですか)」。「貴方は日本人ではありません。従ってビザを出す事はできません」。そう言われても、私にはその意味が全く分からなかった。 

  すると、私と係官との折衝を見ていた一人の日系婦人が「貴方はここに居なさい。私が解決してあげるから」と言って、その婦人は私からパスポートと通知書を取ってオフィスの中に入っていった。しばらく待っていると、婦人が出てきた。「川島さん、解決したわ。さあビザが取れたわ、どうぞ」私に永住ビザが押されたカルネ(永住許可書)を差し出した。「川島さん、貴方の場合は中国で生まれたことになっているのよ。ここアルゼンチンでは、中国で生まれた人は中国人であり、日本人ではないのよ。だから私は貴方に代わって、見て御覧なさい中国千葉県で生まれたと言う風に説明してなんとかごまかしたのよ。」 カルネを良く見るとChina、Chiba(中国国、千葉県)と記載してあった。 こうして私は無事に永住ビザを取得できたのであった。

    グラシアス ア ディオス、グラシアス ア ラ セニョーラ(神様のおかげ、そして婦人のおかげ)正にこのご婦人の力であった。そして驚いた事には、このご婦人は杉田夫人をよく知っていた。「川島さん、貴方のパトロンの杉田夫人を良く知っているわ。彼女とは日系人会の卓球大会で良く会っているわ。彼女はここでは一番うまいのよ。私はいつも決勝で彼女に負けてしまうのよ」。婦人は河野さんと言って、旦那さんは小さな貿易会社を営んでいるという。アルゼンチンに来てから、もう10年以上になるという。本当に助かった。もし婦人に会うことがなければ、こうして永住ビザを取得する事ができず、また大変な苦労をしなければならなかったかもしれない。 

青年よ  失敗を恐れるな  突っ走れ

人の縁  これが人生  大事だよ

 
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 25. 杉田さんの友人と酔っ払う

  こうして私は無事に永住ビザを取得することができた。喜び勇んで杉田農園に帰り、早速その旨を杉田夫妻に報告した。「おかげさまで永住ビザが取れました。これもブエノスに住んでいる河野婦人のおかげです。 河野さんはセニョーラの事を良くご存知でした」 「それは良かったわね。河野さんとは毎年日本人会主催の卓球大会で会っているわ」そしてこの日はすでに仕事も終了していて、私はただ家族と食事をするだけだった。 

  「川島君、今夜はエスコバルに住んでいる私の後輩の山本君とその友人の内田君が一緒に食事をするからな」 こうして夕食は杉田さん夫妻、長男クラウディオ、私、山本さんそして内田さんの6人となった。彼らは二人とも独身であったが、すでに30歳は越えていた。山本さんは静岡県農林研修所の杉田さんの後輩であり、現在はここエスコバルで大成功を収めている岸本農場のカパタス(農場長)を勤めていた。例の如く私を除いて皆酒豪であり、新しいワインのボトルは次々と空になっていった。いつものとおり杉田さんは途中でダウンしベッドに行ってしまった。 こうなると話は弾む。彼等の目的は杉田さんではなく、美しい若いセニョーラのほうにあった。「川島君、うらやましいな。君は毎日こうしてセニョーラと一緒にいられるんだから」。「そんな事はないです」。うぶな私は、一生懸命そのような彼等の言葉に対抗した。グデングデンに酔っ払った彼らはこうして夜遅くまで飲み明かし、自分達の乗ってきたカミオネッタで帰っていった。私も付き合いでワインを少々飲んだが、体に合わないのかコップいっぱいも飲むともうそれ以上は受け付けなかった。

    彼らが帰った後、セニョーラが「川島君、先にお風呂に入ったら」と言ってくれた。母屋に隣接して、杉田さんが後輩達の助けで作ったドラム缶の風呂があった。これはまるで五右衛門風呂で、その中に丸い板が浮かべてあった。この上に乗らないと、それこそ熱くて火傷してしまう。しかし良いお湯にどっぷり浸かると、街へ行った疲れがドッと出てきたようだ。こうして私は自分のベッドの中にもぐるのだった。しばらく時間がたって薄目を開けると、薄い透き通ったカーテンを通して婦人が寝る前に髪をとかしているのが見えた。薄目でその姿を見ながら、私はカーテンを跳ね除けて夫人に触りたい衝動にかられた。しかし理性が勝り、そうしたモヤモヤの中で深い眠りに落ちた。

手を伸ばす そこに居るのは セニョーラか

ビザを取る 仕事するには 必要だ

 
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 26. ラジオから流れる音楽を口ずさみながら

  真夏の太陽の光が目に届き、私は飛び起きた。今日も仕事だ。いつものように水道の蛇口に向かい顔を洗った。食事の用意はまだしてなかったので、私は直接温室へ向かい草取りを始めた。とにかく6m x 40mの温室が10棟もあり、その中に4000本以上の苗がぎっしり詰まっているわけだから、10棟で40000本以上の苗という事になる。これらのたくさんの苗から花が育つわけだから、毎日の花きりも大変な作業だ。 ましてやこの熱い時期には、花は一度に開花してしまう。そして大輪種なので、ガク割れもひどい。従って花をドンドン切っていかないと、他の作業が追いつかない。しかしこの現象は我が杉田園だけではなく、全ての花卉農園がそうなのだ。この時期のブエノスの中央市場には大量の花が出荷され、供給と需要のバランスが崩れてプライスは暴落する。いつ出荷するか、この点が私達花卉業者が注目する最も大事なポイントだ。しかも連作のために土地が段々に疲弊し、病気にもかかり易くなる。

    この時期の薬掛けも大変な作業だ。以前は杉田さんがやっていたらしいが、私が来てからはこの薬掛けの作業は私の専属となった。同じ薬を使っていると、段々菌の方も強くなって効かなくなる。私が良く使ったのはパラチオンと言う非常に強い薬であった。しかし杉田さんは特にその点を説明してくれなかった。従って私はとにかく良い品質の花を作る目的で、そのパラチオン剤の入ったタンクを肩に担ぎ右手にホースを持って、温室にくまなく丁寧に掛けた。こうした努力の成果もあって、杉田園の花は市場でも中々の評判だった。このように私が仕事をマスターしてまじめに勤めると、逆に杉田さんは何かの理由をつけては愛車のカミオネッタに乗って友人宅に行ってしまうのであった。アルゼンチン人の青年ペドロもミゲルも実に真面目に働き、特にミゲルの糸張りの技術は素晴らしいものだった。私が来るまでは、糸張りはミゲルとセニョーラの仕事であったらしい。私が来てからは、その仕事も大部分は私が占有してしまったので、その点がミゲルには不満であった。ペドロの仕事は相変わらず力仕事が多く、その中でもプンテアル(シャベルでの土お越し)は早さと仕上がりを私と競ったものだ。 

  私が仕事の中で一番好きだったのは、水掛であった。温室間にポンプを設備し、この動力によって水を引き、苗床に十分水を掛けるのも花作りにとっては大事な作業であった。このポンプに付随している蛇口からホースを引っ張り、その端を持って温室の端から端まで水を掛ける仕事はゆったりとした時間がもてる。その間ラジオをかけながら歌を歌うのが、唯一の自分の時間であった。「ディーガン ロ ケ ディーガン、 オイ パラ ミ」という当時最も人気歌手のスペイン人ラファエルの歌が、私は大好きであった。

水掛ける  温室の中  歌を歌う

花作り  大事な点は  心かな

 
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 27. 唯一の休日は、公園でスペイン語の勉強に

  仕事は毎日デ ソル ア ソル(日が昇って日が沈む)まで、花切り、水かけ、糸張り、針金張り、薬かけ、草取り、そして温室の補修などいくらでもあった。この10棟の温室を私とミゲル、ペドロ、そして杉田夫人の4人でやるわけだから、それはそれは大変であった。しかもミゲルやペドロは働く時間が決まっているし、土曜・日曜は仕事をしなかった。私の唯一の休日は日曜日の午後だけであった。

  私は、外国語に対してコンプレックスを持っていたので、人一倍スペイン語を早く覚えようという気持ちが強かった。杉田園にいて、仕事をしながらではとても覚えられない。ミゲルやペドロと話をしても、せいぜい挨拶程度の会話しかできなかった。そこで、一日も早くヒアリングを鍛えるために、私は毎晩ベッドの脇に日本から持ってきた唯一のラジオを置いてスイッチを入れ、その意味がわからないまでも、耳を慣らすためにそのまま放置しておくのだった。

  こうしているうちに、待ちに待った日曜の午後が来る。昼食を済ませて、早速自転車に乗り、エスコバルの中心にある街の公園へ行き、そこで日向ぼっこをしているお年寄りを見つけては、「ブエノス タルデス(こんにちは) ソイ ハポネス キエロ アブラール コン ウステ(私は日本人です。あなたとお話が出来ますか?)」という調子で尋ねる。ほとんどの場合、「シー シー コモノ (はい。もちろんいいですよ。)」と、オーケーの返事が返ってきた。こうして、私はつたないスペイン語で老人たちと話をした。暇をもてあましている彼らは、この私のつたないスペイン語によく我慢をしてくれて、最後まで付き合ってくれた。「ムーチャス グラッシャス セニョール(セニョール、本当にありがとうございました)」。こうして再び自転車に乗って、杉田園に戻るのであった。

  しかし、この大切な日曜日の午後が、いつも晴れとは限らなかった。よく雨が降り、そうなると杉田園からルータ ナショナル(国道)までの1キロ半の土道は、ほとんど粘土状で、とても自転車をこぐことなどできない。ましてや公園へ行っても、この雨では老人たちもいないであろう。従って、雨の日は杉田園で家族と雑談をしているしかなかった。

雨が降る 言葉の練習 できません

晴れてくれ 老人たちが 待っている

杉田さん 休みを少し 作ってよ

唯一の 言葉に慣れる ラジオかな

 
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 28. 杉田夫人の家出と杉田さんの愚痴

  杉田さんはたしかに農業技師としては優秀な人であったが、商売人としてはいささか問題があった。そして私が感じたところでは、この花作りの仕事を本気でやる気持ちが見られなかった。私をここに置いてくれたのも、本当は自分の代わりにやってほしいからであった。

  予想以上に私が頑張ったので、杉田さんはこれに甘え、午後からは毎日のように適当な言い訳を見つけては、友人の山田さんの家へ雑談に行き、帰りはグデングデンによっぱらって帰ってくるのであった。そういう旦那の態度に、杉田夫人は不満をぶつけるのであるが、お互いの意思が疎通することはなかった。今朝も朝食を食べ終えた後、夫人が突然私にこう言った。

  「川島君、すまないけど、これからブエノスに行ってくるわ。3〜4日空けるかもしれないけど、後はよろしく頼むわ」。こう言い残すと、3歳になったばかりの長男クラウディオを連れて、ブエノスの街へ行ってしまった。行き先を、誰にも告げずに。

  それからしばらく経って、杉田さんが起きてきた。「川島君、美智子はどこに行ったんだ?」、「今朝、朝食の後、ブエノスへ行くと言っていましたよ。3〜4日、家を留守にすると言っていました」。「そうか、またか。何が不満なんだ」。私にはその理由が何か、よくわからなかった。とにかく、いつものように働いて、農園を運営していく事が私の務めだったから。

  その晩は、先日遊びに来ていた杉田さんの後輩○○さんと○○さんが来た。「川島君、元気でやってるか?セニョーラ、いなくなったんだってね。いつものパターンだね」。半分冗談気味に話した。この日の夕食は○○さんが適当に用意してくれた。彼らには、食事よりもワインの方が重要であった。私はお酒には弱いので、○○さんが作ってくれたごはんと、フライパンで焼いてくれたカルネ アサーダ(焼肉)と味噌汁を食べて、何とか空腹を満たした。

  その後は、杉田さんの愚痴を黙って聞いてあげるのが、私の仕事であった。○○さんと○○さんは、もう何度もこのような経験を積んで来ているので、その点は熟知していた。いつもの通り、杉田さんはワインをがぶ飲みすると、そのうち眠たくなったのか、ベッドに逃げてしまった。「川島君、年が離れすぎているんだよ。だからなかなか意見が合わないんだね。結婚する前も色々もめて、最後にセニョーラが同情して、一緒になったといういきさつがあり、クラウディオが生まれたのも、結局かなり経ってからだからね。まあ、そのうち、帰ってくるだろう」。こうして、色々話していると、○○さんはセニョーラにかなり思いを抱いているらしい。年が近いということもあるが、なんといっても杉田さんは大先輩であり、その人の奥さんに恋愛感情を抱くことなど許されない。しかし、そういう思いを抱いているために、今まで何件もの見合いを断ってきたのだった。

けんかして ブエノスに行く セニョーラか

酒飲んで  愚痴を話せば  眠るだけ

 
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 29. 杉田夫人が無事に帰ってきた

  セニョーラからは何の連絡もなかった。その間杉田さんはカミオネッタに私を乗せて友人のOOさん宅へ行きそこで食事をご馳走になった。OOさんは杉田さんにとって静岡県の農業普及センターの大先輩であり、奥さんとは大恋愛の末に一緒になったそうだが、残念ながら子供には恵まれなかった。「杉田さん、大変だわね。まあ戻ってくるまで家に食べにいらっしゃい。川島君も来たばかりで忙しいわね」。こうしてセニョーラが戻ってくるまで、杉田さんと私はこの先輩の家に食事にやってきた。今回は一週間もたっただろうか、とうとうセニョーラはクラウディオを連れて帰ってきた。私を見ると「川島君、ごめんなさいね。ブエノスで色々する事があったから遅れたのよ。主人は今どこ?」。「杉田さんは今OOさんの家に行っています」。こうしてセニョーラのブエノス旅行は終わった。後はいつもの農園生活が続くのであった。私は内心「ああ、良かった。これで奥さんのおいしい料理がまたご馳走になれる」と喜んだ。この事が今の私にとっては一番大切なことであった。 

  この晩も、杉田さんはいつものようにグデングデンになって戻ってきた。セニョーラの顔を見ても何も言わなかった。そうしてすぐに寝室に入ってしまった。私にはまだこのような夫婦の間の複雑な関係はまるで理解できなかったし、また関係なかった。翌日、太陽の光線が壊れた壁の間から差込んで私の目に届くと、もう寝てはいられなかった。眠たい目をこすりながらすぐさま井戸端に走り顔を洗い直ちに温室へ向って、昨日終わらなかった糸張りを続けた。来たばかりの時は二人でないと出来なかった糸張りも、今では要領を覚えて一人でも十分はれるようになっていた。 

  都合のいいところで一旦仕事を中止し、私は朝食を取りに戻った。すでにテーブルにはセニョーラが作ってくれた出来たての朝食が用意されていた。豆腐の入った暖かい味噌汁とアルゼンチンで採れたお米の白いご飯と同じくアルゼンチン製の漬物そしてカルネアサーダ(焼肉)が一切れ置いてあった。私にはこれで十分であった。食べ終わると「ご馳走様」と叫んでそのまま再び温室へ戻っていった。やりかけた糸張り、そして今日は水掛の仕事も待っていた。この時刻になると、ペドロとミゲルがやって来て、各自別々の温室へ自分の仕事をしに行くのであった。

川島君  ごめんなさいね  もういいわ

口喧嘩  夫婦のことは  難しい

 
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 30. ドラム缶で作った五右衛門風呂 目当ては・・・

  となりには日系アルゼンチン人のホセ・ヨコヤマさんが住んでいた。彼は独り身で両親が残してくれた10棟の温室を二人のペオン(労務者)を使って経営していた。もうそろそろ40歳に達しようかと言う気さくな人物だった。会えば「川島さん、元気?オーラ、コモエスタス」と気軽に挨拶をしてくれるのだった。 

  その日も日が暮れるまで仕事をして「ああ、やっと終わったか、おなかが減った、飯だ、飯だ」私は独り言を言いながら食堂へ向った。 杉田さんは例のごとくまだ帰宅していなかった。おそらく先輩の家で管を巻いているのだろう。いつもの焼肉とご飯そして味噌汁の夕食を終えて、私がセニョーラに「ご馳走様」と言うと、「川島君、先に風呂に入って」と言われた。私は自分のガルポン(小屋)に戻り、着替えを持って風呂場へ向った。 

  ドラム缶で作った五右衛門風呂だったが、その日の疲れを取るには十分すぎるほどのいいお湯であった。十分体が温まり着替えて、それから私は十数メートル離れた自分の小屋に戻った。そして私は思った「セニョーラはこれからお風呂に入るのかな」そう思いドアの鍵の穴から風呂場をのぞいた。するとセニョーラが体を洗っている音がかすかに聞こえてきた。私は鍵の穴からじっと辛抱強く風呂場を見つめていた。壁の割れ目からセニョーラの細いきれいな手が見えてきた。私はその手を見ながらイメージを膨らますのであった。なんとなくその細い腕からふくよかな体が見えてくるような気がした。すると突然、ガサッと音がした。私の小屋の横の藪からだった。おそらくホセだろう。「ああ、ホセもセニョーラが好きなんだ」。私は急いで立ち去った。 

鍵の穴 遠くに見える 細い腕

一日の 疲れが取れる お湯かげん

 
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 31. 藤園園の前田さんの悩み

  杉田園の隣には藤園園があった。藤園さんは、九州の鹿児島出身で、結構年を取ってから移民したので、もうかなりの年配だ。長女の長子さんは、もう30歳になっていて、恋人はいないようだった。それで両親は心配して、郷里鹿児島から同年配の中屋さんという青年を呼び寄せていた。おそらく娘さんの相手として考えていたのだろう。しかしその中屋青年の他にもう一人、若い前田青年も呼び寄せていた。

  前田君は、私より一つ年上で、小柄ではあったが空手2段の達人だった。お互いに仕事が忙しく、なかなか二人だけで話す機会がなかった。でも、温室が近くにあったので、姿をちょくちょく見かけ、「こんにちは。がんばってますね」というような挨拶はしょっちゅう交わしていた。しかし、私のパトロン杉田さんと藤園さんはお互いの性格の違いからか、付き合いは全くなかった。したがって、呼ばれもしなかったし、こちらから呼ぶこともなかった。杉田さんは、もっぱら先輩の○○さん一辺倒であった。「杉田さん、隣に青年がいますね。一度呼んでくれませんか?色々話がしたいんですが」。「ああ、いいよ。うわさでは藤園さんは、娘の長子さんと中屋君を結婚させるつもりだね。そうなると前田君の立場が微妙だね。ただ前田君だけ呼ぶと、変な風に勘ぐられてしまうんだよ。私が前田君を雇うつもりだとか」。

  当市エスコバルには、およそ300家族の日本人が住んでおり、そのほとんどは花作りに従事している。したがって、この街が花の都としてアルゼンチンで有名になるのは、時間の問題だった。昨年初めて、当市においてフラワーフェスティバルが開催され、この一回目の花の女王コンテストにおいて、若宮さんの長女グロリアさんが優勝したのだった。とにかく日本人社会は狭く、どんなことでもすぐにうわさになってしまう。何々さんは温室十棟持っている、また○○さんはとうとう温室を20棟にした、このような話題が毎日のように飛び交う。おそらく、私がブルサコからこのエスコバルにやって来て杉田さんに引き取られたという話はもう、日本人社会では有名だっただろう。

  次の日、温室を通して前田君を探した。「前田さん、今晩杉田さんが夕食を一緒にしましょうと言っていますので、ぜひ来てください。私も色々お話がしたいんで」。「そうですか。それはありがとう。早速、パトロンに相談します」。こうして、その日は仕事も無事に終え、夜8時を回った頃、前田君がやってきた。「こんばんは。前田です。ご招待ありがとうございます。よろしくお願いします」。私ももう杉田園に来て1年以上になるが、顔はちょくちょく見るものの、こうして一緒に食事をするのは初めてだった。

  この晩、前田君は今まで溜まっていた分が突如噴き出したように、話し出した。私達が想像していたように、もう一人の青年中屋さんとの関係が非常に難しいらしい。前田さんは農業高校を卒業し、アルゼンチンで独立し、花作りで成功しようと夢見て来たのだった。藤園園に来たのも、同じ鹿児島県出身だということで選んだらしい。しかし、実際来てみると、なかなか独立するのは難しく、もうすぐ約束の2年を迎えようとしているが、独立の話はなかなか出ない。自分からは切り出せなくて、一人で悩んでいるとのことだった。

花作り 毎日の手入れ 命かな

前田君 頑張れよおい 強くなれ

 
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 32. アルゼンチンの景気と難しい独立事情

  このように前田君は2年後の独立を期待していたのだが、パトロンからはそのような話は全く出てこなかった。そんな時に、中屋さんが来たのだった。このことは前田君にとっては意外であった。しかも中屋さんは30歳を超えていた。考えて見れば、21歳の前田君と30歳の長子さんとでは、全くつり合わない。おそらく、それで新たに年の近い中屋さんを呼んだのだろう。

  独立させるといっても、温室を作ったり、土地を借りたり、その他水設備を整えたり、それは大変なお金と労力がかかる。そう簡単には独立を援助する事はできない。ましてや、時代も変わり、いまやアルゼンチンの経済も年々悪化している。「花より団子」で一般の家庭では、花を飾るより、少しでも食事を豊かにすることが当たり前になってきている。こんな社会情勢の中、新たに一人独立させるということは、競争相手をさらに増やすということにもなり、仕事はますます厳しくなる。

  しかし、前田君が今まで黙って頑張ってきたのは、ただただ独立して自分の夢をかなえることが目的だった。このままでは独立はおろか、ただのペオン(下級労務者)としてパトロンに都合よく使われてしまうのが落ちである。こんな時に、私達は前田君を夕食に招待したのだった。したがって、今までのうっぷんをはらすように、前田君は語るのだった。最近は三度の食事もよく通らないらしい。そういえば、顔色も少し悪かった。「前田さん、気を落とさないで頑張ってください」。私としてはそれが精一杯の言葉だった。

  その晩、前田君は赤ワインを何杯も飲み干した。九州男児は酒には強いと聞いていたが、これほどとは。一緒に飲んでいた杉田さんは例のごとくもう眠くなってしまったらしい。「君たち、すまないが、俺はもう失敬する」と言いながら、寝室へ向った。「川島君、パトロンがいい人たちで良かったね。奥さんも非常に魅力的な人だ」。そう言いながら、前田君は引き上げていった。

川島君 いいパトロンで 良かったね

独立は いつになったら できるのか

 
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 33. 前田さんが病に でも帰国すらできない

  しばらくして、前田君の姿が見えなくなってしまった。もうかれこれ2週間にもなる。私は心配して、その晩杉田さんに尋ねた「いつもは温室のどこかで見られる前田君の姿がありません。いったいどうしたんでしょうか?」 「そうか、まあその内に見えるだろうよ」。 しかしまた一週間たっても、彼の姿は見えなかった。そこで私は、杉田園から一番近くにある藤園園の温室で働いている中屋さんだろうと思われる青年に声をかけた。 「中屋さんですか?私はここ杉田さんの所で働いている川島と申します。前田君の姿がしばらく見られませんが、どうしたのでしょうか?」 「ああ、前田君ね。今胃潰瘍になって休んでいるんだ」

  その晩、思いがけない来訪者があった。前田君だった。げっそりして、3週間前に見た姿とはまるで違っていた。 「前田さん、どうしたんですか?」 「心配かけてすみませんでした。実は胃潰瘍になってしまって、今牛乳しか飲めないんだ。食事をしてもすぐ吐いてしまうんだ」 杉田夫人はそれを聞いて、早速おかゆを作った。「前田君、このおかゆだったら食べられるでしょ。さあどうぞ」 「すみません、セニョーラ。それではお言葉に甘えていただきます」 前田君はそのおかゆをおいしそうにスプーンで一杯、一杯すすっていった。私達が心配したように、後から来た中屋さんとの複雑な関係から生じたストレスがたまってしまったのが原因らしい。 このままでは仕事も続けられない。かといって日本に帰る費用もない。どうしていいか分からない日々が続いていたのだった。 

  私達アルゼンチンに来た農業実習生は、渡亜の為の船賃は日本政府が全て肩代わりしてくれたが、帰国のための費用は個人負担という約束であった。従って、前田君も私達も、日本に帰るには自分達でその費用を支払わなければならなかった。 約2年前にアルゼンチンに来た時は、アルゼンチンのペソのほうが日本の円にくらべて多少強かった。その後日本は歴史上かつてない高度経済成長を遂げて円が次第に強くなり、かたやアルゼンチンは政治の腐敗やインフレのためにペソの価値はどんどん下がってしまった。 従って、今日本に帰国するとしたら、その費用は1500米ドルにも達し、とても我々が簡単に支払える金額ではなかった。 もしこの金額をここで調達するとしたら、少なくとも杉田さんの温室の二棟を売らなければならないであろう。 前田君はどうする事もできず、毎日悩んでストレスはますますひどくなっていったが、とても治療に専念するわけにはいかなかった。

ストレスを  ためない様に  頑張れよ

独立を  夢見て過ごす  毎日を

 
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 34. 2年を迎えてもまだ来ない独立、マルデルプラタ旅行へ

  こうしているうちに、自分の身にも前田君と同様の問題が降りかかってきた。私も、杉田園に来てもう2年を迎える。当初、杉田さんは「川島君、2年間一生懸命私の園で働いてくれたら、その時は君の独立の手助けをしよう」と言ってくれていたが、この時期になっても独立のことに関しては何も言わない。考えてみれば、私はその一言のために、一生懸命今まで頑張ってきたのだ。これでは隣の前田君と全く同じではないか。性格的にあまりそういうことにこだわらないたちではあったが、前田君の例もあり、私にも少しずつそのストレスが蓄積してきた頃、杉田園に意外な人物の来園があった。

  それはブエノスアイレスから400キロメートル南下した、アルゼンチン随一の避暑地マルデルプラタの郊外で花卉業を営んでいる柴田さんであった。柴田さんは12年前はここエスコバルで、杉田さんたちと一緒にクラベル(カーネーション)栽培を営業していたが、需要と供給のバランスが崩れて値崩れし、さらに大借金をして温室を増やしたのがいけなかった。そんな時に、マルデルプラタ郊外の農業地の募集があり、それに応募して運良く当たったのだ。農地は合計12ヘクタールの大農場であった。ここに家族揃って移住し、今では温室15棟を持ち、大成功していた。たまたま今回杉田園に来園したのは、ブエノスアイレス市で花の品評会が開催されたので、それに出品すべく自分で作ったクラベルを持って来たのであった。品評会では、クラベルの大輪白色種の部門で見事に優勝したとのことで、そのことを伝えるために早速杉田さんに会いに来たのであった。

  「川島君、柴田さんだ。柴田さんは私の大先輩だが、現在マルデルプラタの郊外で20棟の温室を持っている大成功者だ。この度、ブエノスで行われた花の品評会に自ら作られたカーネーションを持ってきて、見事に優勝したのだ」。

  「へえ、それは素晴らしいですね。マルデルプラタとは、一体どこにあるのですか」。

  「そうか。川島君はまだマルデルプラタに行ったことはないのか。マルデルプラタはアルゼンチンで随一の保養地で、そこには二つのカジノがあり、一つは一般市民用、もう一つは金持ち用であり、そこに入るには男性はネクタイを締めないと入れないんだ。一度この機会に柴田さんの家に行ったらいい」。

  私はこの話を聞いて、とても興味を持った。このマルデルプラタには年間数百万の海外旅行者、特にヨーロッパからの旅行者が訪れて、カジノで遊んだり、何キロにも広がる白い浜辺で過ごすらしい。柴田さんはこの点に注目し、家族全員で移住したのだが、その成果は数年で顕著になった。20棟の温室は、すべてポチエチレン張りの温室であり、ガラス張りは1棟もなかったが、気候が非常に温暖で、品質を維持するにはまさしく最適の場所であった。しかも、土地は肥沃でほとんど肥料を入れる必要がなかった。私は独立のこともあり、このチャンスを早速利用した。「それでは柴田さん、早速マルデルプラタを訪れたいと思いますので、日時が決まったら報告しますから、その節はよろしくお願いします」。こうして、私の初めてのマルデルプラタ旅行が決定した。

新天地 マルデルプラタ 見に行くぞ

カーネーション スペイン語では クラベルに

2年経ち 独立を夢み ストレスに

 
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 35. マルデルプラタ柴田農園での決意

  まず最初にエスコバールのセントロ(中心)にあるバスターミナルに行き、マルデルプラタまでの時刻表を調べた。 それによると、最初はエスコバールからブエノスアイレスへ、そしてブエノスアイレスから別の会社のバスに乗りマルデルプラタまで行くのだ。 エスコバールを夜の11時に出発して11時45分にブエノスに到着し、そこから12時のバスでマルデルプラタには朝の6時に到着する。 私はこのバスで行く事にした。 アルゼンチンにおいては列車よりもバスのほうが頻繁に出ているし、値段も比較的リーズナブルで長距離バスの場合はほとんどリクライニングであり快適だった。 

  ブエノスからマルデルプラタまでの道はかなり立派であり、おそらくバスは百キロ以上のスピードを出していたに違いない。 私は席をいっぱいに倒して目を閉じた。 そしてそのまま眠ってしまった。 なんとなく周りがガサガサとうるさく感じて目を覚ました時は、既にマルデルプラタのバスターミナルに到着していた。 ここで新たにバスを乗り換える。柴田さんの農園に行くためにバイア・ブランカ行きのバスに乗り換えた。 農園はそのルータ(国道)15キロメートルの所にあった。 ここではきちんとした停留所がないので、その旨をドライバーに伝えておかなければならなかった。 「ポルファボール メ アヴィセ クアンド ジェゲ ア キンセキロメトロ(15キロメートルに着いたら知らせてください)」。この点は心得たもので、ドライバーは丁度いいポイントで下ろしてくれる。

    バスの時刻表がはっきり分からなかったので、柴田さんには何日の午前中に行くと言ってはあったが、正確な時刻までは伝える事は出来なかった。 下りた地点から柴田農園までは、かなりの道のりであった。 おそらく30分ぐらい歩いただろうか、やっとエスタンシア・シバタ(柴田農園)の表札を見つけた。 「とうとう着いたぞ」 そこから柴田さんの家に到着するまでが、また結構距離があった。 とにかくこの辺の移住地の一戸当たり平均敷地面積は15ヘクタールであった。 家の周りには、何棟もの温室が立ち並んでいた。 「柴田さん!いらっしゃいますか? 川島です。エスコバールの杉田さんの家でお会いしました川島です」 すると、家の中から柴田さんが出てきた。「おお良くこんな遠い所まで来てくれたな。 中に入って」 

  テーブルの上には、朝食が用意されていた。 「もうそろそろ来るかと思って用意してたんだ。 さあ皆で食事をしよう。」 柴田さん一家は家族7人の大所帯だった。 28歳の長男を頭に、次男、長女、三男そして次女と5人の立派な子供がいた。 今から10年前に入植したというから、当時は子供さんもまだ幼く大変な苦労をしたのだと思われる。 しかし10年たった今は温室20棟、こうして家族一丸となって働いたおかげで花の売上も伸び、最近は毎年花の品評会に参加できるほどの余裕も出来たわけだ。 

  マルデルプラタはブエノスから400キロ南に位置する。従って気候は本来ならずっと寒くなるわけだが、大西洋を流れる暖流が脇を北上しており、そのおかげで夏も比較的温暖で冬もそれほど寒くなる事はなかった。 この気候も花の栽培に非常に適していて、花の品質を高いものにしていた。 朝食後、杉田さんは温室を一棟一棟案内し、色々説明してくれた。 良く見ると、花の色もしっかりしていてガク割れも少なく、特に茎の太さには驚いた。 「素晴らしい花ですね。 これだけの花を作るにはどんな肥料を入れているのですか?」 「肥料?川島君、ここではほとんど使わないよ。 その代わり連作はしないんだ。 土地が十分あるから毎年毎年温室を新しい土地に移すだけだ。」 私は驚愕した。 まさかそんな事でこれほど素晴らしい花が作れるとは、考えても見なかった。 「そうか、私の来る場所はここだ。 ここでアルゼンチン一の花作りになろう。」 私はそう決心した。

 

花作り  大切な事は  ただ心

水掛と  糸、針金と  薬掛け

 
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 36. 断られた独立 どうにかなるさ

  帰りは柴田さんの長男和人君が、マルデルプラタのバスターミナルまで連れて行ってくれた。帰りも同じく夜行便で、夜の12時の出発だった。翌朝の6時にブエノスアイレスに到着し、そこでバスを乗り換え、エスコバルに帰った。「杉田さん、帰りました。おかげさまで色々勉強できました。ありがとうございました」。「そうか。それは良かった。柴田さんは元気だったかね?」。杉田夫妻のそういう答えの中には、何か不安気な気持ちが感じられないではなかった。おそらく、このマルデルプラタ旅行による私の気持ちの変化が読み取れたのだろう。

  早速午後から、杉田園でのいつもの作業に取り掛かった。しかし、私の心の中でマルデルプラタ行きの思いが強くなっていったことは確かだった。相変わらず、隣の藤園園の前田君の姿は見られなかった。「前田君はどうしているだろう。牛乳ばかり飲んでいても、どんどん体は弱ってしまうだろう」。だからといって、隣に堂々と挨拶しに行く勇気は、私にはなかった。こうして、また再びいつもの作業が続いた。

  何のことはない、私も杉田園に来てからあっという間に2年が経過してしまった。「そうか。もう2年か。俺も独立を考えなきゃ。しかし、ここにいては独立は全く無理だ。このままではマルデルプラタへ行くのが一番ベターだ」。このように考えたが、それを口にすることはなかなかできなかった。杉田夫妻からも独立の話は全く出てこなかった。むしろ、そのことを避けているようでさえあった。「ここに来た当初は、杉田さんもはっきりと言ってくれていたのに。2年間ここで働けば、独立させてくれると。そのために今まで一生懸命頑張ってきたのに」。ここで私は、ブルサコの渡嘉敷園の二人の青年のことを思い出した。「全くあの二人と同じ立場だ。今となると、本当に彼らの気持ちがよく理解できる」。独立の言葉を伝えることはできないままに、また数ヶ月が過ぎていった。しかし、私にとって、独立の二文字はますます重くのしかかってきた。明日は言わなくてはと思いながら、当日になるとどうしても言うことができなかった。

  そうこうしているうちに、杉田さんから話があった。「川島君、近頃の君を見ていると、何か心配事があるんじゃないか?良かったら言ってみなさい」。こうしてついに私はしゃべりだした。「杉田さん、私を独立させてください。もう、約束の2年が過ぎました。どうかお願いします」。「え!独立?まだ早いよ。少なくとも、もう1年は頑張ってくれなきゃ」。私はその杉田さんの言葉を聞いて唖然とし、同時にここでの独立は不可能だと悟った。そして、すぐに「わかりました。ここで独立ができなければ、私はマルデルプラタへ行きます。あちらの方が可能性があります」。

  このように言ってしまった手前、その後の具体的な話は何もできなかった。柴田さんを頼る事は杉田さんとの関係上、できないだろう。そうなると誰を頼っていいのか。全く想像がつかなかった。杉田さんは、そこはさすがにしたたかであった。そしてこのまま放っておけば、そのうちこの話も消えてしまうだろうと、たかをくくっていた。私は山本さんのことを思い出した。「そうだ。たしか山本さんはマルデルプラタに行っているはずだ」。山本さんも、以前何度か夕食を食べに来た杉田さんの後輩である。私と同じく千葉県出身で、農業高校を卒業し、しばらく静岡の農業研修所に勤務していたが、杉田さんや他の先輩方を頼ってエスコバルに来たのだった。そこで、いわゆる移住花嫁を募集し、その花嫁さんが来ることは来たのだが、悲劇はその時始まっていた。

独立は 誰もが思う 夢の夢

独立の 2年はあっと 過ぎていく

成功は 一日一日の 積み重ね

 
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 37. 前田さんとの別れ 杉田農園を出る

  山本夫人も私と同様に、移民船に乗って50日間の船旅を経験したのだった。山本夫妻の場合も、お互い全く他人どうしで、写真による見合いによって結ばれたのであった。その長い船旅の間に、山本夫人は本船に就業していた若いボーイと恋に落ちてしまった。そして50日間の船旅も終わり、ブエノス港に着いた時は、やれ結婚を解消するとか、日本にすぐ帰るとか、色々問題が生じたのだが、結局周りの亜拓の職員や山本さんのパトロン及び友人達の説得により、残ることになったのだった。だが、山本夫人のおなかには既にボーイとの関係によって残された若い命が宿っていた。もうその時は堕胎できる時期をすぎていた。山本さんはその点を全く気にかけず、夫人をいたわってあげたのだが、周りの人々の噂がすさまじく、結局エスコバルにはいられなくなってしまったのであった。そして、少しでも収入のチャンスが大きいマルデルプラタでの漁船員の仕事に流れていったのだった。

  私は同じ千葉県出身ということで、山本さんとは気心も通じていたので、彼を頼ることに決めた。「そうだ。最初は漁船員でも、何でもいい。ここにいても、ただうまく使われるだけだ。独立なんぞ、できっこない」。私の気持ちは決した。その日の仕事が終了すると、隣の藤園園へ行った。いざ気持ちが決まると、もう怖いものはなかった。

  「こんばんは。杉田さんのところにいる川島です。前田さんいますか?会いに来たのですが」。すると藤園さんの長女の長子さんが出てきて、「前田さんは隣のガルポンにいます」。前田君も私と同じように母屋から少し離れたガルポン(小さな小屋)で生活していた。私はガルポンのドアをノックし、「前田さん、川島です。開けてください」と声をかけた。「ああ、よく来たな。今開けるよ。こんな時間にどうしたんだ?」。私はただ前田君に別れの挨拶がしたかったのだ。せっかく知り合った友人に何の助けも出来ず、このまま別れていくのは非常に残念な気持ちであったが、どうすることもできなかった。「前田さん、私は明日、マルデルプラタへ行きます。ここでは独立は出来ません。杉田さんも確かに話だけは立派な人ですが、結局藤園さんや他のパトロンと全く同じです」。「そうだな。よくわかるよ。俺も、もう日本に帰るよ。今その帰国の手続きをしているんだ。川島君、俺の分まで頑張って、必ず成功しろよ」。

  こうして、前田君と別れの挨拶をしたのだった。明日はマルデルプラタへ行くのだ。ケ バ ア セル(どうにかなるさ)。こうして、私は未知の国へ出発したのだった。

ケ バ ア セル どうにかなるさ この気持ち

若さとは 冒険心の 追求さ

アディオスと 友に誓って 去ってゆく

 
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